第6話 忘れたい記憶と、忘れられない記憶
肩を強く掴まれ、そのままくるりと、王子と向き合わされる。
その手の力はとても強くて、少し暴れたくらいじゃとても外れそうになかった。
「それとも、そろそろお腹が空いたかな? それでは、執事にお茶の用意をさせよう。さあ、おいで」
これまでずっと、にこにこ笑っていた王子。今もにっこり微笑んではいるけれど、何だかその笑顔が怖い。
ちらりと、後ろを振り返る。
だけど、さっきまで居たはずのカラスの姿はいつの間にかなくなっていた。
王子が来たから、逃げてしまったのだろうか?
どうしたらいいのか分からなくて、思わず叫び出したくなる。
でも、実際に声を上げてしまう前に、もっと派手な音がその場に響いた。
キラキラと輝く破片が降り注ぐのに合わせて、ガシャァンと大きな音が幾重にも重なる。
その拍子に、王子の力が緩み、外れ――
私の視界を黒いものが遮り、そのまま王子に突っ込んで行く。
1羽だけじゃない。最初の1羽が割り砕いた窓ガラス、そこに空いた穴から何羽ものカラスが室内へと侵入し、カァカァと騒ぎ立てながら、私と王子との間に壁を作り出す。
そして。不意に、両方を強く掴まれ、ふわりと私の足が床を離れた。
離れていった王子の手に代わって肩に食い込む爪が少し痛かったけれど、宙に浮いた私の体は、そのままガラスの穴の外へと運ばれ、大空へとダイブしていた。
普通の何倍もの大きさのカラスが、その大きな翼で私の体を屋敷の外へと運び、門の外へと降ろした。
私を外へと連れ出したカラスは、私を下ろすとそのまま飛び去り、すぐに森の奥へと消えていってしまった。
追っ手を気にして、私はそろそろと後ろを振り返り、またしても息を飲む事になる。
ついさっきまで美しいなりをしていたはずの屋敷が、元の廃墟へと姿を変えていた。
建物のみならず、美しいバラが咲き誇っていた庭が、放りっぱなしの雑草が生い茂るばかりのそれへと戻っている。
常識では考えられない、摩訶不思議な屋敷。
私は、今度こそ本当に恐ろしくなって、一目散に一本道を村へ向かって駆け下りた。
もう、後ろを振り返ることすら怖くて、教会の鐘がお昼を告げるのを聞きながら、ひたすらに走った。
家に着いた頃には、お昼ご飯の時間を少しばかり過ぎていて、お母さんにどこへ行っていたのかと散々怒られたけれど、本当のことなんか言えるはずもなかった。
罰として、お昼ご飯を抜きにされてしまったけれど、とてもじゃないけれど何かを食べたい気分にはなれなかった。
私があの屋敷へ近づく事は、もうこの先2度とないだろう。――頼まれたって行くもんか。
そう思いながらも、一つだけ、心に刺さったトゲが、ちくちくと痛む。
お屋敷に入ろうとした時、忠告してくれていたのだろう、カラス。
お屋敷に入ってしまってからも、何度も忠告してくれた、彼。
お屋敷から体を張って助け出してくれたカラスたち。
逃がそうと試みただけでお仕置きを受けたらしい彼が、こうして本当に私を逃がしてくれた今、もっと酷い目にあっているのでは?
――それだけが、気になる。
でも、それでも、もう一度あのお山を登って行く勇気は、どうしても出てこなくて。
村には、これまでと変わらない、ごく当たり前の普通の毎日が、明けては暮れ、明けては暮れていく。
そして相変わらず、大人は子どもにこう言い聞かせ続けている。
「あのお山の上のお屋敷には、決して近づいてはいけないよ」
――そんなある日の、日暮れ時。
日中、村へと降りてきたカラスたちが、夕焼け色に染まった空をお山へ帰っていく頃。
カァカァとカラスの鳴き交わす賑やかな声が村中に響くのは、いつもの事……だけど。
この日ばかりは、賑やかを通り越して騒がしいくらいに鳴き続ける。しかも、心なしか普段よりも数が多い気がする。
そのさまは、何故か心に不安を呼び起こし、村の大人も皆、黒く斑に染まった空を見上げていた。
それは、私が、大人たちの言いつけを破ってお山に登った日から数えて、ちょうどひと月が経った日。
今日まで、特に何事もなく過ごせていた私は、もう2度とお山を登りたいとは思わないものの、あの日の出来事の記憶は少しずつ薄らぎ始めていた――そんな日の事。
夕日が地平線の向こうへ沈み、月と星とが夜空に輝き始めた頃。
「やあ、こんばんは」
お夕飯の支度をするお母さんを手伝って、外の井戸へ水を汲みに出た私の耳に、聞き覚えのある声がするりと滑り込んできた。
ハッとして振り返れば、あの日と全く同じ装いの彼がそこに立っていた。
出来れば忘れたいと思っていた、あの日の記憶。
だけど、完全に忘れてしまえなかったのは、やっぱり彼のことが気にかかっていたから。
「ちょっといいかい?」
彼はそう言って、井戸の裏へ隠れるようにして私を手招いた。
月明かりと、家から漏れる僅かな明かりだけでは、あまりに暗くて、ここからでは彼の様子がはっきりとはうかがえない。
尋ねたいことがたくさんありすぎて、招かれるままに彼の方へと近づいた。
「あの、この間は助けてくれてありがとう。あの後、あなたは大丈夫だった? それに……今日は……」
暗がりの中、彼の様子が気になって、彼に手を伸ばす。
「うん、その事なんだけどね。実は少し困ったことになってしまってね。だから、君に一つ、頼みがあるんだよ」
伸ばした私の手に触れ、彼が囁いた。
「だから、今から屋敷に来て欲しいんだ。君が来てくれさえすれば、解決する問題だから」
暗くてよく見えない分、見落としはあるかもしれないけれど、ぱっと見は特に怪我などは見当たらない。とりあえず、元気そうだ。
それにはホッとしつつも、続いた彼の言葉に私は口を閉ざした。
あの時、あんなに帰れと何度も言っていた彼が、今になって突然、屋敷に来い、だなんて……?
「君の助けがないと、とても困った事になってしまうんだよ。だから……、ね?」
何だろう、何故だかひどく違和感がある。
いくら暗がりでよく見えないとはいえ、さすがにこの距離では顔を見間違う事はない。
彼は、間違いなく従僕だ。そう思うのに、彼の言葉に素直に従えない。
私は、自然と足を引いて、彼から一歩、距離を取ろうとして――
そんな私を引き止めるように、私の手を取る彼の手に力がこもる。――それは、痛いくらいに……。
その痛みに、直感的に悟る。別人だなんて、とても信じられないくらいによく似ているけれど、この人は、彼じゃない。
「――離して!」
なんとか手を引き離そうと強く引くけれど、全くびくともしない。
「おやぁ? バレちゃった? おかしいなぁ、化身術は僕の得意技、完璧に奴の姿を真似ていたはずだったのに……、ねえ、執事?」
「ええ、確かに主の術は完璧でございました。しかし、毛皮ばかり美しき虎のそれを着せたところで、中身が伴わねば、所詮は張子の虎。主はもう少し演技力を磨くべきなのではございませんか?」
「ふむ。しかしだねぇ、この美しき王子が、従僕如きの真似をするなど、耐え難き屈辱的行為に値するんだ、仕方がないだろう」
肩をすくめた従僕の姿が溶けるように消え、代わりに王子の姿が現れる。
「――さあ、おいで、愚かなレディ。今宵、我が屋敷で開かれるパーティーに招待してあげよう」




