胸に居着いていた。
放課後。帰宅部同士、今日も棗このみは頬を赤らめながら俺と一緒に帰路を歩く。恋人同士だからと、いつからか一緒に帰るようになった。……なのに。
「きょう、なんかいつもより寒いね」
「そう、だな」
「寒気が迫ってるらしいよ」
「へー……」
そして、言葉を探しながらした返答で、流れは途切れた。今日はこんな会話をすでに二度繰り返している……いや、会話と呼ぶにはまるで掠らない心同士だった。このみをチラリとみると、若干下を向いたままだった。俺ももう、無理に話そうとすることも辞めた。
今年は急に寒くなって秋も存在感をひそめている。この虫もすぐに消えそうなものだ。夕日は変わらず西の空から朱を浸していく。それを眺めるしかすることもない、一緒に帰るという行為に意味を見出せない帰路はいつも退屈だ。
そしてようやく、彼女の家の前まで着く。このみは「じゃあ、その。明日、楽しみだね」と手を振って、ドアを開けて向こうへ消える。それを確認して、俺は作り笑顔を辞める。
そんな、なにも言えない気持ち悪さばかりが胸に居着いている。
このみのことを好きか嫌いかで言えば、好きだ。最初は流れで付き合ったとは言え、好意を向けられ続ければ、いやでも意識は向いてしまうのだ。でもなぜか一緒の時間に心地良さをうまく感じられない。そんな毎日だけど、別れようなどと切り出すほどでもない。しかも、このみは少なからず楽しそうにしているのが、俺にはむしろ苦しい。
その苦しさから逃れるためか、俺は帰る途中のコンビニに寄る。何を買いたい訳でもなくお菓子の棚を見漁る。その中に美味しそうなチョコを見つける。それをレジに持っていこうとしたとき、背後から声がかかる。
「あれ。遼じゃん」
「……真斗か」
「おうおう。元気そうじゃねえの」
背中をバシバシ叩いてくるこいつは緑谷 真斗。俺が軽音部にいた頃の元バンドメンバーである。なんの成果も関係も築けなかった俺の、唯一の友人だ。
真斗は背中を叩く手を止めて言う。
「どしたん。なんでここにいるん」
「帰路にあるんだから寄るだろ。お前はなんで。まだ練習じゃねえの?」
彼のバッグからはみ出るスティックケース、そこからさらに傷だらけのドラムスティックが見えている。すると真斗は苦笑した。
「いやー。風見のバンドが大会近いからな。俺ら有象無象は追い払われたね」
「……ああ」
風見の名を聞いて、俺は何気なしに手を閉じてから開く。半年前は冷えたマイクの感触があったが。
あの自己中傲慢野郎、まだいるんだな。
風見はトップクラスの歌唱力と反比例する人間性で有名だ。そいつと張り合おうとして打ちのめされるやつは数知れず。俺もそのひとりだった。
「まあ一旦話は外でするか」
俺がそう言って一度中断した。俺はチョコを、真斗はカップラーメンを購入してコンビニを出る。
寒空に真斗のカップラーメンの湯気が立ち上る。
「それでさ。お前、彼女とはどうなんだよ」
「まあ、まあまあだな」
「んだよそれ。デートだとか、彼女の好きな物だとかのお惚気を期待して訊いてんのに」
ズルズルと爆速で啜る音がする。この調子ならすぐに食べ終わりそうである。
「すきな、もの……」
その質問で硬直する。このみの好きなものって、何なのだろう。彼女は俺の好みなら、いつの間にか察知していたりする。しかし逆に、俺は。
「……分からない」
「わからないってお前、本当に……って、そういえば……」
真斗は顎に手を当てる。
「お前らってどっちが告ったん」
「……このみだ」
「やっぱりか。なんて言われて?」
「…………言わない」
「なんでだよ教えろよ口堅いぞ俺は〜!」
そうやって十分ほど肩を揺すられ、ようやく話した。
「『部活に一生懸命打ち込む俺が好きだ』ってよ」
真斗は「あー……」と遠くを見る。
「たしかにお前、四六時中非常階段で歌ってたな」
「まあ、結果は付いてこなかったし、メンバーとも、お前以外とはさっぱりだったな」
「話しかけてくれる俺がいてよかったなお前。……にしても、告られたのは辞めてからだよな?」
「ああ」
「それ、このみちゃんに言ったのか?」
「ああ。言ったけど、肯定されたな」
確か、「尾瀬くんはそれでもかっこいいから。きっかけはそれだけど、今はまた、好きな理由が増えてるから」と好意を伝えてくれたはずだ。より一層の不甲斐なさで胸が抑えられたのを覚えている。
真斗はまじまじと俺の顔を見つめる。
彼はボソリと「たしかにいいところではあるけど」と呟き、俺の肩を掴む。
「お前、このみちゃんのこと、好き?」
「ああ」
「ならなんで、このみちゃんの話をする時、そんなに居心地の悪そうな顔してんだよ」
そう言われて、自分の眉間に力が入り、顔が強ばっていることを自覚する。
「あ、れ」
「遼。お前がいいんなら俺はとやかく言うつもりはねえ。けど、不誠実にダラダラ続ける仲を肯定する気もサラサラない」
彼は珍しく睨みに似た視線をぶつけてくる。
「……」
「まあ、付き合ううちに好きな理由が増えるとは思うけど、その兆候がないんなら、そういうことだろうな」
「…………そんなはずは」
といいかけて指を眼前に指される。
「その四分休符、答えだぜ」
キザったく真斗は言った。BPMのない日常に四分もクソもないのに。
真斗は腕時計を見て、慌てて曲がり角に向かう。そして振り返り、
「じゃあな遼。お前の恋愛、応援してるぞ」
そう言って手を大きく振り、角へ消えていった。手に残る、甘ったるいチョコを眺めて、仕舞う。
真斗はやはり人の機微をよく見ている。バンド以外で友好関係の少ない俺とは違うのだ。だからさらに、胸中に燻る生暖かい気持ち悪さが、ひとつ大きくなる。
俺は過去に恋人がいたことがなかった。だからどんな気持ちになるのが正解なのかもわからない。手を繋ぎたくなるものなのだろうか。キスでもしたくなるものなのだろうか。それでも俺は、このみを前にしてそんな気持ちは湧き上がらなかった。むしろこの関係のまま逃げたいと思うようになっている自分がいる。
俺はこのみが好き、なはずだ。彼女は可愛い。目立つ可愛さではなくとも、素直だ。俺なんかでは後ろめたくて目を逸らしてしまうほどに純朴だ。きっと帰り道のぎこちない会話未満の言葉でさえ、幸せを感じられるほど綺麗な心なのだろう。俺には、できないことばかりだ。こんなに汚い思考回路をしているんだ。このみの告白を受けたのだって、部活を辞めてからの虚無感で、恋人に飢えていたからで。大して面識のなかったこのみを好きだったからではなかった。
……『お前の恋愛、応援してるからな』。この言葉を、どんなつもりで言ったのだろう。きっと真斗は、別れろとも、続けろとも言うつもりはなかった。ただ、「誠実であれ」と言っていたんだ。だが俺に、付き合い続ける選択肢を「誠実だ」と言い張れるだろうか。
俺はどうするべきだ。
もう、このみに返せる好意がないことを伝えるか?
それとも関係を続けるか?
きっと彼女は現状に満足しているのに、それを俺の都合で奪うのか?
嫌いな訳でもないのに?
好きかどうかさえ確かじゃなくなってくる。
きっと、続けること自体が、不誠実かもしれない。
言おう。
俺はスマホを取りだし、LINEの画面を開く。このみとのチャットを。入力欄に文字を打つ。
『俺たち 別れよう』
……違う。
『一度、話したいことがある』
……入力しては消して。だけどやっぱり返せない。
それに、明日は、デートをするつもりなんだ。それを、直前で言うのもダメだ。このみから誘われたテーマパーク。彼女が心底楽しみにしていたデート。口では好きだと言いつつ、心の中で何度もわかれるべきだと言っているのに、悲しませることすらも避けたくなるなんて、なんて自分勝手で芯がないんだろうか。こんな態度だから、このみは今日だって無理をしていたかもしれない。今日の笑顔は作ったものかもしれない。……そんな想像をするくらいに信用がないのは、このみに対してではなく自分に対してだと、信じたい。だから。
もう辞めるべきだ。この思案こそが答えだ。せめて最後は、少しでも満たしてやるべきだろう。ネットで見漁ってようやく決めた洋服がクローゼットにかかっている。無難にきれいに整っているセット。これ以上起きていれば、その服を着る資格すら自問してしまう気がして、速めの寝支度を始めた。
そしてデート当日、約束の時間の5分前に着いたはずだった。しかし駅前にはすでにこのみがいた。
しかしすぐにこのみだとは思えなかった。髪は野暮ったさのない癖毛へ。目にかかりそうだった前髪は切りそろえられ。メガネはコンタクトへ。化粧もあるだろうか、いつもは内気な顔が朗らかに見える。
そして何より、オフショルダーのような派手さはないものの、スッキリしたワンピース姿が目を惹いた。
知っているこのみとは違っていた。待ち合わせの目印の前で、何度も小さな鏡を見ては前髪を直している。なんとなく近くまでばれないように行ってみる。
「……明るく、明るく……」
このみは自分に言い聞かせるように胸に手を当て深呼吸していた。後ろから脅かそうかと思ったが、そのワンピースに触れるのも、彼女の集中を切らすのも違うようで、周りこんで目の前にでることにする。そして何食わぬ顔で近づいた。
「よう、……。」
「あっ、遼くん。早いね」
今までは尾瀬くんと呼んでたのに。今日は遼くんと呼んでくるこのみ。なぜなのかの真意を測りかねる。
「そっち、こそ。いつから」
「私はさんじゅ……あっ。今来たところだから」
彼女は、30分前からここで一人で待っていたのか。そんなに、このデートを楽しみだと思えるのか。……それではまるで俺だけが……ずるいみたいだ。
「じゃ、じゃあ行こっか、遼くん。テーマパークは早ければ早い方がいいよ!」
「あ……ああ」
俺は覇気のない返事でついていった。音も出さずスニーカーで歩いていたはずの彼女は、今やメリージェーンを鳴らしている。なんだかすでに別世界に入ったようにかんじながら、彼女につられるまま、電車を乗り継いでいった。
「今日は、なんというか、いつもと違うんだな」
「え、えと。友達と選んで……」
「……」
「……」
そうなんだ、とすら言えない自分に嫌気がさす。しかしそれ以上に、自分の目の前にいる女性の服装から、目を離さないといけない気がした自分を殴りつけたくなった。
テーマパークは思った以上に混んでいた。隣県のものであるが、どうやら先日テレビで紹介されたらしく、幼少期に見た人の密度とは全く違っていた。
名所になっている花畑の小さな丘は通路に沿って人が集り、そこにあるアネモネの色のソフトクリームの屋台は長蛇の列。入口付近は通路でさえ、気をつけなければこのみとはぐれそうになる。手を繋げれば良かったのだろうが、生憎そんな甲斐性もなかった。
どうにかはぐれないようにこのみについて行き、最初に来たのはメリーゴーランド。ここもやはり人が多く、待ち時間は居心地悪かった。
「あっ。このメリーゴーランド、ラッコがいる! しかも二人乗り。遼くんも一緒に乗ろ!」
……初めて見るはしゃぎようだ。呆気にとられてしまう。
「遼くん、ほらほら」
「あっ、ああ」
比較的空いているメリーゴーランドに並ぶ。大体十数分の待ち時間といった感じだった。俺は時間を会話で潰すことなどできず、外を見る。そして頭をぐるぐるさせる。
今日のこのみは明らかに雰囲気が違う。隣にいるのがこのみであると一瞬わからなくなるほどに。彼女は今、どんな気持ちで居るのだろう。いつもは顔から辛うじて推測していたが、今日は全くわからない。なぜそんなにも楽しそうに手を引けるのだろうか。
そう思って隣を何気なしに見た時、このみの視線とかち合った。
「うわっ」
「あっ、その、ごめんね」
「いや、ごめん。あ、俺の顔になんか着いてたか?」
「そういうわけじゃなくて、……遼くん、何を考えてるかな、って」
そう言って笑うこのみだが、その顔はさっきまでより憂いを持っていた。じっと、俺の内側、皮一枚分を見透かす視線だった。十秒、見つめられていた。けれどその十秒がやけに長く感じられてしまい、心臓に重りが乗せられた気分になったまま、列は進んでいった。
そのまま手を引くこのみに流されるまま、ラッコの腹部分に乗り込んだ。目の前にこのみが座り、密着に近い形になる。ふわっとした髪の毛が目の前ではねて、シャンプーの匂いがふわりと薫った。
そしてしばらくの後にゆったり回り始め、ゴウンゴウンという動作音と音質の悪い陽気なBGMが空間を支配する。
このみは上がり下がりする度顔を綻ばせたり驚いたりする。
「好きなのか、ラッコ」
「うんっ。顔もそうだけど、手の動きも可愛くない?」
にこやかに返されて、「そうか」とも言えない。
そういえば、こんなに笑うところも、髪の香りも、ラッコが好きなことも、初めて知った。
五分か十分か続いてメリーゴーランドは停まる。なんのカロリーも消費しないアトラクションなのにこのみは「楽しかった」と言う。それは本心であると傍目でもわかるほどに。
「遼くん。次はどこ行こうか」
「……そう、だな。とりあえず待ち時間の多すぎる場所は避けて、あっちの方とかがいいんじゃないか」
「そうだね。その方がいっぱい乗れるもんね」
本当は待ち時間の気まずさを減らしたいだけなのに。
そしてシューティングのアトラクションや絶叫系、お化け屋敷まで乗ったら、もう空の向こうに茜が見えていた。食べ損ねていたへんてこなソフトクリームを思い出して買い、最後に乗るアトラクションを決めようとしていた時、
「っ、……」
となりに居たこのみがか細い促音を漏らした。
「どうした」
「あ、ううん。なんでもない」
そういってほほ笑む彼女だが、さすがの俺でもそれが無理をしたものだとわかった。
「足見せろ」
「え、いや、大丈夫だよ」
「いいから。あそこのベンチに座るぞ」
そして彼女の足を見てみれば、案の定、靴下のかかと部分をまくれば、血が滲んでいた。
「……お前、無理するな」
「大丈夫だよ。私が、したくてしたことだから」
「そんなんじゃ寝覚め悪い。これ持ってろ」
そう言って俺のソフトクリームを右手に持たせ、近場の売店まで急いだ。道中、足取りは軽くなったような、重くなったような、不思議な感覚を無視して、意味無く走った。しかしテーマパークに絆創膏など売っているはずもなく。見かけるのはお土産クッキーやグッズ程度。どこにも実用的なものはない。なので、ちょうど出てきた店員さんに話しかける。
「すみません。絆創膏をひとつ頂けますか?」
「あー。申し訳ございません。一応備品は無許可に貸し出すことはできないんですよ。誰か怪我をされたんですか」
その言葉は、何か自分を責めているように感じた。ただの確認の質問なのに。そういえば、俺はなんで駆け出したんだろうか。このみの近くから離れたかったから……。しかし連れが靴擦れで痛めておきながら何もしないというのも人としてどうか、そう思っただけのはず。
誰がという言葉に答えるなら、そう。連れと答えるのが、一番適切だ。だから。
「彼女です」
俺は、気づけば答えていた。……なんでだろう。しかしそんな脳内を知る由もない店員は続ける。
「そうですか。……まあ、大丈夫か。少しお待ちください。一枚でいいですか」
「あ、ああ。はい」
そして俺は絆創膏を携えてこのみの元へ向かい、ようやくその後姿を見つけた。名前を呼ぶのは、なぜかとても難しかった。だから彼女の前に回り込む。
「持ってきたぞ」
と彼女の顔を見た時だった。彼女が手元の、右手のソフトクリームを食べていた。そっちは確か、俺の方……。
「……えっ、と?」
「ングッ!? 遼くん……」
口の周りがソフトクリームの色に染まる。しかしよりによってこのソフトクリームの色は、紅色である。ビートルート味だっけか。
「あ、えっとその、こ、これは事故で……」
慌てふためくこのみ。
「落ち着け。俺はあまり気にしないから」
俺は用意していたティッシュでこのみの口元を拭く。
「あ、あのね、変な意味じゃなくて、ただちょっと溶けちゃいそうだったから」
まあそんなことだろうとは思ったが。
「とりあえず絆創膏を貼るから、踵上げろ。食ってていいから」
「あ、うん」
出された踵に絆創膏を貼り付け、このみは立ち上がる。
「ありがとね、遼くん」
「別に、当然だろ」
「遼くんは、優しいね」
そういわれて、のどと心臓に重力がかかる。
「優しくは、ないよ」
俺はこのみから目を逸らす。自分を優しいと思うことなど、どうして出来ようか。少なくとも今までこのみに対してしたことを考えれば……。いや、せっかくデートに来ているんだ。最後まで、せめて彼女を楽しませないといけない。ソフトクリームを受け取って、二人していそいそと食べ終え、二人ともトイレで手を洗って。そしてこのみが、また手を引っ張る。
「ほら、早く行こう?」
「いや、もう少し休んでもいいんじゃないのか。靴擦れしてるんだぞ」
さすがに、彼女は俺の手を引きすぎだ。待ち合わせから今に至るまで。こんな奴だったっけという考えはずっとぬぐえなかった。そんな俺の言葉に目線をそらしてから、陰りのある笑顔で言った。
「だって、今日はやりたいことを全部やりたいもん」
俺には、返せる言葉がなかった。
そして二つアトラクションに乗って、終わったころには茜が空一杯に広がっていた。俺は結局、彼女の名前すら呼べずに今日を終えようとしていた。
「あっ。遼くん。最後はあれに乗ろうよ」
このみは観覧車をさした。園内の人も少なくなり、さらに観覧車はそのまま乗れそうなくらいに人が少なかった。
その観覧車だけ、ほかのアトラクションとは隔絶された雰囲気を持っていた。夕日が照りつけるその場所で、別れを切り出そう。そう決めて、頷いて料金を払った。
そして乗ること数分。早くも四分の一に差し掛かるところだった。沈みゆく夕日が特等席で良く見えた。
「……綺麗だね」
「そうだな」
今日初めて本音を言った。
このみは俺の顔を見、そして俯き。そして申し訳なさそうに言った。
「遼くん。ありがとう。一緒にいてくれて。私は楽しかった」
「あ、ああ。俺も楽しかったよ」
何か引っかかる言い方だった。けれど俺はそれを気にする余裕もなく、今日何度も繰り返した返事をする。
「…………嘘」
「え?」
「遼くんが、嘘をついてることくらい、私だってわかるもん」
泣きそうな、声が混じっていた。
「遼くん、私といても面白くないもんね。帰り道、いつもそうだった」
「それは、違う」
焦燥しながら必死に紡いだ言葉。それを「ありがと」と言って、申し訳なさそうにはにかまれて潰される。
「やっぱり遼くんは優しいよ」
「そんな、わけ……」
「だって、本当に優しくないと、こんなに私で悩んでくれなかった。遼くん、顔に出やすいもん」
笑う顔さえもずるい。もうなにも言い出せない。肯定も否定も意味がない。俺にはもう、続ける言葉がなかった。茜が真横からこのみを照らした。それは東側に暗い暗い影を落とした。
「今日、とっても楽しかったよ」
このみは一息吸った。きっとこれから紡ぐ言葉の重さの分だけ。
「私は、遼くんと一緒にいられて楽しかった。嬉しかった。幸せだった。でもそれは私の幸せで、遼くんの幸せじゃ、ないんだよね」
問うようでありながら有無を言わせないほどに悲しみ、謝り、優しく笑った。
「りょうくんは、どうしたい?」
質問ですらなかった。
観覧車はてっぺんに至っていた。緩やかな上昇感が失せる。あとは、下がるだけ。
「りょうくん。答えは、改めて、りょうくんの口から言って欲しいな。もう……」
彼女は俺に言わせたいらしい。「もう、別れよう」と。
ああ。なんで今になって彼女のことが、こんなに綺麗に見えてしまうんだ。なんでこんなにこのみの方が悲しそうなんだ。なんでこんなに……。このみばっかり、俺のことを知ったように言うんだ。
ずるい。こんな状況で、こんなことを言われてしまったら、そう続けるしかないじゃないか。ずるい。ずるいんだ、彼女は。
こんなに悲壮にこちらを見るな。泣きそうな顔で、見るな。そんな顔は見たくなかったのに。
そしてそれ以上に……今更このみから目を離せなくなるなんて。
「お前は、ずるい」
彼女が俺の言葉で涙を引っ込める。無視して続ける。
「俺のことを好きって言うのはずるい。辞めたことを話しても変わらず好きでいてくれるのがずるい。こんなに不器用な返信に喜べるのがずるい」
「りょ、りょうくん?」
「クソつまらない帰り道ですら幸せそうな顔で歩くのがずるい。このみばっかり俺のことを知っていてずるい。今日のデートだって、こんな俺と一緒に来てるのに楽しめているのがずるい。俺にはできないことを、ずっとし続けられるのが、ずるい」
戸惑う彼女。俺は立ち上がった。夕日は俺の顔面いっぱいに照りつける。下がり続けるその夕日を無視して。
「だから、このみのことを、教えてくれ」
「……え?」
「俺はこのみのことをよく知らない。好きな食べ物も知らない。このみがなんで俺が好きなのか、まだ分からない。愛情の返し方も知らない」
だからこそ、知らないといけない。遅すぎた言葉だ。
俺はずっと誠実であらねばと思っていた。好きであるという気持ちもないまま付き合い続け、このみの気持ちを利用するように関係を続けることが。
違うんだ。
俺もこのみに返すべきだった。このみのことを知ろうとして、もっと近寄るべきだった。
少なくとも、目の前にいる彼女は、 こんなにも愛を向けてくれているのだから。理由も分からない。けれど、都合のいい言葉でしか繕えないほどにもう、俺は彼女のことが好きになっていたんだ。いまはまだ、罪悪感が胸を支配している。けどそれは、これから置き換えていけるものでもあったんだ。
「……なんで」
このみは涙を再び目元に貯める。
「俺はまだこのみを好きだって言い張れない。だから、好きにさせてくれ。もっと、このみを知りたい。これが、俺の答えだ」
「…………わけ、わかんないよ」
そういいながら、このみは笑った。同時に泣いた。
俺は今まで、このみのことを全く知らなかった。彼女がどれだけ俺を好いているかも知らなかった。
「このみ。俺は多分、このみが思っている数百倍は気が利かないしひねくれてるぞ。今までは猫被ってたからな」
俺は口角をあげて言った。
「今まで、気持ちを無視して付き合い続けていたの、私の都合百%だったのに」
「安心しろ。今の俺も自分の都合百%だ。これからも付き合ってもらうからな」
「…………うんっ!」
このみは大きく頷いた。これは答えになっているだろうか。まだ分からない。でも確実に言えることは、このみのはにかみのつられて自分も笑ったこと。そして、胸の後暗さは消えていたこと。
「私、遼くんと付き合えて、本当に良かった!」
彼女は今、俺で笑った。俺に笑った。その事実が、気づけば途方もなく満ち足りるものに変わっていた。観覧車の一室という狭すぎる空間に狭さも感じない、ただ目の前に好きになれる女性がいるのみだった。
俺は彼女を見つめる。そのとき胸の中にあふれるものが、恋人という関係の証左だった。
その時、ふと、脳内に考えが浮かぶ。恋人と言えば、手を繋ぎたくなって、そしてキスをするものだろうかと。このみの顔は今まで近くでまじまじと見たことがなかった。顔が、雰囲気に乗せられて近づいていく。このみも目をつむりながら……。
しかし、無情なドアがバタリと開いた。
「はーいお疲れ様でし……あ」
「…………」「…………」
キス未遂の俺たちを、数名の客と施設員にガン見される。
俺たちはふたりして夕日より紅い顔で共に出ていったのだった。
もう黄昏時だ。薄暗い紫が大気を支配していく。
俺たちは出入口へ向かって足を速めた。
「そういえば、私今日テンション変じゃなかったかな……」
「まあ、変だったな」
「ヒドイよ!」
弄りなんて、このみにしたことがなかったのに。思っていたよりいい反応をしてくれることに驚く。本当に俺は、このみを見ていなかったんだな。
俺たちは隣り合って歩く。その距離は今までよりずっと近かった。
「……遼くん。今日は、楽しかった?」
「ああ。特に観覧車だ」
「ふふっ。たしかに」
大仰な門をくぐり抜ける頃には、また一段と暗くなっていた。このみの顔の輪郭も朧気になっていく。
不確かな影が、さっきの観覧車でのこのみの、悲痛な顔を思い出させる。
その不確かさを拭いたくて、俺は手で、彼女の手を探し、そして握った。
このみは驚いたか声を漏らすが、静かに握り返した。
彼女の手のひらがとても暖かく感じた。後ろ暗さでいつも目を逸らしていたはずが、別の意味でもう直視できない。
互いに駅に着いても、電車の中でも、いつものアスファルトの上を歩いても、いつまでも無言でいた。けれど手を離さなかった。
無言の帰路が初めて、心地が良いと、心から思えた。
その事実が、それだけが胸に居着いていた。




