第295話「追って来ない方が良いぞ。悲惨な現場を見る」
ごゆっくりどうぞ。
「これくらい!」
【覇―はたがしら―】の浮遊システムで問題ない。
「よー君!」
「うん!」
オレと涙月は二人手を繋ぎ合って、グルンと体ごと回転、涙月がオレを切縁・ヴェールに向けて撃ち出した。
「咬牙――桜蛇八叫!」
紙剣に乗せる牙と咆哮桜蛇八叫の力。
「皇波八叫!」
投げられた勢いも利用しての刺突。切縁・ヴェールの喉を狙った一撃は皮膚に到達し――火花が散った。
「ほう」
切縁・ヴェールの喉が動く。
「感心した。これは良い一撃だ」
紙剣と喉に現れた紫炎の数式が競り合っている。紙剣が砕ける事はないし、かと言って喉を傷つける事もない。
つまり、互角。
「だが、防がれたならばすぐさま離脱するべきだ」
「――!」
切縁・ヴェールの右手が動いた。
軽く、殆ど力を篭めずに放たれた手刀。それがオレの両手首を切り裂いた。
「ぐ……!」
「さあ離脱しろ」
オレのお腹に手を当てる。その手を切縁・ヴェールは少しばかり押してオレを強制的に離脱させた。吹き飛ばしたのだ。
「だっ!」
一度地面に叩きつけられてオレは無重力状態の公園に浮かんで。
「よー君!」
涙月の呼び声が聞こえる。ちゃんと届く。意識の方は覚醒している。手首に受けた傷の痛みのおかげで。
まずい……血管を切られた……。
流れ出る血の量は半端なものではなく。
「宵、貴様は治療に専念すると良い。
さあ涙月、貴様の番だ。貴様の力、鑑定してやろう」
「…………っ」
しかし涙月は切縁・ヴェールには向かわずにオレの方へとやって来た。
「(ふむ、挑発には乗らないか)」
それを見て、無重力の中でもベンチに腰掛ける切縁・ヴェールは笑う。
「よー君、二人分の【覇―はたがしら―】で」
「……うん」
【覇―はたがしら―】での治療。その間に切縁・ヴェールが動く可能性もあったが、そうするしかなかった。なぜなら涙月にぽつりと小声でこう言われたからだ。
「よー君、新しい力まだ使えない」
――と。
それならオレが先行するしかない。
「ごめん」
「良いよ」
それは涙月のせいではない。
「そろそろ血が止まった頃合いか」
脚を組む余裕を見せながら、切縁・ヴェール。
「涙月にはまだ時間が必要らしいな。それなら――」
切縁・ヴェールの右手中指と親指に紫炎の数式が宿る。
「その力、私めが精錬してやろう」
パチン! 切縁・ヴェールは指を、紫炎の数式を鳴り響かせた。
何だ?
目に見える変化は――ない。てっきり涙月に何かする気かと思ったけれど涙月の方にも異変は起こっていないらしくオレを見て首を振っている。
「そう急くな」
切縁・ヴェールの声にオレたちは弾かれたように彼女を見る。
「もうすぐ届くさ」
届く? 何が? ネットで何か注文でもしたのか。
「……ん?」
阿呆な考えを巡らせていると、涙月が吐息に似た一言を漏らした。
「涙月?」
「何か……聞こえない?」
耳に両手を当てている涙月。オレも真似てみるけれど――どこかで鳴っている戦闘音以外は聞こえて来ない。むしろ静かすぎて自分の心音が聴こえそうだ。
「涙月、オレの方には何も」
「……何か……声かな? いっぱいの人の声」
「どんな声?」
ちょっと怖い。
「何だろう? 何か……祈ってる」
「祈る……」
「ほら、お正月に神社でやる願い事みたいな……あれの音声をonにしたらこんな感じかな?
私、幻聴に罹っちまったかな?」
それはないだろう。原因があるとすれば先程の切縁・ヴェールの行動だ。
「涙月になにした?」
「世界中の人々の祈りが届くようにしただけさ」
それを聞いて涙月は両手で耳を塞ぐ。
「ムダだ。脳に直接届けている。そら、音を大きくしていくぞ」
一体そんな事をして何がどうなると言うのか。それはわからないがそうしている内に――
「――あ」
涙月が小さな呻き声を発した。切縁・ヴェールの言葉通りに音が大きくなっているのか。
「涙月!」
膝を折る涙月。そんな彼女の傍にいてオレが打てる手は――ある。
オレは希望に触れて涙月から切縁・ヴェールの力を引き剥がそうと試みた。
「それもムダだ。希望よりも撃ち込んだ数式の方が強い」
「――なら!」
オレは涙月から目を離して切縁・ヴェールに向かって手を伸ばす。
「あんたから希望を奪う!」
「できるならな」
オレの指先に希望が触れる感触。
同時に切縁・ヴェールが紫炎の数式に包まれた。
数式の幾つかがパリンッ、パリッ、と音を立てて割れて行く。
「ほぅ」
それを見た切縁・ヴェールの感嘆に似たため息。
「いや素直に感心した。私めの数式に逆らえるとは大したものだ」
しかし、希望を奪うには至っていない。
ダメだ、切縁・ヴェールには届かない。それならば。
オレは希望を奪う対象を変える。彼女の周囲から空気を奪って真空に晒す。
「成程成程。だが、紫炎の数式が人に必要な環境を用意できないと思っているなら少々残念だな。今人々の暮らしがどうなっているか思い出すと良い」
わかっているさ。アマリリスから放たれた暁の数式は人間の活動領域を遥か天の川銀河の先にまで広げたのだ。空気を作り、緑を作り、水を作り、大地すら作り出した。それなら極小さい範囲に必要な空気を作り出すなど造作もないだろう。だからこそ真空にする事にしたのだから。
けど。
「頭……が!」
振り返ると耳ではなく頭を押さえている涙月が。
「涙月!」
「割れるだろう? その前に吐き出した方が良いぞ? クラウンの通常のジョーカーは残してあるのだ。
祈りの声を吸収し、放出しろ」
何もかも――切縁・ヴェールの思いのままか。しかしそれ以外に涙月が解放される術がないのだとしたら。
「涙月! やって!」
「……ごめん……!」
涙月の体から霧のような光の粒が放たれた。無数の色を持つ光の霧。公園を包み込む程に広がって、渦を巻き始めた。
「さあ見ろ二人共。あれが涙月が扱うべき第五の元素、思念だ」
光の霧が収斂していく。
涙月の頭上で丸く渦を巻いて、集まって集まって、一つの球体になった。
「ふむ、まだ卵にしかならんか。だが――」
オレはすぐさま涙月を抱え切縁・ヴェールが『卵』と呼んだそれから離れた。抱えてわかったが涙月の体、かなりの熱を持っている。
「そう怖れるな。あれは失敗作だ」
「……失敗?」
「ああ」
今一度切縁・ヴェールが指を鳴らした。『卵』にヒビが入り、殻が割れた。中には――何もなし。
「やはりまだ産まれないか。今の涙月には少々荷が重いらしい」
それならば、と切縁・ヴェールは続ける。
「少しこちらで預かろう」
「――⁉」
オレは目を瞠った。切縁・ヴェールの言葉に驚いたのではない。腕の中にいたはずの涙月が消えたからだ。
「こっちだ」
自分の腕に落としていた目を切縁・ヴェールに向ける。その彼女の腕の中に、涙月が。
「涙月!」
「ふ」
切縁・ヴェールの指先から紫炎の数式が放たれる。オレの頭の中で何かが弾けた。視界が滲む。立っていられない。冷や汗が流れる。
なん……だ……。
助けるべき涙月を前にしてオレは情けなくも倒れ込む。そんなオレを一瞥して切縁・ヴェールは涙月を抱えたまま立ち上がり、無重力状態を解除した。
「追って来ない方が良いぞ。悲惨な現場を見る」
切縁・ヴェールの背後にどこかへと続くゲートが現れる。
「まあ、これは開けたままにしておくがな」
遊んでいるのか、それとも全てが切縁・ヴェールの目的の為に必要なのか。彼女はそう言うと涙月と共にゲートの向こうへと消えていった。
「る……つき――」
感覚すら失ったオレは必死に腕を伸ばす。伸ばした気になっている。実際は全く動かせていなくて。ひょっとしたら声すら出ていなかったのかも。
世界を護ると誓って星冠にいるのに……涙月を護れもしないのか!
オレは無力感に苛まれながら、瞼を閉じた。
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