第329話「おはよう、“閉ざす人”」
いらっしゃいませ。
是非に読んでいってください。
☆――☆
「はっ……はぁ」
吐く息が荒い。ここは春に近い気候だがもし冬ならば白い息が口から鼻から出ていて、夏ならば全身汗だくになっていただろう。
それ程までに、宵――オレたちは圧倒されていた。
切縁・ヴェールはパペット・イエルと同化すらしないままに倒れ込むオレたち三人を睥睨する。
「自らを年寄り扱いするのもなんだが、私めは産まれて永くこの世に留まっている。それだけ紫炎の扱いに割ける時間も多かった。
逆に貴様らは産まれて間もない赤子同然。私めに敵う道理はなし」
そもそもなぜオレたちはやられている? それすらもわかっていないのだ。
戦いが再開されて切縁・ヴェールは紫炎の数式を発動させた。その後すぐにこれだ。何をされたかもわからないままにオレたちは倒されたのだ。
「……涙月……アマリリス……体、動く?」
「……ごめん……力入らない」
「多分……体じゃなくて……魂の問題……だよ」
「その通りだ、アマリリス」
虚空から椅子を顕現して腰かける切縁・ヴェール。
魂の問題?
「貴様たちの魂を刺激した。神経を殴られるよりも衝撃が走り、脳を揺さぶられるよりも世界が回ったはずだ」
「……ぐ」
「筋肉に力を入れるだけでは動かないぞ、宵」
確かに、言われる通りに動かせない。力が入っている感覚はあるのに指先を震わす事しかできない。
待て……ならなぜ口は動く?
「勿論、私めがそうしたからだ」
「……オレたちから……聞きたい事でも?」
「いや、言わせたい言葉があるだけだ」
「な……に……?」
「私めはこれから貴様を殺すが、それを理由に涙月とアマリリスが狂ってしまうかも知れん。そうなれば私めも手を焼くだろう。
だから、貴様がこの二人を抑えよ」
眼球も動かせないから切縁・ヴェールに目を向けられないが、もしできていたならきつく睨んでいただろう。
殺されるわけにはいかないし、涙月とアマリリスを狂わすわけにもいかない。
「それじゃ……私を先に殺し……なよ」
「いいやそれはできない相談だな。涙月、貴様を先に殺して宵が狂わないと思うか? 前とは状況が違うのだ。今、宵に余計な刺激は与えられない」
もしまた涙月を殺されたなら、オレは切縁・ヴェールよりもまず自分を恨むだろう。
「それにしても、以前涙月を殺した時には驚いた。まさか宵、貴様が自力で立ち上がるとは。てっきりあのまま衰弱死するものとばかり思っていたが。
こちらの予想よりもずっと芯の強い男だよ」
「…それは……どうも」
「だがそれもここまでだ。
宵、二人に向かって言え。『逃げろ』と」
「「――!」」
逃げろ……? 二人を見逃してくれると?
「二人がここからいなくなったならば貴様を殺してやろう」
「できる……わけないじゃん!」
「良く考えろ。宵の覚醒が続けば世界は閉ざされる。その場合私めが時間を創る事になるが、そんな事態を引き起こしても良いのか? それが星冠の本意か? なあ、最高管理?」
問われ、最高管理は間髪入れずに。
<そうですね、その事態は避けたいところです>
こう応えた。
「理由も聞いておこうか」
<貴女が時間を創ったとしても一度閉ざされたならば今生きている命は終わるのでしょう?>
「だろうな」
<それは許容できません>
「我が身大事で善き手を否定するか」
<否定はしません。誰とて自分の命は大切です。ですがそれ以上に他者を思うものもいるのですよ、切縁・ヴェール、貴女の兄のように>
ぴくっと切縁・ヴェールの眉根が動いた。恐らく兄を出されて僅かながらに気に障ったのだろう。
「……そうか。
では、私めは宵を殺すしかないな」
<高良星冠卿とアマリリス嬢を狂わせたくないのでしょう?>
「ああ。だから――」
椅子から腰を浮かす切縁・ヴェール。その瞬間椅子が消えた。
「この二人は元の世界に戻す」
「……ふ…ざけ――」
「ふざけてはいないさ、涙月」
こちらに歩み寄る切縁・ヴェールの脚がオレの脇を通り抜ける。後ろにいる涙月の所に行くつもりだ。
「愛しいものの死など、見ないに限る」
涙月の背に手を置いて、その手に紫炎の数式が灯った。
「やめて……」
「何を? 貴様を逃す事を? 宵を殺す事を?」
「……両方……だよ」
「できないな。安心しろ、貴様は悲しむ事はない」
「……?」
「イエルの力で記憶を消してやる」
「――!」
それは、ダメだ。
「そして生きろ、宵のいない世界を」
涙月はきっと想像したのだろう。オレのいない世界を。だからこそ彼女の力は増大し、
「いやだ!」
「――⁉」
白き数式となって溢れ出た。
即座に距離を取る切縁・ヴェール。
「こ・の――!」
涙月の体から何かが軋む音がする。ミシっ、ベキッ、と。その音と共に倒れ込んでいた涙月の二の腕が体を支えて起き上がった。
「紫炎の数式の影響を消し去っているのか。乱暴だ」
「よー君! アマリリス!」
オレとアマリリスに向かって両腕を伸ばす涙月。アマリリスに白き数式が流れて自由を取り戻した。だが。
「あつっ!」
オレに触れた途端、涙月はその手を引く。
「よー君めっちゃ熱い!」
「“死まいの灯”――黒き数式が“産まれの灯”である白き数式を拒絶しているのだ。貴様たちは両極端にいる」
「んなもん愛には関係ないのだ!」
強引にオレに触れる涙月。その手が焦げる音と匂いがする。
「る……つき――」
「行くよよー君!」
白の数式が流れ込んで来る。体が悲鳴を上げながらも自由を取り戻し、オレは起き上がって落ちていた紙剣を握りしめた。
「だが、本当にこれで良かったのか?」
「何がさ」
涙月は火傷した手に治療を始める。
「わかったはずだ。もう、涙月と宵は触れ合えないと」
「「――!」」
「残念だな。愛とやらは宿命には勝てないらしい」
いいや。まだだ。
「今何とかなったし」
涙月もこう言うから。オレはまだ諦めない。
「延々と火傷を繰り返すのか? そんな――」
「バカでも良いよ。……んにゃ、私たちならそんな問題軽く飛び超えるね」
「……できればな」
ずっと切縁・ヴェールにあった笑みが消えた。不愉快になった感じはない。
これは……悲しんでいる?
<切縁・ヴェール、貴女は炎に産まれた。その宿命から逃げられなかったのですね>
「……どう思う?」
<貴女は紫炎を扱えるようになった。けれどもそれで失った命は戻っていません。それをずっと後悔していると見ますが>
「後悔はない。私めにあるのは未来を望む目のみだ」
即座の返答。きっとその言葉は真実なのだろう。だが。
<乗り越えたものは過去にも微笑む事ができるのですよ>
「そうか? 私めとは考えが違うな」
切縁・ヴェールの顔に笑みが戻った。
「まあ良い。決めたぞ、宵」
「何を?」
「貴様を“閉ざす人”として覚醒させてやろう」
「「「――⁉」」」
「その後貴様らのいない世界を構築する。そこに愛は――ない」
殺意。殺気。今までオレたちを弄んでいただけの切縁・ヴェールから感じられる気配が残酷に変化した。
同時にオレたちは一瞬間違いなく硬直してしまい、その隙を彼女は逃してくれなかった。
「――!」
気づいた時、殺気の威圧から立ち直った時、切縁・ヴェールの細く白い人差し指がオレの胸に突き刺さっていて――
「はッ……」
口から漏れる息と、ずっ……、と嫌な音と共に抜かれる指。
ホースから水が出るように血が噴き出す。
「よー君!」
後ろに倒れるオレを支える涙月。杖で切縁・ヴェールの頭部を狙うアマリリス。力の篭らないオレを支えきれずに膝を着く涙月。頭部を強打したはずなのにピクリとも動かない切縁・ヴェールにたじろぐアマリリス。
「良く宵を見ていろ、二人共。宵の人格が消えて世界を“閉ざす人”が現れる」
「――⁉」
オレを受け止めた涙月が黒い炎に飛ばされた。
「涙月!」
「アマリリス、貴様は私めに集中しなければ罰が発動しないのではないか?」
「あ――」
ごきん……、鈍い音が鳴った。切縁・ヴェールの肘打ちがアマリリスの杖を持つ右手の肘に当たった音だ。つまり、骨を折られた。
「つっ!」
恐らくは初めて感じたであろう激痛にアマリリスは座り込み、涙目になる。
その間もオレの体から出る黒炎は広がり続け、体を持ち上げた。
糸だ、黒炎の糸がオレの体にびっしりと張り付いている。その糸は密度を増していき――人の形を取った。
首に回される黒い腕、頬に摺り寄せられる黒い頬、船の帆に似た黒い羽、黒炎の髪、総じて黒炎の――女神。
「おはよう、“閉ざす人”」
それを見て切縁・ヴェールは酷薄に笑った。永く求め続けた相手を前に、誰にも理解されない感情を以て。
お・は・よ・う。
黒炎の女神の口がそう動いた。
「さあ閉ざせ、世界を」
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