出発と不安①
僕は握りしめたチラシを持って部屋に入ると、 壁へと寄りかかった。 改めて自分の部屋を見渡す。 ベッドと机と本棚があって本棚の上にはクマのぬいぐるみ。 ベッドの下には衣装ケースがあってこの空間と学校が僕のすべて。 この小さな世界を見つめているとカーヴィンの声がまた頭に響く。
「世界は広い、そして偉大なんだ」
カーヴィンの言葉の意味を考える。 世界は広い、 それはわかる。 偉大っていうのもなんとなくわかる。 でも、 なんていうんだろう。 彼はもっと遠くを見つめてた。 僕の知らない世界を確実に彼は知っている。 どうしよう、 夏期講習行ってみたいがどうやって母に話そうか。 こんな事件を起こしてしまったばかりだ。 お願いできるような雰囲気ではない。
はぁ、とため息が宙に舞う。 まだまだ母が帰ってくるまで時間があるなぁ、なんて思っていた。
「ただいまー」
「えっ、早くない?」
時計はまだ三時二十五分。 いつもなら考えられないような時間に母が帰ってきたのだ。 一体なぜ。
「ケリー、 起きてる?」
「起きてるけど、 今日は早いね。 どうしたの?」
あの事件の日以来喋っていなかったのでなんだか少しだけ恥ずかしい。
「ケリー、聞いてくれる?今日ママの会社にねカーヴィン先生が来てね」
「カーヴィン!?えっ、今日、会社にいったの!?」
「知り合いなの? なら話は早いわね。 カーヴィン先生にケリーの事話したら息子さん傷ついてるはずだから夏休みの間私のところで面倒見ましょうかっていってくれたの」
「えっ、それって……」
「なんでもカーヴィン先生のところはそういった子を集めて夏期講習をしてるんだって。 もしケリーさえ良ければその夏期講習に参加してみない?」
少し期待の含んだ眼差しで見つめられて、母が僕をどう思っているかがわからなくなった。こんな息子はいらないのだろうか。
「ケリー、 嫌なら行かなくてもいいわ。 でももし迷っているならいってみる価値はあるとママは思うの」
ぎゅっと握られた手は暖かく、僕は静かに頷いた。 母も安堵したのか、僕を抱きしめながらよかった、 と口にした。
僕もどうやって母に話そうか悩んでいたところだったのでちょうどよかったな、 とカーヴィン先生に感謝した。
いよいよ夏期講習の前日に迫ったわけだが、ただいま夜中の三時前。 ドキドキして眠れないのだが、 この夏期講習どこかおかしい。 持ち物は特にないのだが禁止物が多すぎる。 お菓子に電子機器、 時計も携帯もダメ。 カメラや音声録音機能があるものもダメ。 靴はこちらで用意しますって。 なんだか変な感じ。 下着と服だけで準備は終わってしまった。
「こんなんで三週間大丈夫かなー」
ベッドに横たわり明日に迫った緊張のせいなのか、 少しだけ不安がよぎる。 三週間親と一切連絡が取れない。 こんなことは人生で初めてだ。
もう一度大きなため息をつくと僕はそのまま眠りへと落ちていった。
「ケリー、 起きて! もうすぐカーヴィン先生がお迎えに来る時間よ」
「しまった、 寝坊した」
急いで顔を洗って歯を磨いて髪型を整えるとインターホンが軽快になった。
「カーヴィン先生、 きたみたいね」
「うん、いってくる。 連絡できないから、 次は三週間後に」
「ええ、待ってるわ」
いつもと変わらずに頬にキスをする母に見送られ外に出ると、 カーヴィン先生が立っていた。
「やぁ、おはよう。 君ならこの夏期講習に参加してくれると思っていたよ」
「おはようございます、 先生。 楽しみで昨日は眠れませんでした」
「うんうん、楽しみなのはいいことだ。 ただし、しおりにも書いてあったと思うけど……」
「あ、はい。カメラとか携帯は全部うちに置いてきてあります」
「よろしい。 ならバスに乗ってください。 席は後ろから二番目の右の窓側だよ」
「はい、わかりました」
一応これからは僕の先生になるのだからちゃんと敬語を使いなさい。 と母に言われた。 言われなくてもきちんとするのに。 荷物を持って振り返り母に手を振ると母も手を振り返してきた。 いってきます、 と言うといってらっしゃいという言葉が返ってきたのがなんだかくすぐったかった。
真っ赤で少しレトロなバスが目の前にある。 バスというか機関車にどことなく似ているような気もするが。 言われた通りに後ろから二番目の右の窓側に座る。 どうやら僕が一番初めのようだ。
ゆっくりとバスが動き出す。
「乗ったかい? 今から他の子供達を迎えに行くからね。 」
「先生、他の子供達ってあと何人くらいいるんですか?」
「君を含めて五人だよ。 今からメキシコ、 イギリス、 ロシア、 中国に迎えに行くんだ」
「は? どれだけ時間かかると思ってるんですか?」
「うーん、 一時間くらいかな」
「いったいなにをいってるー」
「危ないから座っててね、ケリー」
動き出したバスから外を見るとみるみるうちに小さくなる僕の家。
「う、 浮いてる!」
「君が遅刻しなかったからだいぶゆっくり飛べるよ」
カーヴィン先生は鼻歌を歌いながら陽気にバスの外を見ている。 僕はもう雲の中にいるであろうバスの中で鞄を抱きしめることしかできなかった。
「さー、 ついたよ。 まずはメキシコのアラマンドだ。 仲良くしてねー」
十分くらいだろうか、 雲の中を飛んでいたかと思えばいきなり雲を抜けて街の中へとでた。降りていくとかじゃない。 いきなりだ。
カーヴィン先生は手をひらひらさせながらバスを降りていく。 僕は初めて見るメキシコの街並みに感動していた。 すごい、 まるで違う。 窓にへばりついているとアラマンドがやったきたようだ。 てっきり僕と似たような子を想像していたけれどアラマンドは全然違った。 170㎝以上の大きな背丈に小麦色の肌にだいぶ出てるお腹。 髪は短いけれど胸元にはゴールドのネックレス。 これって、 どうみてもヤバイ感じの子なんじゃ……
「あ、アラマンド! ネックレスはだめだよー、 返してきてね」
「ぁあ?」
カーヴィン先生よりもら大きなアラマンドが先生を睨みつける。
「しおりに書いてあったでしょう? ちゃんとルールは守らないと」
カーヴィン先生がアラマンドにウィンクするとしぶしぶアラマンドはバスを降りていく。 僕はその様子を眺めることしかできなかった。
「さーて、 改めてメキシコ在住のアラマンド・ターニャだよ。 仲良くしてあげてね」
カーヴィン先生は彼の隣にたってアラマンドの肩を掴みながら僕をにこやかに見つめた。 隣のアラマンドはまったくにこやかではなかったけど。 彼の席は僕の前の席だったみたいで隣じゃないことを安心した。
この後僕は少しだけこの夏期講習に参加したことを後悔することとなる。