Shiny Sky
本日は晴天なり、なんて言葉が自然と口をついて出てきてしまうほど、綺麗な青空が窓の向こうに広がっていた。今朝はまだどんよりと曇っていたのに、今はもう雲一つない。これほどまでに清々しい快晴は久しぶりで、思わず感嘆のため息を漏らしてしまう。
二時間目と三時間目の間の、ほんの僅かな休み時間、何とはなしに目を向けた先にある空は、私の予想を良い意味で裏切ってくれた。今日は無理かと諦めていたサボり心が刺激される。教室の前方に設置された時計は、あと一分ほどで休み時間が終わることを知らせていた。次の授業が何だったか忘れたが、抜け出すなら今しかない。私は極力音を出さないように席を立ち、未だ騒がしい教室を後にした。
扉を一枚隔てただけだというのに、話し声が遠くへ行ったような感覚を抱く。一人取り残されたみたいなこの感情は嫌いじゃないが、ここに突っ立っているのはまずい。私はすぐさま近くの女子トイレに駆け込んだ。古びた扉が閉まる音を掻き消すように、つまらない授業の開始を告げるチャイムが鳴った。喧騒はまだ私の耳に届いているが、じきにそれも消えるだろう。そうしたらここを出て、空を見に行く。私は扉に背を預け、小窓から空を眺める。真四角に切り取られたそれは、素直に美しいと思えた。
教室に響いていた声が段々と静まり、先生の野太い声だけが聞こえるようになった頃、私は足音を忍ばせてトイレから顔を出した。周囲を見回してみるが、辺りに人影はない。遅れて教室に向かう先生と鉢合わせすることだけは避けられそうだ。
隙間から廊下に出て、蝶番が鳴らないように、そっと扉を閉める。完全に閉まったことを確認してから、忍び足で階段へと向かった。トイレを挟んで隣り合う教室の前を静かに、それでいて素早く通り過ぎる。授業中は教室の扉を閉めているため、廊下の様子を窺うことはできないと分かっているが、注意するに越したことはない。内心ひやひやしながらも足を動かし、何とか階段まで辿り着くことができた。ここまでくればもう成功したも同然だ。一段一段しっかりと登っていく。靴底がゴム製だと自分の足音を消したい時に便利だと気付いたのは約一年前、高校一年の五月だったっけ。初めてのサボりは凄く緊張したけど、それと同じぐらい楽しかった。
回想に浸っていれば、目の前に重々しい扉が現れた。あまり使われていないと一目で分かるノブを掴み、捻る。ノブは途中で引っ掛かることなく、百八十度回ってくれた。かちゃりという音を耳で拾ってから体重をかけて押す。金属が軋む音と共に風が私の前髪を弄んでいく。間から屋上へと足を進めれば、暖かな陽射しに包まれた。
無人の屋上はしんとしていて、まるで場違いな所に来てしまったかのような感覚を抱く。事実、この時間に屋上に来てはいけないのだから、間違ってはいない。けれど現状には相応しくない感情であることもまた本当で、それらを振り切るように、頭上に広がる空を仰いだ。
教室の窓から見たときとは違い、所々に真っ白な雲が浮かんでいる。ふわふわとたゆたう姿は眠気を誘いそうだ。そんなことを考えながら、塗料の剥げたフェンスに近付く。剥き出しの鉄を掴んで揺さぶり、耐久性に問題が無いことを確認してから体を預ける。どこまでも続く空と、長閑としか言いようのない街並みが、視界一杯に広がった。
上着の胸ポケットからイヤホンを取り出し、耳に付ける。一緒に仕舞っていたプレーヤー脇のボタンを押して電源を入れれば、少しの空白の後に軽快ながらも切なさの残す音楽が流れた。その音が状況と心象に相応しすぎて、気付けば歌詞が口をついていた。
誰に遠慮することなく、伸びやかに歌うのは久しぶりだ。思い切り歌うことはカラオケなんかでもできるけれど、広々とした場所に声を響かせる開放感には敵わない。
間奏を聞きながら余韻を楽しんでいると、重たい扉が開かれる音が木霊した。錆びた音に反射で振り向けば、扉を開けた人物と視線が噛み合う。刈りあげた黒髪に金属フレームの眼鏡。ちょっと目つきの悪い男子生徒は顔馴染みで幼馴染み。私がサボる度についてくる、私以上に重度のサボり常習犯だった。
彼は後ろ手に扉を閉めながら何かを言っているようだった。口の動きでそれだけは分かるが、イヤホンのせいで音は私の耳に届かず落ちていく。それは彼も気付いたようで、自分の耳を指してイヤホンを取れと暗に言ってきた。私がそれに反応しようとした刹那、歌詞が流れ始める。私は即座に視線を空と街に戻し、歌うために口を開いた。
演奏に被さるように彼の足音が聞こえる。恐らく、ゆっくりと私の方へ歩いてきているのだろう。けれど私は振り向かない。イヤホンも外さない。曲は静かに終わりへと近付いている。まだこの世界に浸っていたいのだ。だが、彼にそれは通じなかったらしい。私の傍に影が差したと思った瞬間、少し粗い手つきでイヤホンが外された。つられて彼の方を向けば、不機嫌そうに顔をしかめているのが目に入る。
「何するの?」
「折角来てやったんだ。外すのが礼儀ってもんだろ」
「『来てやった』なんて言う人に払う礼儀は持ってないわ」
「相変わらずだなぁ。そんなんじゃ、いつか友達無くすぜ」
「いないものは無くならない」
「おいおい。俺は何なんだよ」
「顔馴染みの共犯者でしょう?」
「サボりは犯罪なのか」
「さぁ? 知らないわ」
憎まれ口の応酬をしつつ、彼の手からイヤホンを取り返し、ポケットに仕舞いながら彼の横を抜ける。向かうのは貯水タンクの上。あのままフェンスに凭れているのもいいが、彼がいるのだ。きっと穏やかにはいかない。それなら狭いタンクの上の方が、まだ安心できる。
「昼寝か?」
「えぇ」
「んじゃ、俺も」
予想通り彼はついてきた。ため息を押し殺して声を投げかける。
「男女交際の既成事実でも作るつもり?」
「もう必要無い」
「あら、広めたの」
「広まったんだ」
「結果が変わらないなら同じよ」
「実行した奴が違えば、印象も違ってくるだろ」
互いにこれでもかと毒を吐き続ける。そこに、険悪な空気など無い。こんなのは、ただの戯れ言だ。私も彼もそれを承知しているからこそ、彼との会話はテンポよく進んでいく。悔しいが、彼以上に気楽に言葉を吐き出せる相手はいない。
スカートを押さえながら梯子を登り、貯水タンクの上に横たわる。直後、彼が隣に座った。陽射しから隠すように、彼の影が私の体を覆っていく。
「寝ないの?」
「腕枕でもご所望か?」
「腕より膝の方がいい」
そう言えば、彼は軽く目を見開いた。普段から人との触れ合いを避けている私から、こんな台詞が飛んでくると思わなかったのだろう。だが私だって人肌が恋しい時ぐらいある。無論、そんなことを言うつもりはないけれど。
「珍しいな」
「密着する面積が狭いもの」
「成る程」
一人ごちた彼を無視し、その膝の上に頭を乗せる。女性よりは硬いけど、想像よりは柔らかいそれに肩の力が抜けた。あぁ、やはり彼には心を許しているらしい。触れた箇所から伝わる熱に安堵する自分は認めたくないけれど、だからといって事実が変わるわけでもなく、私は大人しく瞼を下ろした。
「熟睡するなよ」
「保証はできないわね」
「仕方ない。一時間半な」
「午前が終わるわね」
「そうだな」
「……交代しないわよ」
「勝手にするさ」
「セクハラで訴えようかしら」
「確実に負けるな、それ」
「なら、しないことね」
彼の手が、返事代わりに髪を梳いていく。優しい手つきは眠気を増幅させるのに十分だった。完全に意識が沈んでしまう前にと、緩慢になった口を何とか動かして言葉を紡ぐ。
「…………しょうがないから」
「ん?」
「30分だけ、してあげる」
そう言えば微かな笑い声が降ってきた。目を開ければ、静かに微笑んでいる彼が見れることだろう。穏やかな微笑は似合わない気がするのに、何故だか無性にそれを見たくなって。でも体は言うことを聞いてくれなくて。抗う暇も無く、私の意識はまどろみへと沈んでいった。