2 バレンタイン
魔法学校の入学試験を終えた翌日。
夜美は受験期間により、学業を免除されていた。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
亮夜を玄関まで見送った後、夜美は一枚のメモを確認した。
そこに記されているのは、チョコレートの作り方。それも、ふわふわのチョコケーキの作り方であった。
明日、2月14日はバレンタイン。
親しくしている男性に、女性が手作りのチョコレートをあげるという、なんともロマンチックなイベントであった。
もちろん、夜美も亮夜に、あの時から毎年プレゼントしており、その度に素敵な笑顔と、幸せな一時が貰えるのは、言葉にできない喜びであった。
毎年、違う種類のチョコレート製作をしており、今年に製作するのはチョコケーキであった。
受験があったとはいえ、夜美からすれば、亮夜に義理を示す__色っぽい意味合いではなく、あくまで兄妹としての義理である__絶好の機会。このくらいのことで、製作をあきらめるわけにはいかない。
そもそも、最近の学校は、受験がバレンタインの直前に行われることが多い。一説には、若い子の恋愛を促進させるためということらしい。
当事者には、そのことは対して変わらないのだが、気兼ねなく作ることが出来るのは、夜美にとって歓迎すべきことであった。
シミュレーションを万全に済ませており、その上で完璧にこなす。
事前の準備は万全だ。
そのために、夜美はさっそく買い物に出かけることにした。
2月14日。
今日も夜美を家に残して、亮夜は学校へ向かった。
今日はバレンタインだが、亮夜にとって楽しみは一つある。
それは、妹の夜美から、チョコレートを貰えるということだった。
それだけだと、もてない兄の嘲笑話かもしれないが、亮夜にとって、嘘偽りのない、本心から言える楽しみであった。
それに、バレンタイン独特の甘酸っぱい雰囲気も嫌いではない。
最も、彼にとって、妹を除けば、いつもの、でも少しだけ変わっている程度の日と認識していたのであったが。
教室に入ると、案の定、チョコレートを渡そうとしている女子がそれなりにいた。
ひと昔前の、机に入れるスペースはないので、机に忍び込ませてチョコを渡すという芸当はできない。ちなみに、靴箱もないので、そちらにチョコを入れるということもできない。
つまり、よほど策を講じなければ、直接渡すことになる。
それがいいのか悪いのかは、亮夜には判断がつきにくい所であった。
そんなことを考えながら、いつものように過ごしていると__。
「舞式くん!」
同じクラスの女子生徒から声をかけられた。
「あの、これ、受け取ってください!」
渡されたのは、小さな袋。透明の中に入っているのは__。
「もしかして、僕にかい?」
「は、はい!」
つまり、バレンタインのプレゼントだそうだ。
__亮夜はあえて、その先を考えようとはしなかった。考えただけ、憂鬱になるのが目に見えているどころか、知っていたからである。
もちろん、そんなことはおくびにも出さず、
「ありがとう。受け取らせてもらうよ」
丁重に受け取った。
周囲から怨念が押し寄せてきた気がするが、亮夜は無視した。
「ずるい!」
「私も!」
その女子生徒に感化されたのか、複数人の女子生徒が押し寄せて、次々とチョコレートを渡した。
その度に周囲からの怨念が強くなってくる気がしたが、やはり亮夜は無視した。
クラスの女子の約半分が渡しに来た後、授業を終えた亮夜の耳に入り込んできたのは、やはりチョコの話題であった。
「舞式、いいよな、お前はそんなにチョコをもらえて」
男子からの妬みまじりの発言。
「舞式君、私のチョコ、食べてくれるかな?」
女子からの何らかの願望が混じった発言。
類を見ない程、この上ない居心地の悪さを感じた亮夜は手を洗いに行くことにした。
意外というには疑問を覚えるかもしれないが、亮夜も身だしなみには気を遣っている。ただし、潔癖症の人とは違い、許容範囲はかなり広い。ある意味では、無頓着とも言えた。最も、亮夜本人としては、気が向いたら程度の認識である。
手を洗いに行き帰りしている間に(貰ったチョコは置いてきた)も、何度かチョコを渡すシーンが見られた。
生徒会のあの二人も仲がいいと少し思い出したが、すぐにその考えを消すことにした。どうせ、自分が考えた所で、何の楽しみも利もないからである。
とはいえ、今日は生徒会に呼び出されている。どうして部外者であるはずの自分が色々な意味で個人的なコネクションを持つことになったのか、疑問に思わないでもないが、ひとまずは目の前の扱いが最優先だ。
そう、彼の目の前には、3組のクラス委員長、鏡月哀叉がいた。
「哀叉さん、どうしたんだい?」
「いえ、その・・・」
廊下などを歩いている時に彼女に会うのは、1週間に一回あるかどうかだ。
そもそも、階層の都合もあるので、基本的には行き帰りにたまたま会うか、移動中に偶々会うかの二つしかない。
まして、普通に話すとなると、もっと頻度は少なくなる。
それでも、学校の立場を抜きにしても、なぜか会うことが多いと、奇妙な縁を感じながら、亮夜は辛抱強く、哀叉は何が言いたいのかを待った。
十秒ほどかけて哀叉は小さな袋を少し恥ずかしそうに出した。
この日に、この状況となると、考えられるのは一つしかない。
「もしかして、僕にプレゼントかい?」
おこがましくならないように、なおかつ、無頓着だと思われないように、精一杯気遣った言葉を、亮夜は贈った。
「は、はい・・・」
哀叉が小さく頷くと、亮夜は上から優しく袋を取り上げた。
「ありがとう」
亮夜はそう呟いて、次の行動を伺った。
しばらくすると、哀叉は去った。
それに合わせて、亮夜も教室に戻ることにした。
しかし、考えても意味のないことを、亮夜は考えていた。
どうして、あそこまで丁重に受け取ろうとしたのだろうか。
何かと不思議な気持ちになるのだが、それは__。
「・・・まさかな」
人のことを好きになるなんて、ありえないことだと、今の亮夜は思っていた。
6年前のあの事件で、亮夜の感情から、「好き」という感情は壊れた。
夜美を除いて、本心から信用することはどうしてもできない。
親しくできそうだと感じると、もう一人の自分が悪魔のように囁いてくる。
__また、信用するのか。
__また、失いたいのか。
__また、裏切られたいのか。
もう一つの意識に囚われた彼は、いつしか夜美を除いて、孤独に生きるのが普通になった。
自分の認識として、表面的に利用し合い、深く関わらない。
それが、亮夜の出した、人付き合いであった。
一応の親友である、高本陸斗や、花下高美にも、同じような考えで接しているし、それが今の自分の生き方だと、亮夜はそう思っていた。
そのはずなのに__。
この思考経路を捨てることでしか、今は、この疑問が解決することはなかった。
その後、高美から義理チョコを貰ったことに、なぜかほっとしたことを覚えた亮夜は、かなり疲れていると感じ始めていた。
妹以外からチョコを貰ったのはこれが初めてではないのだが、今回はかなり多かった。
そのせいなのかは分からないが、酷く疲れを覚え始めていた。
生徒会は顔を出すだけで帰ろうかと思いながら生徒会室に入ると、同じく憂いの顔を見せている男子生徒がいた。
「亮夜か。よく来たな」
「恭人さん。随分、お疲れのようですが・・・」
思わず敬語混じりになってしまったほど、冷宮恭人は疲れている顔を見せていた。
「お前にはそう見えたか。毎年、バレンタインには悩まされていてな・・・」
いつになく素直に弱音をはく恭人を見て、亮夜はどう声をかけたらいいか分からなかった。普段の彼なら、このような弱みを見せるとは考えにくいし、すぐに取り繕おうとする方が、亮夜の中での恭人への評価であった。
「私はモテているし、お返しを返すのに不満を覚えているわけでもない。チョコが嫌いというわけでもないのだがな・・・」
それだけを聞くと、大半の男子生徒が嫉妬に狂いそうだが、亮夜は嫉妬の感情とは無縁であったので、続きを気にして待っていただけだった。
「どうやって相手の愛に応えればいいのか、毎年悩まされるのだ」
「奇遇ですね。僕も似た悩みを抱えているのですよ」
「ほう、お前もか。どう応えればいいのか、最善が中々思いつかなくてな」
「ええ、以下に影響を与えずに綺麗に終わらせられるか・・・」
「失礼に思われぬよう、なおかつ、過剰な好意を抱かせないようにしないといけないからな・・・」
モテている男子同士(?)の奇妙なお悩み相談は、意外なほどに盛り上がりを見せた。
「全く、お前とこんなくだらない話で盛り上がるとは思ってもいなかったぞ」
「恭人さんはどんな時でも真面目なんだね」
「当たり前だ。一流の貴族たるもの、いついかなる時でも真摯に取り組まねばならん」
「その割には、随分疲れた顔を見せていたと思うけど?」
「あの程度じゃあ、ポーカーフェイスにはならないか。いや、こんなことで悩んでいる時点でまだまだだな・・・」
話している間に、亮夜の話し方も随分砕けていた。
しかし、恭人は真面目がすぎて、息抜きの仕方とか知らないのだろうか。そう思わせるほど、恭人の完璧主義は引き立っていた。
「ところで、会長や副会長は?」
「会長と颯樹先輩は屋上にいるはずだ。副会長たちは、見回りをしていて、私はここで報告を眺めていた」
「会長は僕に来てほしいと言っていたけど、正直帰りたいんだけど・・・」
「宮正会長は、そういうことを気にすることは少ないだろうから安心しろ。もう来るだろうから迎えの一つくらいしてもいいだろう」
恭人がそう言うと、ドアが開く音がした。
「帰還した。異常はないか?」
「問題ありません。会長、亮夜がここに」
「そうか。ほれ」
雷侍宮正が懐から小さい袋を取り出すと、亮夜に投げ渡した。
亮夜はそれを苦労せず、上手くキャッチした。
「一応、世話になっているからな。受け取りたくば、受け取るがいい」
はっきり言って、失礼というか、チョコを渡す態度とは思えないのだが、宮正がそう振る舞うだけの事情があると亮夜は知っていたので、丁重に「ありがとうございます」と言い返して、亮夜は懐にしまった。
「雷侍さん、さすがにその渡し方はどうかと思いますが・・・」
「・・・素直に渡すと、お前に文句を言われそうだったからな。すまんな、亮夜」
「分かっていますよ。むしろ、気軽な渡され方をされて、こちらは楽でしたよ」
後ろに続いていた、桐谷颯樹が、宮正の食べ物を雑に扱っているのを非難すると、宮正と亮夜がフォローに回った。
「ほう?恭人と同じく、異性の心を鷲掴みにしすぎて、甘き供物を処理しきれないのが不満であったか?」
一方で、亮夜の妙に喜んでいるような態度を見て、宮正は疑問を尋ねた。
「チョコより心の方が大変ですからね」
「そうかも知れませんね」
「颯樹、我の方に向けて話すのは止めてもらいたいな。それとも、我の甘き褒美は不満であったか?」
「いえ、全く」
「ならば、ここで食してみせてくれ」
そんな打ち解けた雰囲気が、4人を楽しませた。
「しかし、チョコレートに縁のある奴がこんなに少ないとはな。まともに楽しんでいるのは宮正会長くらいじゃないですか?」
「全く・・・。ホワイトデーでもうひと暴れしてやろうか?」
「宮正さん、その行動力をまともに扱えないんですか?」
「お前までそれを言うか!?」
「颯樹先輩の言い分はごもっともだと思いますが・・・。プライベートの時の会長、色々ずれているというか・・・」
「1年の小童に言われるとは思いもしなかったぞ。くだらない思考など、最初から放棄しておくべきだったな」
「考えたら、誰が得するのか、分からないイベントですよね」
「チョコは嫌いではないが・・・。損得では、考えにくいにも程があるな」
しかし、気が付いたら、バレンタインを糾弾するような内容になり始めていた。
言いたいことは理解できなくもないが、余りに実りがない会話内容だ。
亮夜はもう帰ることを伝えて、学校を出ることにした。
中学までとは勝手が違う生活。
優秀を通り越して、化け物扱いされることすらあった亮夜は、普通の生活には疎かった。
高校に入ってからは、ド素人として見下されることはあったが、一部の抜きん出た能力が、学年や実力に問わず評価されることには変わりなかった。
一方、魔法解放を進める道として中枢へ飛び込んだことで、多少なりとも注目を集めることとなった。
その結果、誰かと関わることが多くなって、このような下らない話で盛り上がることも出来るようになってきた。
それと同時に、人間の「闇」を改めて見せつけられる気分になってくる。
自分が「闇」を抱えていないと言えばウソになる程度には、自分のことを理解しているのだが、そうだとしても、「闇」を糾弾したくなってくる。
それが、自分を否定することと同じであるのに、どうしてそのようなことができるのか。
矛盾に気づいているだけ、亮夜は優れている人物なのかもしれないが、それが実行できない程度には、亮夜は子供であった。
そのような矛盾につかれを覚えていた亮夜が家に戻ると、夜美が玄関で待っていた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ああ、ただいま、夜美」
いつものように迎えに来た夜美。
服装も、いつもより可愛い感じになっている。
今日はアレなので、きっと用意しているだろうが、堂々と尋ねるのも腰が引ける。
ワクワクとドキドキが同居した感覚に、亮夜は焦りを覚えながらも、それを表に出さぬように、身支度を整えた。
その日の夕食は、いつもより質素で、少なめだった。
「ご馳走様でした」
多少の物足りなさを覚えたが、亮夜は終わらせようとした。ほぼ確信していると言えるレベルで、まだあるとは思っていたのだが、あえて夜美から声をかけさせるように仕向けた。
「待って!」
案の定、夜美は亮夜に声を掛けた。
亮夜も、予定調和の如く、妹の声に合わせて止まる。
「もうちょっと・・・待ってくれる?」
夜美に改めて椅子に座らされた亮夜は、夜美が用意するのを辛抱強く待った。
そして、彼の目の前に用意されたのは__。
「・・・もしかして、チョコケーキ?」
「・・・うん、その、バレンタインだし・・・」
「僕にかい?」
「お兄ちゃん以外に誰に渡すの?」
少し気になる話もあったが、夜美からのチョコケーキを丁重に受け取る方が重要だ。
それにしても、6年近く同じことをやっているのに、毎回こうしてじらそうとするのは、自分の性格が悪いのだろうか。それとも、夜美を妹以外の目で見ようとしている現れなのだろうか。
いずれにせよ、今、言えることはただ一つ。
夜美からのチョコレートは、言葉にし難い喜びであった。
「ありがとう。・・・おいしい」
「!!」
一言、おいしいケーキに対して、そう返すと、夜美はふにゃりと実に嬉しそうな笑顔を、照れているのを隠さずに見せた。
「良かった・・・。おいしいと言ってもらえて」
「去年も似たようなことを言っていなかったか?」
「あたしは・・・お兄ちゃんのためを想って・・・」
「冗談だよ。何なら、いつもらったって大歓迎さ」
「もう・・・お兄ちゃんったら・・・」
「改めて・・・ありがとう。これからもよろしく」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
兄妹にしては、甘く、濃い時間。その雰囲気は、二人を幸福に、静かに包み込んだ。




