第二話 『鉄の臭いと人工呼吸』
鉄の臭いがする。
錆びたような、饐えたような……人を不快にさせる臭い。
多分それは本能だ。
何故ならば、その臭いは。
ヘモグロビンの……血の香りなのだから。
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「……あ?」
目を開けると、そこは森の中だった。
視界に広がるのは木々。
背中に感じるのは雑草のチクチク。
明らかに森林以外の何物でもない場所だ。
「あれ……トラック、は……?」
いや、そもそも道路すらない。
轢かれたところからは移動している。
俺の最後の記憶から断絶があるみたいだ。
「病院、なワケがないよな」
こんな開放的な病院があってたまるか。野戦病院かっての。
「どこだここ?」
見渡す限り、木、木、木。
人の声も聞こえない。
随分深い森の中のように思える。
「分かんないな……ん?」
変な匂いがする。
そうだ、俺はさっきこの臭いを気にしていたような……。
なんだっけ……そうだ、コレは確か……鉄。
血の、臭いだ。
「……え?」
それに気がついてしまえば、その方角を見ずにはいられない。
そして、見てしまえば、気づかないフリはしていられない。
さっき辺りを見た時には気がつなかった死角。
寝転がっている俺の、真上。
そこに、時計で言えば丁度六時の時の短針と長針のように。
女の子が転がっていた。
「う、うわぁっ!」
慌てて身を起こす。
助けなど来ないであろう森の中。
目を瞑って倒れている女の子。
血の臭い。
え?嘘だろ?
まさか。
まさかこの子は……俺が?
いや違う。あの時トラックに轢かれかけていた女の子じゃない。
年齢がどう見ても違うし、そもそもここが全然あの時の場所と違うじゃないか。落ち着け。
一瞬、俺が突き飛ばしたせいで殺してしまったんじゃないかという恐ろしい想像をしてしまった。
違うみたいで良かっ……
……って、そうでじゃないだろ!
「お、おい!大丈夫ですか!?」
知らない人だって、倒れていたら助けなくちゃダメだ。
駆け寄りながら右手でズボンの側部を漁る。
まずは救急車、それから人工呼吸?いや気道確保からだっけか?
とにかく電話を……。
「あれ?」
なかった。
電話が、ではない。
ポケットがなかった。
「なんだ……この服?」
いつもの、機能性重視な有名量販店で買った単色ジャージじゃない。
素材からして違う。これは……麻?
いつの間に俺は着替えたんだ?
いや、それだけじゃない。
「この手……何だ?」
俺の太くて短い指じゃない。
スラッと長く、それでいて筋力を感じさせる手。
肌の色も違う。俺は家から出ないせいで日焼けなんてしていなかったが。
それでも黄色人種としての枠からはみ出していた訳ではなかった。
「白人、だ……しかも痩せてる……」
体が軽い。こんな感覚、久々に味わった。
まだ違和感は他にもある。
「俺の声じゃない……」
俺はもっとくぐもった、コンビニの店員にすぐ聞き返されるような声だった。
もし働くなら声優にでもなろうかな、と一瞬考えて、一瞬よりも短い間で諦めるくらいの声だ。
こんな溌剌として透き通った声ではない。
これは、おかしい。
これは一体。
「誰の、体だ……?」
そう、少なくとも。
俺の体ではなかった。
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「だ、大丈夫ですか?」
未だ混乱の極地にあったが、俺は俺のことを一旦置いておくことにした。
俺が自分の体のことを考察している間に、目の前の女の子に何かあったら取り返しがつかない。
動きやす過ぎて動かしにくい自分の体を操って、何とか女の子の元へ駆け寄り肩を揺すりながら問いかける。
「返事を……返事をしてください!」
「……」
返事はない。ただの……。
やめろ!縁起の悪い想像は!
薄緑色のワンピースに包まれた慎ましい胸を見る。いや、慎ましいと言っても女の子らしいサイズはあると言っていい。そのせいで、呼吸があるのかないのか童貞の俺にはパッと見で分からないのだから。
「じ、人工呼吸、するしかないのか?」
「……っ!」
ぴくり。
「お、おい!今動かなかったか?」
「……」
気のせいか。
し、心臓マッサージからすべきなんだっけ?
わ、分かんねぇ。確か人工呼吸が先だったような気もする。
二回息を吹き込んで、それから胸に手を当てて何度か圧迫。そんな感じだ。
あぁ、こんなことなら保健の授業を真面目に受けておくんだった。
もう一度女の子の顔を見る。
知らない人のはずなのに、何故かこの娘だけは助けてあげないといけないような気がしてくる。
顔が可愛いとか、それだけじゃなくて。もっと……本能のような感情。
「じゃ、じゃあ……しますね」
やるしかない。知識が拙くても、やらないよりはマシだろう。
携帯がなくて救急車を呼べないんだ。俺が何とかするしかない。覚悟を決めろ。
でも俺なんかが女の子にキス……じゃない、人工呼吸なんてして、意識を回復した時にトラウマになってしまわないだろうか?
あ、いや待て。自分の顔も以前とは違うのだろう。鏡を見れてはいないが、少なくともデブではない。
なら大丈夫か。いや何が大丈夫なんだ。何も大丈夫ではない。
どうやらかなり混乱しているらしい。
落ち着け。冷静になれ。これは人命救助だ。
決してやましい気持ちがあるわけじゃない。
「……すぅー」
息を大きく吸い込む。これを彼女に吹き入れるのだ。
あまり一気に入れすぎるのも良くないんだったか。
1秒位かけて吐くのがベストだった……と思う。
横たわる女の子の唇を見る。
桜色で柔らかそうな、ぷっくりとした唇。
リップを塗っているのか、少し光っていた。
ここに、俺は、今から……。
「ん」
吸い込み終わった。
目は瞑るべきだろうか?それがキスのマナーだと聞いたことがある。
……って違う!見えなくなるのは良くない。目を閉じて医療行為を行うバカがいるか!
落ち着くんだ。これはキスじゃない。人命救助。人命救助。
確かにこの子は可愛い。
さらさらとした黒髪。
長いまつ毛。
中学生くらいだろうか、膨らみかけた胸。
スラっと伸びた長い足。
でもそんなことは関係ない。人命救助なのだから。
仮にこの子がとんでもないブスでも、俺は同じことをしただろう。
もっと言えば、男でもやった。ジジイでもやった。やった……と思う。
よし、そう考えれば少し動揺が収まったぞ。
俺は、彼女の唇に顔を近づけて……。
「……?」
首を引っ込めた。
「むふー!むふー!」
「……息、してません?」
「むふ……。……」
……。
「いや、メッチャ鼻息が頬に当たったんですけど……」
「お、乙女に対してそれはないんじゃないかな!確かにちょっと興奮して……あ」
バッチリ、目も開いた。
ていうか、喋った。
そして。
「……」
ぱたり。
再び目を閉じて倒れた。
静寂があった。
鳥の声が聞こえる。餌を探しているのだろう。
風は柔らかく木々の葉を撫でる。少し寒かったのか、葉はぶるりと体を震わせた。
長閑で穏やかな光景だった。
昼寝とか、してしまっても、仕方ないくらいに。
「……起きてください」
「……はい」
流石に無理があると分かっていたであろう、女の子は身を起こした。
そして肩についていた雑草を、自分で丁寧に払った。そこが痒かったのだろうか。首を軽く傾げてぽりぽりと指で掻く。
気付いてたけど、寝たフリのために耐えていたんだろうな。あぁ、分かるよ。寝ようとしてても、一度気になったらずっと気になっちゃうよね、そういうの。
でもそれって。
何分も前から起きていた人間の行動だよね、うん。