第3話 理由を探して
しん、と静まり返った部屋の窓は、厚ぼったいカーテンに日差しが遮られ、広い室内はなんとなく薄暗い。他人家に一人きり、という状況が、こんなにも心細いものだなんて、私は初めて知った。
それでも、目の前で湯気を立てるお茶と、見た事もないほど綺麗で可愛い美味しそうなお菓子はあまりに魅力的で、私はそろそろとそれに手を伸ばし――
「――だめだ」
その手を、突然掴まれ、止められた。
「人間が、こんな所に居てはいけない。今すぐ、ここから――この屋敷から出て行け」
王子も、執事も騎士も、皆、低い大人の男の人の声だった。
だから、女の子みたいに高いこの声の主が彼らでないことはすぐに知れた。
でも、今の今まで、部屋には私の他には誰も居なかったはず……。
「きゃっ、誰!?」
さっき、庭で最初に王子に声をかけられた時と同じくらい驚いて、私は悲鳴を上げた。
「ここに近づいたらいけないと、教わらなかったか?」
聞き覚えのないその声が、あまりに聞き覚えのありすぎる台詞をなぞる。
「ええ、確かにそう教わったわ。だけど、誰もその理由は教えてくれない。だから、それを確かめたくて来たのよ。……あなたは、その理由を知っているの?」
振り返れば、黒い髪に赤い瞳をした少年が一人、私のすぐ後ろに立っていた。
「ああ、知っているよ。……でも、それを君に教える事は出来ない。ここは、人間が来ていい場所じゃない。そしてそれは、人間が識ってはならない事。だから君は、今すぐ帰るべきだ」
お菓子に伸ばした私の腕を掴んだまま、彼は険しい顔で言った。
だけど、彼の言葉に従えば、今回の冒険の目的が果たせない。だから、私は首を横に振った。
「ううん、まだ帰らない――帰れない。理由が分かるまでは絶対に帰らないもん」
ここは、他人の家だ。「出て行け」と言われたら、無理矢理居座ることは出来ない。
でも、さっき王子は自らこの部屋へ通してくれたし、執事さんだって、こうしてお茶を出してくれた。――騎士さんとはまだ直接言葉を交わしてはいないけれど、少なくとも邪険にはされなかった。
唯一「出て行け」というこの彼が、一体何者なのかは知らないけれど、他の人は「いい」って言ってくれているんだから、今はまだ、ここに居ても大丈夫なはずだ。
「だから、離して。お菓子、食べて良いって、王子も執事さんも言ってたもん」
そう考えて、私は彼に抗議した。
「――その通りだよ、従僕。ほら、早くお嬢さんの手を離したまえよ」
執事さんが開けた扉をくぐり、戻ってきた王子が、彼――従僕に命じると、彼は、
「……申し訳ございません、失礼いたしました」
と、頭を下げ、部屋から出て行ってしまう。
でも、その前に。私のそばを通り抜けていく時、彼はそっと私の耳元で囁き、一つの忠告を残して行った。
「この屋敷で出されるものは、ひとかけらだって口にしてはいけない。水一杯、ビスケット一枚でも口に入れてしまえば、お前はもう村には帰れなくなる。……後悔したくなかったら、早々に帰れ」
『お山の上のお屋敷には、決して近づいてはいけない』
それは、いつも村の大人が口を酸っぱくして子ども達に言い聞かせる言葉。
だけど、どうして彼は、こんなにも美味しそうなお菓子を食べたら“いけない”なんて言うんだろう?
そんな事を言うのは、だいたいいつもおやつを独り占めしちゃうジャックか、悪戯をした子どもを叱る親くらいだ。
毒のあるものとないものの見分けが難しいキノコや木の実なら、それもわかるけど、こうして料理されたお菓子を食べたらいけないなんて、理由が分からない。
実際、王子は美味しそうにお茶に口をつけているし……。
おやつを食べ過ぎて、お昼ご飯が食べられなくなったら、それは後で怒られるかもしれないけど、このクッキーの1枚や2枚くらいお腹に入れたところで、お昼ご飯がお腹に入らなくなるなんて事にはならないはず……。
そう、思うのに。
「おや、どうしたのかな、レディ? 遠慮する必要はないんだよ」
なのに、王子にそう勧められても、何故だろう、手を伸ばすのがためらわれる。
「ごめんなさい、まだ、お腹があまり空いていないの」
――理由は分からない。だけど何故か、するりとそのセリフが口をついて出た。
「そうか。では、腹ごなしに遊戯でもしようか、レディ・アン?」
「遊戯?」
「さあ、何がいいかな? チェス、ビリヤード、ダーツ……」
「――ご主人様、差し出がましいようですが、どれもレディ向きの遊戯ではないかと」
「ふむ、そうか? では、隠れ鬼などどうだ? この屋敷を使って」
「お屋敷を使って、かくれんぼ? うん、とっても面白そう!」
「よし、では決まりだ。まずは私が隠れよう。君は、まだこの屋敷に来たばかりだから。執事を君の案内役につけよう。いいな、執事?」
「承知致しました、ご主人様」
「レディ、あなたはいくつまで数を数えられるかな?」
「この間、日曜学校で、100までの数え方を教わったばかりよ」
「では、ここで100を数えたら、僕を探しにおいで」
バタン、と、執事さんが扉を閉める音が響いた、その後で。
「1、2、3、4、5……」
さっそく、覚えたばかりの数え方を始める。
「10、11、12、13、14……」
少し前までは、10までしか数えられなかったけど。
「96、97、98、99……100!」
途中、少しつっかえながらもなんとか数え終えて、私は一目散に扉に駆け寄った。
さっき、王子にそうしていたように、執事さんが私のために扉を開けてくれる。
食堂から出てすぐに広がるのは、もちろんさっきのホールだけど。
玄関の方を向いての左側、階段とは反対側の壁に、ドアが一つある。
「執事さん、あれは?」
「はい、レディ。こちらは応接間でございます」
執事さんに開けてもらった扉の向こうには、確かに大きなソファが向い合わせに2つ、どんと鎮座して、その間に透明なガラスの天板がおしゃれなテーブルが置かれている。
床のフローリングには、ふかふかのカーペットが敷かれている――けれど。
部屋の東側に2つ、南側に1つある窓のカーテンの裏や、ソファやテーブルの下も探してみるけれど、王子どころか誰の姿もない。
「ここには、居ないみたい」
「では、次へ参りましょうか」
玄関脇に設けられた、大きなクローゼットの中。
階段脇の扉の奥にある洗面所や、お手洗いの仲間で探しても、王子は居なかった。
「……あの扉は?」
食堂へ続く、大きな両開きの豪華な扉の隣に、小さく目立たない扉が一つある。
「あの奥は、厨房や洗濯室など、使用人が詰める部屋になっております。……ですが、ご主人様がそういった場所に立ち入る事はございません」
他人の家の台所という場所は、たとえ家主に客人として招かれた者でも、無遠慮に触れてはいけない場所だ。
この家の主である王子が案内役にとつけてくれた執事さんがそう言うなら、私が無理を言うわけにはいかない。
せっかく得た、屋敷の中を探検できる機会を、家主の機嫌を損ねてフイにする危険は犯したくない。
「じゃあ、1階の部屋はこれでもう全部探した?」
「はい」
「だったら、次は2階だね? 2階を探してもいい?」
「はい、もちろんでございますよ、レディ」
執事さんの許しを得て、私は階段を駆け上がる。
階段を上りきったすぐ目の前の扉は……
「こちらは、リビングでございます」
応接間にあったそれとは違う、座り心地の良さそうな大きなソファ。
チェスボードの置かれた、ガラスのテーブル。
コレクションボードには、綺麗なカップや貴金属等が並ぶ。
でも、棚の影にも、ソファの背もたれの後ろと壁との隙間をのぞいてみても、王子は居ない。
リビングの隣は書斎。
壁いっぱいに作り付けられた大きな本棚には、難しい字で書かれた分厚い本がぎっしり詰まっている。
大人の男の人で、背の高い執事さんが両腕をいっぱいに広げてもまだ足りないくらい大きな机の下に潜り込んでみても、王子は居ない。
書斎の隣は寝室。
天蓋付きのベッドの中も下も、ウォークインクローゼットの中も探してみたけれど、王子の姿はどこにもない。
「おかしいなぁ、どこか見落としたのかなぁ?」
寝室の隣、廊下を折れて一番最初の扉の中、子供部屋も、その隣のお風呂場やお手洗いも、その先のバルコニーだって探したのに。
……王子の姿もそうだけれど、屋敷の殆どを探し終えた今も、やっぱり当初の目的である、「お屋敷に近づいては“いけない”理由」は見つからない。
仕方なしに来た道を引き返し、階段の所まできた時。
「……あれ、執事さん、あの扉は?」
2階に上がってすぐに目の前のリビングの扉に飛びついたせいなのか、さっきはさっぱり気付かなかったけれど、階段を上がって左側奥の壁、リビングの向いにも一つ扉がある。
「あれは、物置きでございますよ」
「ここは、私が入ってもいいお部屋?」
「ええ、構いませんよ。ですが、滅多に使わぬ物などを置いておく場所ゆえ、よくお気をつけくださいませ」
尋ねれば、執事さんは快く扉を開けてくれた。
さすがに物置とあって、廊下よりも少し薄暗い。
でも、微かに部屋の奥からかさりと物音がした。
そっと、足音を忍ばせて近づくと……
「やあ、見つかってしまったか」
手前の棚の後ろから、そこに隠れていた王子がひょいっと顔をのぞかせた。
「では、鬼役交代だ。僕は食堂に戻って、君と同じように100を数えよう。そうしたら、君を探しに来るよ」
ここまで案内役を引き受けてくれた執事さんは、他にお仕事があるようで、彼の案内はここまで。
もう、入っていい部屋といけない部屋は教わったし、隠れる場所は私一人で探さなければいけない。
王子が部屋を出て行った後で、私もそっとそこを抜け出した。