十音’s 001「なんか、前方に不審な人影が見えるのですが……」
「十音さん、十音さん!」
東十音さんは、人体蘇生の持ち主です。
といっても、彼女はもともとその能力を持っていたわけではなく、その成長の過程において手にした能力なのだそうです。つまり、努力の上で手にした、いわば最も人間らしい能力なのです。
しかし、彼女にその話をすると、
『いやいや、そんなことないよ。まあ、あたしってすぐ怪我しちゃうからさ。治るのが速くなったってだけだし、耐えられるようになっただけだけどね』
と、彼女は自分を卑下しますが、その能力は人間をはるかに超えています。
『やめてよ、恥ずかしいじゃん』
小さな体で、長いツインテールをぶんぶんと振ります。
顔を覆う手は小さく、顔が紅潮しているのがよく分かります。
そんな彼女に丁度いいほどの風が、優しく吹きます。
空を見上げると、濃淡がはっきりしている星空が、全面を覆っています。
夜。
私達は、情報少女の口コミから、パトロールに向かっていました。
まあ、王宮出身の私が付いていったところで足手まといにしかならないのは、火を見るよりも明らかなのですが、それでも彼女のご厚意によって、付いていくことを許可されたのです。
『君は、友達だからね』
何の臆面もなくそんなことを言えるのは、きっと彼女だけでしょう。
私達は目的地に向け、砂利を鳴らしていました。歩く道の両脇には、身長の何倍もありそうな木々が植えられています。草の鳴らす音が私たちの世界で響き続けます。
「どしたの?」
十音さんの銅色の髪の毛が揺れます。
「なんか、前方に不審な人影が見えるのですが……」
「え?どこどこ?」
「あ、ええと、200m先です」
十音さんは、目が見えません。視力が0.1以下などというレベルではなく、もう完全に。光さえも、入ってこないそうです。
そのため、彼女は嗅覚と聴覚で世界を認識します。
嗅覚で距離を、聴覚で周りの環境を把握する彼女ですが、この時期―つまり、春ごろ―は、花粉症で鼻が全く利かなくなるので、補佐が欲しいというのは本当だったようです。
「ええと、はいはい、ああその辺ね。あれは、違うな」
彼女のその感覚は、私達の視覚をはるかに超えているのも、特徴の一つです。
というか、恐ろしいです。
「違うんですか?」
私の素朴な疑問に、彼女はツインテールを横にぶんぶん振りながら答えます。
「違うよ、あれは鹿」
「え、鹿ですか?」
鹿というのは、絵本の中でしか見たことがありません。
「何をそんなに怖がっているの?」
気づけば、私の両手は震えていました。
いやいや、まさかとは思いますけど。一応私だって、物語の世界と現実の世界の区別くらいはつきます。それくらいには、育っているはずです。しかし、人間というのは奥深いところの記憶で自我を形成しているようで―つまり、私は今、鹿という未知なる生物に対しての恐怖心でいっぱいになっているのでした。
「……い、いやあ、その」
両足に力が入ってしまい、私は動くことができません。
「ただの鹿だよ。普通そんな悪役に描かれないけどな。あれ、もしかして食べたことない?」
腰に手を当てて、彼女はしたり顔でこちらを見つめます。
私より小さい体躯の彼女の方が、お姉さんのようです。
「……はい」
もしかすると、豚肉や牛肉と偽って鹿の肉を食べたことがあるのかもしれませんが(王宮で、そんなことは無いとは思いますが)、鹿を鹿として食べたことはありません。
「だって、鹿って2mくらいあって、時速100kmで走ってくるんですよね? しかも、人間が大好物だとか」
「それどこ情報よ」
はあ、とため息をつき、彼女は背負っていた弓を取り出します。
「だ、大丈夫なんですか?」
「なめてんの? あたしは、目の前のごちそうを見逃すほど、思考ぐるぐるウーマンじゃないっての」
「よく分からないのですが」
「とーにーかーく、ちょっと待っててよ」
彼女の動作に、一寸の無駄はありません。
完璧な動き、完全な姿勢。
耳で観て、鼻で視る。
ゆっくりとした動きで狙いを定めて、彼女の思いのまま、彼女のように、矢は放たれました。
開かれた眼に、一瞬で落ちそうです。
「今日は、もみじ鍋だ!」
しかし、彼女の問題は消えることはありません。
どうしてこの森は、杉でできていたのでしょうか。
「ぶえっくしょい!」
放つ瞬間―私には、放った後なのか、放った前なのか、判断が付きませんでしたが、その瞬間に、彼女はスギ花粉によって鼻を襲われ、矢よりも速い運動を、鼻の中でしてしまいました。要は、くしゃみをしてしまいました。
迷うことなく真っ直ぐと突き進むはずの矢は、数m先に突き刺さりました。
「……ああ、やっちゃったよ。矢は届いた?」
「いいえ。そこに刺さっちゃいました」
「やっぱりか。で、鹿は今どこにいる?」
刹那。私は途端に寒くなりました。冷たい風が吹き、震えが止まらず、視界が狭くなっていくのを感じます。
「おーい、だから、どこに……」
彼女もこの非常事態に気づいたようで、とっさに次の矢を構えました。
「どこだ」
トーンの違いから、身が引き締まります。
「……分かりません」
答えることが、できませんでした。
「落ち着け。落ち着いて測れ」
「……500、400、300、200m先に、って速いです!」
「何⁈ とりあえず、方角だけでも」
「西です」
ようやく分かったところで、それはすでに遅かったのでした。
「ヘッドホンで大音量の音楽を流せば、分かりませんよねー?」
そこにいたのは、奇妙なほどにやせ細った、男の人です。
「お久しぶりです、お嬢様」
その声に、私は反応しません。