一段落とは心地いいモノだ
「ハイジの面接は、何事もなく終わった」
クロが言った。
社長のクロが言うので、そういうことにした。
ハイジが帰った後、クロとシロは、いつもの事務所なのに、なんだかいつもは感じることの無い居心地の良さを感じていた。
緊張の糸が解けた、そんな感じだ。
「しかし、来たな」
グダァッと過熱し過ぎたモチのようにだらしなくソファーに座るシロが言った。
「ほんと、来たな」
シロと同じような態度で、クロが答えた。
「まさか来るとはなぁ」
「よもや来るとはなぁ」
「いやはや、来るとは」
「いやもう、来るとは」
「「…………はぁ…」」
現実を疑いたい、そんな気持ちのクロとシロだった。
しかし、現実を疑ってもしょうがない。
それに、誰かを雇おうとしていたところに、ちょうど人が来たのだ。しかも、それが理想的な人物である。
文句は、ない。
が、やっぱり気になるのは『時給は時価』ということで問題はないのか、ということだ。
「……いつまでも気にしていてもしょうがないし、とりあえずなんか飲むか」
クロが言った。
それに、
「それじゃあ、コーヒー」
と、シロは答えた。
この瞬間、いつものような落ち着きを見せ始めていた空気が、またざわついた。
「あれ? 俺のことをアゴで使う気?」
クロが、不満気に言った。
「あ?」
「俺、社長よ」
クロが言うと、不愉快そうにシロが眉根を寄せた。
「だから、なんだよ」
「なんだってことはないが、シロは副社長、俺は社長」
「で?」
「コーヒーは?」
「クリープと砂糖を一つずつ頼む」
「そういうことじゃないでしょうよ」
クロは言った。
シロは、クロの言わんとしている事を理解した。
クロは、自分が社長だという事を思い出して偉ぶっている、と。
コーヒーを入れろ、クロはそう言いたいのだとシロは察した。
一段落ついた。
しかし、いつもの日常に戻って心地好さを感じたのも、一時であった。
突如として、どちらがコーヒーを入れるかという争いが生じた。
「言い出しっぺがやるのが普通だろ」
というのが、シロの言い分で、
「いや、俺社長だし」
というのが、クロの言い分だった。
「社長は、副社長よりも偉いわけで…」
「けど、いままではフェアな関係でやってきたわけで…」
「でも、新しく部下も加わることだし、上下関係はハッキリさせた方がいいと思うし…」
「上下関係をハッキリさせるというと聞こえはいいけど、ワンマンになるのは違うと思うし…」
「コーヒーひとつでワンマンな社風にする程、傲慢じゃないつもりだけど…」
「社長という肩書を思い出してイイ気になるやつの言葉なんて、信用できないけど…」
「イイ気になんてなっていません」
「なっています」
クロとシロは、ムキになって言葉をぶつけ合った。
本当はもう、コーヒーなんてどうでもいい。
この不毛な言い争いを終わらせたい。
一杯の水が飲みたい。
長々とした言い争いの末に、二人は、そう思っていた。
コーヒーなんてどうでもいいから、さっさといつもの日常に戻ろうよ。
だが、互いにそれを言い出すことは出来ない。
それを口にしたら、すなわち負け。
二人とも、負けたくはないのだ。
「ブラックでも良いよ」
と、少しでも手間を省かせようとする、甘党のクロ。
「ホットミルクでも良いぜ」
と、コーヒーを飲みたかったはずのシロ。
お互いに、譲れないモノがある。
ないかもしれない。
いや、ないことはないはずだ。
たぶん、あるはずだ。
だから、こうやって言い合っているのだ。
でも、二人とも、相手を言い負かしたいワケではない。
勝ちたいなんて思っていない。
なんなら、コーヒーもどうでもいい。
ただ、なんとなく、相手の言いなりになって負けたくない、そういう想いが、二人の胸の内にあった。
「じゃあ、じゃんけんするか?」とシロ。
「いや、そこまでして飲みたいワケでもないのよ」とクロ。
「負けるのが怖いか?」
「こういうのって、たいがい言い出しっぺが負けるよね」
「そうならないこともあるって、ここで証明してやるよ」
「だから、証明するとか言っている時点で気持ちが萎えるのよ。ギスギスした気持ちはなしで、もっと穏やかに和やかにコーヒータイムを愉しめないのか、ってね」
「お望みなら、自分の力でそういう空気を作ってみろよ」
「いや、俺には荷が重い」
「簡単だって。湯を沸かして、インスタントコーヒーが入ったカップに湯を注いで、『どうぞ、シロ様』って出すだけだから。たった3工程だ」
「湯を沸かして、『どうぞシロ様』?」
「違ぇよ!風呂にでも入れ、ってか?」
「俺、モノ覚え悪いっていう設定だから」
「その設定を口に出来るだけの覚えの良さはある。レッツ、トライ」
「……あれ? ここは、どこ? 俺は誰?」
「…ここは、喫茶店。お前は、世界一のコーヒーを淹れる男だ」
「シロの嘘つき」
「記憶喪失を演じるやつに言われたくねぇよ」
「何しているの、この人達?」
ハイジは、気持ち悪く感じた。
面接が終わった後、一段落ついて気持ちに余裕が生じたハイジは、これから自分も働くことになるかもしれない職場の環境について、直に見て知っておこうと思った。
そういうことでドアの隙間からのぞき見た光景は、どっちがコーヒーを淹れるかというくだらなくも激しい論争だった。
「ハイジがこの光景見たら、どう思うか考えてみなよ『ここの副社長は、コーヒーも淹れないのか』って愕然するよ、きっと」とクロ。「どうかね。『コーヒー一杯でグダグダ言う社長なんて嫌だ』って呆れるぜ、きっと」とシロ。
ハイジは、思った。
―― インスタントのコーヒーくらい…
自分が淹れてあげるよ、と。
面接は終わっていました。