第8話 彼と一緒に
吸血鬼は、魔物だと教わった。
魔物と縁を結べば、魔女と呼ばれて、最悪村を追われるかもしれない。
だけど、ここで何もしなければ、村も、国も、世界ごと滅茶苦茶になってしまうのだという。
だから、私は彼にそう尋ねた。
……何より、私にはどうしても、彼が、先生や神父様が言っていたようなおぞましい怪物なんかには見えなかったから。
彼は、それにも答えてくれなかったけれど、でも、ぴくりと彼の体はその言葉に反応した。
……そう言えば、さっきから彼は私と目を合わそうとしない。まるで、わざとそっぽを向いているみたいに。
私の肩は、いつのまにか血で真っ赤に染まっていた。――幸い、深い傷じゃなさそうだけど、完全に血が止まるにはまだかかるだろう。
「……それは、駄目だ。それは、出来ない。もしも俺が君の血を吸ってしまったら、君は2度と村へ帰れなくなる」
しばらくして、彼はようやく小さく呟いた。――苦しそうな顔をしたまま、自分の腕で顔を覆って、呻くような声で。
「……初めて血を吸うまでは、普通の食事だけでもなんとか生きてはいける。だけど、一度人の血を口にしてしまったら、その後はもう、血を吸わずには生きられない。もしも、俺が死ねばどうなるか――。それに、封印を維持するためには、俺はこの山からは出られない」
山を離れることなく、定期的に血を得るためには――
「君を、村へ帰すわけにはいかなくなってしまう。だけどそれじゃあ、君を……人間を喰いものにしようとしている奴らと何も変わらないじゃないか」
彼の頬を、透明な雫が滑り落ちていく。
「だけど……」
両の手の拳を握り締めて、彼は悔しそうに言った。
「だけど、今の僕では何もできない。君を逃がしてやることも、奴らを魔界へ還す事も、連中を始末することも――何も。ただ、ここで息絶えるのをいたずらに待って、最悪の時を迎えるのを、ただ黙って眺めている以外には……何も……」
「それは、私だってそうよ。一人では、ただ逃げることもできない。だけど、あなたは違うでしょう? 血を飲めば、あなたには出来るんでしょう?」
怪我をした肩を押さえて、血で染まった手を彼の前に差し出す。
「……いいよ。私の血を、あなたにあげる」
もう、村へ帰れない。
お母さんに何も言わずにここへ来てしまったから、きっと皆心配しているだろう。
それを思ったら、自然と涙が溢れてくる。
もう、お母さんやお父さん、兄弟や、友達にも会えない。
それはとても寂しくて、辛いことだけど。
「あのね、私、お菓子を作るのが得意なの。だから今度、あなたにも作ってあげる」
執事さんが出してくれたようなすごい物は、作れないけれど。
「お天気のいい日に、お庭にテーブルを出して、そこでお茶にするの。ね、楽しそうでしょう?」
王子たちを“還し”てしまったら、彼はこの広い屋敷にたった一人取り残されてしまう。
誰も近づかない屋敷で、山から離れる事もできずに、たった一人。
そんなのは、あんまりに寂しすぎる。
「だから……いいよ、私の血を飲んでいいから」
だから、私はそう言って彼の顔を真上から覗き込んだ。
そうしたら、彼はやっと、ほんの少しだけだけど、嬉しそうな顔で笑ってくれた。
「……それは、じゃあ、期待しないで待っておくことにするよ」
彼が、冗談めかして答えてくれたその時、ガタン、と凄まじい音が屋敷の中に響いた。
見れば、恐ろしい形相をした王子がホールの向こう側からこちらを睨んでいる。
もう、時間がない。
「――レディ・アン。君を、俺――烏の名において、我が眷属に迎え、君が俺に血を捧げる対価として、我が守護を与えよう」
彼――烏が耳元で囁き――そして……
むくりと起き上がった彼の唇が、私の肩を濡らした血に触れ――
その傷口に、彼の牙が、埋まる。
吸血鬼に血を吸われるなんて、きっと痛くて怖いことなんだと思っていた。
だから、寸前でうっかり逃げようとなんてしてしまわないように、私はギュッと目をつぶって、両手を握り締めていたのに、それは痛くも怖くもなくて。
少しだけくすぐったいけれど、嫌なことなんて何もない。
むしろ、怪我をした肩の痛みがゆっくりと引いていく。
気づいたときには、私の体は烏に抱えられたまま空に浮いていた。
烏というその名の通り、彼の背にはカラスのそれのような漆黒の翼があった。
それを追うように、王子もまた、黒い翼を背に負って舞い上がる。
だけど、その翼は烏のものに比べたらちっとも美しくない、小さくて貧相なものだった。
烏は、私を片腕だけで抱え、空いた片手で追ってくる王子を指して何かの呪文を唱えた。
すると、光の檻がいくつも現れ、王子を捕らえようと宙を飛び回り始める。
王子は、それを何とか避けようとしているけれど、上手くいかないらしい。
「――騎士!」
あっという間に業を煮やした王子が叫べば、バルコニーに立ってこちらを見上げていた騎士が、突然そこから飛び降りた。
何をするのかと驚いて見ていれば、たちまちその姿は大きな熊だってひと呑みにできそうな巨大な竜となって王子を背に乗せ、こちらへ迫って来るではないか!
竜が牙が並んだ大きな口を開き、炎を吐き出す。
烏は、それをひらりひらりと舞うように飛びながら巧みに避け、より空の高い所を目指して飛びながら、屋敷を囲うようにぐるりとその軌跡で円を描く。
その奇跡は、光となって夜空に浮かび、その円の中に不思議な図形が現れる。
「闇の王子よ、門番として命じる。闇は闇へ、あるべき場へ還れ」
力強く命じる烏の声に応じる様に、光の図形が眩く輝き、そしてパチンとシャボン玉が弾けるように飛び散った光が雨のように屋敷に降り注ぐ。
光は、王子を乗せた騎士にも降りかかり、それを浴びた彼らは苦しげな叫び声をあげ、動きを止めた。
その隙を逃さず、彼らを捕らえた光の檻の中、彼らはそれでも抵抗しようと暴れるが、檻はびくともしない。檻の中で、光を浴びる彼らの叫びが、空を裂く。
彼らを捕らえた檻ごと、それはゆっくり静かに消えていく。
「烏……」
「大丈夫だ。ただ、彼らの居るべき世界へ送り返しただけだ。今頃、食堂にいたお歴々も、同じように居なくなっているよ」
そう言って、烏は、王子たちの姿が完全に消えて無くなるのを確かめてから、ゆっくりとバルコニーへ降り、私を抱えたまま1階へ下りて食堂の扉を開けた。
そこかしこに取り付けられた、煌びやかな装飾も、たくさんのロウソクの灯りも、さっきと同じように眩く輝き、テーブルの上には美味しそうな料理が湯気を立てたまま並べられている。
なのに、そこに居たはずの者たちの姿だけが、そっくり無くなっている。
「……本当に、皆、居なくなっっちゃった」
「――ああ。父さんが生きていた頃は、父さんと2人きりで暮らして……父さんが居なくなってからは、ずっと一人で居たんだ。奴らに屋敷を乗っ取られるまでは」
「そっか。執事さんも居なくなっちゃったもんね。……これを2人だけで片付けるのは、大変そうだねぇ」
「今、この屋敷にいるのは、俺と君だけだからね。この先も、ずっと……」
「――うん。……ねえ、烏、このご馳走は私が食べても大丈夫?」
こんなに素敵なご馳走、そっくり片付けてしまうのはどうにももったいなくて仕方ない。
どうせ片付けるなら、おなかの中に片付けてしまう方が色々と合理的だ。
「それなら――もう、問題ないよ。……この屋敷にあるものは、全てが魔界の物だから。魔界の物で作られたものを食べたり飲んだり、長い事触れたりしていると、魔界の影響を受けてしまうから。そうなったら、もう人間の村へは帰してやれなくなっていた。だから、あの時俺は君に駄目だと言ったんだ。……でも、君はもうこの屋敷の住人だ。だから、もう、何の問題もない」
そう言ってから、烏は少しだけ気まずそうに目をそらした。
私は、それを見ないふりして、ご馳走に手を伸ばす。
「だったら、ほら、一緒に食べようよ。お肉も、お魚も、とっても美味しそう! ねえ、烏は何が好き?」
骨付きチキンのハーブ焼きを手に取り、かぶりつく。
「これ、美味しいよ。あっちのソーセージは? それとも、ポテトの方が良い?」
烏を引っ張って、テーブルを回り、あれこれとご馳走をつまんで歩く。
落ち着くと、悲しくなってしまいそうだから。
「……アン。君を、君自身を村へ帰してあげることはもう出来ないけど。でも、手紙だけなら――」
そんな私を、烏が引き止めて言った。
「森のカラスに頼めば、手紙くらいなら君の家族に届けられるけど、どうする……?」
「いいの!?」
もちろん、私は早速ペンを借りて、習いたての文字で手紙を書いた。
烏は色んな事を知っていて、私の知らない文字や、分からない事を教えてくれながら、それに付き合ってくれた。
まずは、言いつけを破った事を謝って。
それから、あの日と、そして今夜に起きたことを記して。
私はここで暮らしていくと――もう帰れないと書いて。
夜が明ける前に無事仕上げたそれに封をして、烏の眷属のカラスに託した。
夜明けと共に村へと飛び立っていくカラスを見送りながら、私はあくびをした。
そう言えば、今夜は一睡もしていなかった。
「ああ、そういえばもう寝る時間だ」
それを見て、思い出したように烏は言い、私を寝室へ連れて行く。
こんな明るい時間に眠るなんて、初めてだけど、そういえば吸血鬼は昼に寝て、夜に起きてくるんだっけ……。
彼も眠たそうに、私以上の大あくびをしながら、ベッドに潜り込んだ。
「ああ、やっとベッドでゆっくり眠れる。あいつらを、還す事ができたから。……俺一人じゃ無理だった。君があの日、この屋敷を訪れていなければ……奴らはいつか、俺を倒して外へ出て行ってしまっただろう」
そして、私も一緒にベッドに引きずり込みながら、彼は囁いた。
「あの日、僕は君を早く帰したくて――でも、本当は帰したくなかったんだ」