追放予定の悪役令嬢は完璧な淑女の皮を被って裏で自立資金(魔石)を稼ぐ〜奇行を腹黒な天才公爵令息に見抜かれた結果、極上のオモチャとして捕獲されました〜
(わたくしは、ただ静かに、誰にも依存しない平穏な日々を送りたいだけなの⋯ですわ)
公爵令嬢リリー・ローゼンベルクは、学園の豪奢なサロンの片隅で、そっと紅茶のカップを置いた。
一切の音を立てず、背筋はピンと伸び、その表情には俗世の欲など微塵も感じさせない冷ややかな気高さがある。
彼女が身に纏うのは、深く沈み込むようなディープグリーンのドレス。無駄なフリルや過剰な宝石は一切排除されており、その計算し尽くされたシンプルな仕立てが、逆に彼女の洗練された美しさを際立たせている。
彼女がこのような落ち着いた装いを好むのには、明確な理由があった。
(前世の記憶があるからこそ、無駄な出費は極力抑えたいのよね。流行りの派手なドレスはすぐ着られなくなるし、着回しがきく無地の濃緑色なら、小物を変えるだけで何年も誤魔化せる。余計なドレス代は全部カットして、貯金に回すわ!)
そう、リリーには前世の記憶がある。
前世の彼女は、現代日本でごく普通に働く、極めて現実主義な社会人だった。そんな彼女がある日不慮の事故で命を落とし、気がつけば生前プレイしていた乙女ゲームの『悪役令嬢』リリー・ローゼンベルクとして転生していたのだ。
ゲームのシナリオ通りに進めば、いずれヒロインをいじめた罪で婚約破棄され、家を追われる運命にある。
中身が酸いも甘いも噛み分けた大人の女性であるリリーは、不確かな王太子の愛情にすがることを早々に諦めた。
(他人の心なんてコントロールできない。いざという時、絶対に私を裏切らないのは『現金』と『健康な肉体』よ!)
追放されても平民として自立して生きていくための、強固な資産とサバイバル能力の獲得。それこそがリリーの最優先事項となった。
だからこそ彼女は、破滅フラグの塊である王太子やヒロインには一切関わらず、ひたすら「目立たず、完璧な公爵令嬢」の仮面を被りながら、裏で誰よりも太い資金源を確保するためのビジネスに血道を上げていた。
(よし……! 昨晩、匿名で魔導具ギルドに卸した『古代遺跡の魔石』、想定以上の高値で買い取ってもらえたわね。冒険者から安く買い叩いて、自分で研磨した甲斐があったわ。自作の家計簿の利益欄も、これでまたドンと増えたわ!)
彼女が密かに熱を上げているのは、不用品や未鑑定の魔導具の転売だった。
価値のわかる者から適正価格で買い取り、自らの手で美しくメンテナンスを施し、匿名で高値で売りさばく。前世で培った「安く仕入れて高く売る」という商魂が、この異世界でまさかの大輪の花を咲かせていた。
「リリー様。こちら、王都で今一番人気の『七層のショコラ・ミルフィーユ』でございます。どうぞお召し上がりくださいませ」
取り巻きの令嬢が、うやうやしく皿を差し出してきた。
バターと砂糖がたっぷりと使われ、濃厚なクリームが層をなす、見るからに暴力的なカロリーの塊である。
リリーの胸が、激しく警鐘を鳴らした。
(ひっ、一口で何キロカロリーあるのよこれ!? 冗談じゃないわ、私は追放後の過酷な平民生活に備えて、毎日ストイックな筋トレと食事管理をして、最強の体力とプロポーションを維持しているのよ! こんな爆弾を胃袋に入れられるもんですか!)
内心で絶叫しながらも、リリーの表情は微塵も崩れない。
彼女は伏し目がちに美しい睫毛を揺らし、静かに首を横に振った。
「お心遣い、感謝いたします。……ですが、わたくしは甘味の過剰な摂取は、精神の働きを鈍らせると考えておりますの。お茶会とは、心静かに語り合う場。このような素朴な焼き菓子をひとつ、いただければ十分ですわ」
そう言って、リリーは皿の端に添えられていた、装飾の一切ないプレーンなビスケットを一枚だけ優雅に手に取った。
周囲の令嬢たちが、ハッと息を呑む。
「まあ……! なんとストイックで高潔な精神……!」
「己の欲望を完全にコントロールなさっているのね。派手な菓子に群がる自分たちが恥ずかしいわ」
(違うの! ただ太りたくないだけなの! 追放後に肉体労働をするかもしれないのに、今から体が重くなってどうするの!)
必死の弁明は脳内にとどまり、結果として彼女の『孤高のカリスマ性』はまたしても周囲に激しく誤解されたまま高まっていく。
しかし。
その完璧な立ち回りを、サロンの2階のテラスから、冷ややかな、しかし強烈な興味を惹かれた眼差しで見下ろしている男がいた。
公爵令息、ユリウス・アインホルン。
銀糸のような髪と、氷のように透き通った青い瞳を持つ秀麗な彼は、この国の王太子すら凌ぐと言われる頭脳と魔力を持っていた。
生まれた時から何でもできてしまう彼は、この世界のすべてに絶望的なまでの退屈を感じていた。どうせ誰もが、権力か金か色欲で動く単純な生き物だ、と。
だが、今、彼の視線の先にいるリリーだけは違った。
ユリウスの異常なまでの観察眼は、リリーの「完璧な令嬢の皮」の奥にある、決定的な『違和感』を正確に捉えていた。
(……おかしい。あの令嬢、ミルフィーユを断る瞬間、瞳孔がわずかに開き、喉が微かに動いた。極限まで抑制しているが、間違いなくあれを『食べたい』と思っていたはずだ。それなのに、なぜあそこまでして自制する?)
さらにユリウスは目を細めた。
サロンの外、庭園を歩く近衛騎士の姿が見える。リリーの視線が、ふとそちらに向いた。
恋する乙女のような熱い視線かと思いきや、全く違う。
(彼女の視線は、騎士の顔でも、引き締まった体でも、階級章でもない……騎士の腰に帯びられた『魔導剣の柄』に釘付けになっている。しかも、その眼差しは……そう、市場で獲物の価値を見定める、老練な商人の目だ)
ユリウスの唇の端が、三日月のように吊り上がった。
「……面白い」
完璧な貴族の令嬢が、なぜか魔導具の査定をし、謎の禁欲主義で己の体を管理している。
彼女の内側には、この退屈な貴族社会の常識とは全く異なる、強烈で奇妙な『ルール』が存在しているに違いない。
灰色の世界に、極上のエンターテインメントが舞い降りた瞬間だった。
「リリー・ローゼンベルク……。君がひた隠しにしているその秘密を、特等席で暴かせてもらおうか」
退屈を持て余した天才が、静かに、そして楽しげに毒牙を剥いた。
◆
放課後の旧校舎裏。
手入れの行き届いていないこの中庭は、普段は誰も寄り付かない。
リリーにとって、ここは学園内で唯一「完璧な令嬢」の仮面を外し、前世の現実的な思考のまま息を抜ける貴重なオアシスだった。
「ふぅ……よし。今日は下半身の大きな筋肉を動かして、基礎代謝をガッツリ上げるわよ。目指せ、病気知らずの頑丈な体!」
周囲に誰もいないことを確認したリリーは、最高級シルクのドレスの裾をバサッと豪快に捲り上げ、美しい姿勢のまま、ゆっくりと腰を落とし始めた。
前世の記憶を頼りに編み出した、完璧なフォームで行われるフルスクワットである。追放後の過酷なサバイバル生活を生き抜くには、何よりもまず体力が必要不可欠なのだ。
「いーち、にーい……。ああ、それにしても昨日の取引は最高だったわ」
スクワットをこなしながら、リリーの脳内は別の計算で忙しかった。
(昨日、冒険者ギルドの匿名買い取り所に卸した『濁った幻獣の魔石』……私が徹夜でピカピカに研磨して純度を上げたら、買い取り価格が当初の十倍に跳ね上がったわ! この調子で資金を回していけば、辺境で小さな家を買うくらいの貯金はすぐそこね!)
前世での世知辛い経験が、彼女に「手に職」と「錬金術的な商魂」を植え付けていた。
貴族の令嬢という立場を利用して古い魔導具や質の悪い魔石を安く仕入れ、自らの手でメンテナンスを施して高値で売り抜く。この極秘のサイドビジネスが、彼女の心の安寧を保つ精神安定剤だった。
「さーん、しーい……。ふふっ、私の人生〜♪計画通り……」
「優雅な舞だね。魔力を丹田に集中させるための、古代の儀式かなにかかな?」
「ひゅっ!?」
突然頭上から降ってきた涼やかな声に、リリーはカエルが潰れたような変な悲鳴を上げ、バランスを崩して尻餅をつきそうになった。
しかし、そこは「完璧な令嬢」として日々鍛え上げられた体幹と反射神経。ギリギリで体勢を立て直し、瞬時にドレスの裾を下ろすと、振り返りざまに一切のブレがない完璧なカーテシーをキメた。
「……ご、ごきげんよう、ユリウス様。このような寂れた場所で、奇遇ですわね」
表情は氷のように冷たく、完璧。だが、その背中には滝のような冷や汗が流れていた。
(ユリウス・アインホルン!? なんで学園一の天才にして最高権力者の公爵令息が、こんな裏庭にいるのよ! いつから見てた!? どこまで聞かれた!?)
ユリウスは、銀糸の髪を風に揺らしながら、極上の笑みを浮かべて近づいてきた。
その手には、見覚えのある輝きを放つ石が握られている。
「奇遇だね。僕は少し人混みに疲れてしまってね。静かな場所で、昨日手に入れたばかりの『面白いもの』を眺めようと思っていたんだ」
そう言って、ユリウスが指先で転がしたのは、驚くほど透明度の高い幻獣の魔石だった。
「これは昨日、ギルドの特別ルートに出品されていた魔石でね。元はただの濁った粗悪品だったらしいが、恐ろしく精密な手作業で研磨され、一級品に生まれ変わっている。出品者は『匿名』となっていたが、素晴らしい職人技だよ」
リリーの心臓が、バックンッ!!と爆音を立てて跳ねた。
(それ、私が昨日爪を黒くしてまで磨き上げたやつゥゥゥゥ!! 上客って、あなただったの!?)
前世の記憶を持つ魂が、羞恥と焦りで絶叫する。
貴族の令嬢が、裏で身分を隠して魔石磨きの内職をしているなどとバレれば、社交界の笑いものだ。ましてや、それが学園一の影響力を持つ彼に知られれば、どんな弱みとして握られるかわからない。
リリーは扇子を広げ、口元を隠して小首を傾げた。
「……まあ。わたくしは魔導具の専門的なことは存じ上げませんが、ユリウス様がお気に召すとは、よほどの逸品なのでしょうね。」
見事なポーカーフェイスである。
だが、ユリウスの透き通るような青い瞳は、扇子の奥でわずかに引きつるリリーの頬の筋肉と、泳ぎかけた視線を決して逃さなかった。
(素晴らしい。あれだけ感情を爆発させそうになりながら、外の皮は一枚も剥がれない。こんなに面白い生き物が、この学園に潜んでいたとはね)
ユリウスは内心の歓喜を隠し、さらに踏み込んだ。
「君のその美しい瞳なら、この石の真価がわかるんじゃないかな? どうだろう、少し手にとって見てくれないか」
(グハァッ!!)
リリーの胃袋が、見えない刃で直接抉られた。
自分が磨いた石を、目の前で「専門家」として査定しろと言われているのだ。これ以上の拷問があるだろうか。
「……世の中には、不思議な石もあるものですわね。わたくしには、ただの綺麗な石ころにしか見えませんわ」
「そうか。それは残念だ。もし君がこの研磨の技術を知っているなら、ぜひとも直接お会いして、魔導具の相場や……そう、先ほどの『独自の鍛錬法』について、深く語り合いたいと思っていたんだが」
(完全にバレてるぅぅぅぅ!! なんで!? 完璧に隠蔽していたはずなのに、なんでこの男はスクワットのことまで含めて楽しそうに弄ってくるのぉ!?)
リリーは扇子を握りしめ、必死に震えを抑えた。
これ以上ここにいたら、致命的なボロが出る。
「……わ、わたくし、そろそろ次の講義の準備がございますので、失礼いたしますわ」
逃げるように裏庭を立ち去るリリー。
だが、ユリウスは長い脚で悠々と後を追い、リリーが本校舎の人目のある廊下へ出た絶妙なタイミングで追いつくと、すれ違いざまに彼女の耳元に囁いたのだ。
「ああ、リリー嬢。君のそのストイックな努力、僕はとても美しいと思うよ。これからは僕も、君の『活動』に少しだけ混ぜてもらえないかな」
周囲から見れば、それは「極めて親しげに愛の言葉を囁いている」ようにしか見えない距離感だった。
リリーは足をもつれさせそうになりながらも、何とか踏みとどまり、早足でサロンへと逃げ込んでいった。
その必死な後ろ姿を見送りながら、ユリウスは腹の底から湧き上がる笑いを堪えきれずに肩を震わせた。
「ははっ……くくくっ。なんだあれは。完璧な公爵令嬢が、裏で魔石の転売で小銭を稼ぎ、誰もいない庭で奇妙な屈伸運動をしている……? 最高だ。最高に面白い」
(それにしても……あの微妙に音程の外れた、気の抜けるような歌声ときたら。完璧な淑女の顔をして、あんな下手くそな歌を上機嫌で口ずさむなど……くっ、思い出すだけで腹が痛い)
彼は確信した。
この先、彼女を観察していれば、退屈などという言葉は自分の辞書から永遠に消え去るだろうと。
一方、なんとかサロンへと逃げ帰ったリリーを待っていたのは、さらなる地獄だった。
「皆様、ご覧になりまして!? 先ほど廊下で、あのユリウス様がリリー様に親しげに話しかけておられましたわ!」
「ええ! ユリウス様といえば、他人に全く興味を示さない孤高の天才……。その彼が自ら声をかけるだなんて!」
「常に己を厳しく律するリリー様の気高さに、ついにユリウス様も心を動かされたのね……!」
取り巻きの令嬢たちが、興奮した様子でリリーを囲む。
リリーは胃の痛みに耐えながら、引きつる笑顔を必死に扇子で隠した。
(違う、違うのよ! あいつは私の秘密を握って、オモチャにして遊ぼうとしてるだけなの! お願いだから、私を巻き込まないで……私の平穏な自立ライフを返して……!)
◆
それから数ヶ月。
リリーの学園生活は、控えめに言って「針のむしろ」だった。
どこへ行くにも、彼女を「ストイックで気高い孤高の令嬢」と崇拝する令嬢たちの熱視線が突き刺さる。
そして何より恐ろしいのは、事あるごとに麗しきユリウスがふらりと現れ、彼女の胃壁を削り取っていくことだ。
『やあ、リリー嬢。今日は市場で珍しい魔石の原石を見つけたんだが、君の意見を聞きたくてね』
『本日の裏庭での鍛錬も素晴らしかったよ。僕も一緒に腰を落としてみようか?』
(やめて! 私のビジネスと筋トレをこれ以上いじらないで!)
泣き叫びたい衝動を必死のポーカーフェイスで抑え込む日々。
そんな中、ついに学園最大のイベントである『創立記念夜会』の日がやってきた。
ゲームの本来のシナリオであれば、この夜会で王太子がヒロインの手を取り、悪役であるリリーに婚約破棄を突きつけるはずの運命の夜。
しかし、現実のリリーはそんなことよりも重要なミッションを抱えていた。
(いよいよ今夜だわ……! 夜会の裏で開かれる闇市の特別オークション。あそこで私の最高傑作『純度99%の火竜の魔石』を売り抜ければ、目標金額に到達する!)
夜会の会場。
色とりどりの派手なドレスを着飾った令嬢たちがひしめく中、リリーはいつものように極限まで無駄を削ぎ落とした濃い紫色のドレスに身を包んでいた。
壁際で気配を消し、隙を見て会場を抜け出すタイミングを計っていると――。
「相変わらず、君は誰よりも美しいね」
背後から掛けられた声に、リリーはビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、夜会の主役であるはずの王太子……ではなく、漆黒の夜会服に身を包んだユリウスが、グラスを片手に微笑んでいた。
「ユ、ユリウス様……。本日は王太子殿下のサポートがおありでは?」
「あんな退屈な茶番、僕が付き合う義理はないさ。それよりも、君の方がずっと魅力的だ」
ユリウスは一歩距離を詰め、リリーの耳元に顔を寄せた。
「今夜、ギルドの特別オークションに出品される『火竜の魔石』。素晴らしい出来だったよ。……僕が、最高値で落札しておいた」
(えっ?)
リリーの頭が真っ白になった。
「君がコツコツと積み上げてきた『目標額』には、これで届いたんじゃないかな?」
「……っ! なぜ、それを……!」
「君をずっと見ていれば、それくらい推測できる。君は何かから逃げるために、必死で資金を蓄え、体を鍛えていたのだろう? 今日、この夜会で王太子が何か馬鹿な真似を起こすことまで予見してね」
ユリウスの言葉通り、会場の中央では今まさに、王太子がヒロインの腰を抱き寄せ、何かを宣言しようと息巻いていた。
しかし、リリーの耳にはもう王太子の声など入ってこなかった。
「君のその滑稽で、いじらしくて、最高に面白い努力を、僕はこれ以上ない特等席で楽しませてもらった」
ユリウスは、リリーの震える手を取ると、その甲にゆっくりと口付けを落とした。
「だが、君がここから『逃げて』しまっては、僕の極上の娯楽が終わってしまう。それは困るんだ」
「な、何を……」
「だから、君の目標額の達成祝いと、これからの僕の退屈しのぎへの投資として……僕と婚約してくれないか、リリー嬢」
(はぁぁぁぁぁ!?)
リリーの脳内で、今まで積み上げてきた平穏な自立計画が音を立てて崩れ去った。
「お、お断りいたします! わたくしは、誰にも依存せず、ただ一人で静かに生きていくと決めて……!」
「断れば、君の『裏の顔』を社交界中に言いふらすことになるが、構わないかな? ああ、もちろん王太子のくだらない婚約破棄騒動からは、僕の権力で完璧に守ってあげるよ」
(この腹黒〜!)
美しい氷の笑みを浮かべるユリウスの背後に、逃げ場のない鉄壁の檻が見えた。
王太子の破滅フラグは回避できた。念願の独立資金も手に入った。
しかし、その代償として「一生逃げられない最高権力者からの執着」を手に入れてしまったのだ。
「あ、あああ……」
「返事はイエスだね。さあ、僕の愛しい『職人』殿。これからの君の面白い人生を、僕の隣で存分に見せておくれ」
遠くで王太子が「リリー・ローゼンベルク! お前との婚約は……!」と叫んでいる声が聞こえたが、ユリウスが冷ややかな視線を一度向けただけで、哀れな王太子はカエルのように言葉を詰まらせて固まってしまった。
周囲の令嬢たちは、天才ユリウスに手を取られ、壁際で寄り添うリリーの姿を見てうっとりとため息をついている。
「ご覧なさい、あの美しいお二人を……!」
「気高きリリー様だからこそ、あのユリウス様の心を射止めたのね!」
(違う……違うのよ! 私はただ、ひっそりと平穏に生きたかっただけなのぉーーー!!)
誰にも届かない心の叫びをあげながら、リリーは悟った。
彼女の「完璧な令嬢」としての仮面生活と、胃痛にまみれた日々は、ここからが本当のスタートなのだと。




