緊張しいに初事は堪える
拝啓 お母さんへ
元気ですか?
私は、元気です。
この春から一人暮らしを始め、初めて親元を離れました。まだまだ慣れないことはたくさんありますが、身体は元気ですし、なんとかやれています。心配しないでください。
そういえば、この前、バイトの面接に行きました。
みんながやっているように飲食店や家庭教師なども考えたのですが、様々な出来事に触れる機会を増やすことを第一に考えた結果『何でも屋』に面接に行きました。
結果は、なんと、合格でした。
すごいでしょ?
まだどういうことをやるのか分かりませんが、大学の授業では学べない事を学ぶチャンスだと思っています。
何でも屋と聞いて不安に思う事もあるかもしれませんが、職場の人は(少し変わっていますが)良い人達みたいです。安心してください。職場の環境も、明るく楽しそうです。
この手紙が届く頃には、もう初出勤をしていると思います。
今度、仕事の事も手紙に書くから、待っていてね。
――ちゃんと手紙、届いたかな?
ケータイのメールじゃなく手書きの手紙。
ハイジは、一人暮らしをして初めて、なんとなく書いてみた。
照れ臭くもあったが、自分の近況を報せる方法として、電子メールよりも伝わるモノがある気がした。
今のこのドキドキも、手紙にすれば伝わるだろうか?
今日は、ハイジの初仕事の日だ。
――このドアの向こうが、私の職場だ
気持ちに整理をつけ、一つ深呼吸をしてから、ハイジはドアをノックした。
「おはようございます」
ハイジは、挨拶しながら事務所に入った。
直後、表情が固まる。
お香がモクモクと焚かれている空間で、黒いサングラスをかけて黒いスーツに身を包んだ二人が、どっかり椅子に腰掛けて待っていた。
あれ? どこかのマフィアの事務所と間違えたかな?
ハイジは、眼を疑った。
「何してやがる。さっさと入れや」
しゃがれた声で、シロが言った。
シロは、来客用のソファーでテーブルに組んだ足を乗せて座っていた。
もう一人はというと、窓の方を向いて座り、ハイジに背を見せていた。が、シロの声に反応し、椅子をくるりと回し、ハイジの方を見た。
「おう、きたか」
やはりしゃがれた声で、クロが言った。
「来ちゃったみたいです」
ハイジは、心の中で母に対し、嘘言ったかもしれません、と謝った。
――次の手紙は、もう少し待ってください
とても書ける状況ではなかった。
ごほっ ごほっ。
クロとシロは、むせていた。
「けむい」と涙目のクロ。
「ハイジ、窓開けてくれ」
シロが言うと、「何がしたいんですか?」と呆れながら、ハイジは事務所の窓を開けた。
事務所の中に漂っていた煙が、外に逃げていく。そして、新鮮な空気が代わりに入ってきた。
「あ~、すっきりした」
クロとシロは、ふぃ~と深く呼吸した。
「ホント、何がしたかったんですか?」
ハイジが訊くと、不愉快そうにクロは応えた。
「いやちょっと、事務所感を出したくて、なぁ」
「ああ、二人で悩み抜いて出した答えが、これだ」
シロは、胸を張った。
マネしてクロも、胸を張った。
だが、だから? と呆れる気持ちしかハイジの中には湧いてこない。なるほど、と理解するのは、どうやら難しそうだ。
「とりあえず、私は私服でよかったですか?」
スーツで決めている二人に、ハイジは訊いた。
「OKだ」
「俺らも、これ私服だから」
「だとしたら、私生活を少し疑います」ついでに、とハイジは続けた。「その煙草もどうかと思いますよ」
「煙草じゃねぇ。シガーだ」
フーッと息を吐き、クロが答えた。
「いや、というか お菓子ですよね?」
「違う、シガーだ」
クロは、一本の棒を口にくわえたまま答えた。
その棒は、ポッキーだった。
ポッキーを、煙草の様にくわえているだけだった。
「どうでもいいですけど、持ち手のクッキー部分をくわえちゃうと、あとで後悔しますよ」
「仕方ねぇだろ」重々しくクロは言った。「口周りがチョコでベトベトになるのを防ぐ為だ」
煙草、いやシガーの持ち手も短いだろ、と得意気にクロが言うので、ハイジはこれ以上つっこむのをやめた。
クロとシロは、普段着に着替えた。
慣れないスーツは、やはり嫌だったらしい。
それまでも特に気を張っていなかったはずなのに、フーッと息を洩らして、緊張感なくだれた。
「……」
「………」
「…………?」
ハイジは、違和感を覚えた。
というか、これでいいのか、と疑問に思った。
二人はだれたまま、何もしないでいる。やっと動いたかと思えば、お菓子を摘まんだり、マンガを読んだりと、とても職務中の行動とは思えない。
二人がだらしないのは、それでいい。いや、よくはないが、いいことにしよう。
問題は、私はどうすればいいの、ということだ。
何をしたらいいのか分からず、ハイジはたじろいだ。
どうすればいいか分からないでいるハイジに、シロは気付いた。
「おい、クロ」
「ん?」
「ハイジに何か指示しろよ」
「……そうね」
そういえば、とクロは気付く。
忘れていたのかよ、とハイジは怒りを込めてつっこみたかった。が、初出勤だしということで、とどめた。
思案顔のクロが口を開いた。
「それじゃあ…」
初めての仕事だ。
何をさせられるのか、と固唾を飲んでハイジは待った。
「コーヒーを入れてもらえる?」
「……はい、よろこんで」
なんかしょぼいな、そう思ったが、最初だしとハイジは納得した。
「ちゃんとできるか? ハイジ」
シロから心配そうに声を掛けられ、ハッとハイジは気付いた。
最初だから簡単に思える仕事を与えられるのは当然だ。が、しかし、コーヒーも淹れ方ひとつでだいぶ違いが出るのかもしれない。インスタントしか飲んだことが無いハイジには、その味の違いはもちろん、よく考えたらコーヒーメーカーを使った淹れ方も、良くわからない。
ハイジは、緩んだ気持ちを引き締めた。
何でも屋の端くれとなるのならば、コーヒーも完璧に入れられるようにならなければならない。
「大丈夫です、できます」
声に力を漲らせ、ハイジは応えた。
それじゃあ、とシロは給湯室の方を指差した。
それに従い、ハイジは給湯室に入った。
「最初だから、ちゃんと教えるな」シロが、その場から動かずに指示を出した。「ヤカンに水を入れて火にかけ、湯を沸かす。カップに粉を入れて、沸騰した湯を注ぐ。基本は以上」
「インスタントかよ!」
思わずハイジはつっこんだ。
コーヒーは、ハイジもなじみのあるインスタントコーヒーだった。
これなら大丈夫だと余裕を感じ、「ミルクや砂糖はどうします?」と気配りを利かせられたハイジ。
そのハイジの質問に、う~ん、と二人は一瞬考えた。
――やっぱり、クロさんはクロっていうだけあって、ブラックなのかな?
なんてハイジが微笑ましく考えていると、答えが返ってきた。
「俺、ブラックで」
とシロ。
――いや、アンタかい!
ハイジは思った。
「シロ、またすぐブラックとかカッコつける」
「つけていません。そんな気分なんです」
「ミルクなしで砂糖多め、とか注文したら?」
「俺も苦味を旨味と感じられる年齢になっただけだよ」
「老けたな」そう言ったクロは、「俺は、ホワイト」と注文した。
「ミルクですか?それとも、ボケですか? 」
冷ややかな態度のハイジは、そう訊き返した。
「いいえ。コーヒーにミルクと砂糖をたくさん頼む、という意味です。というか、冷たいな、アイスコーヒーを頼んだ覚えはないぞ」
無視して、ハイジはコーヒーの準備を進めた。
ハイジの初仕事は、コーヒーを入れること(甘くて白に限りなく近い茶色い液体を入れることと、一度入れた苦くて黒い液体を甘くて白い液体に変えること)だった。
「「うん、イイ感じ」」
ハイジの初仕事は、本人の達成感は置いといて、どうやら上手くいったようだ。
「充実した一日だった」
太陽が沈む頃、クロが言った。
クロの言う充実した一日とは、ハイジには、自分はコーヒーを入れて、他二人は雑談をしただけにしか思えなかった。
が、それでも先輩二人を見るに、どうやら充実していたらしいと納得する。
「どうした? ハイジ」
何処か不満げなハイジに、シロが訊いた。
「いえ、なんか…」
「大丈夫」とクロ。「美味しいコーヒーだった。お茶を入れると言っても俺達は紅茶飲めないし、コーヒーのレベルも充分に及第点に達していると言えるぞ」
そうだな、とシロも同意した。
そんなインスタントの味しか知らない二人に、ハイジは思った。
――本格的な紅茶を飲ませてやろうか
やったことないけど挑戦してやろうかな、とヤル気を掻きたてられたハイジだった。
コーヒーに入れる砂糖の量が少し減った、今日この頃です。