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番なのに

作者:
掲載日:2026/07/05



## 1 いつも通り


「ごめん、今日も帰り遅くなる。」


朝食を食べながら、陽翔はネクタイを締める。


「また?」


「うん。新人の面倒見なきゃいけなくて。」


「……そっか。」


奏は笑って味噌汁を差し出した。


「無理しないでね。」


「ありがと。」


そう言って頭を軽く撫でられる。


その手は昔と変わらない。


優しい。


大好きな手。


だからこそ、苦しかった。



高校一年。


隣の席だった。


大学に入って正式に付き合い始め、卒業旅行の日に番になった。


番になれば、一生一緒。


そう思っていた。


社会人になるまでは。



「奏は働かなくていい。」


社会人一年目。


同棲を始めた日に陽翔は言った。


「俺が養うから。」


「でも……。」


「家にいてくれた方が安心。」


「ヒートの時も俺がすぐ帰れるし。」


その言葉が嬉しかった。


守られている。


愛されている。


そう思えたから。


だから奏は仕事を探さなかった。


毎日料理を作り、洗濯をし、陽翔の帰りを待つ。


それが二人の生活だった。



少しずつ。


何かが変わっていった。


「先輩ー!」


会社帰り。


駅前で偶然見かけた。


陽翔の腕へ当然のように抱きつく小柄なΩ。


笑いながら肩を叩き合っている。


楽しそうだった。


その夜。


奏は恐る恐る聞いた。


「あの子……会社の子?」


「うん。新人。」


「距離、近くない?」


陽翔は笑った。


「気にしすぎ。」


「でも……。」


「犬みたいなもんだから。」


悪気なんてない。


分かっている。


でも。


その言葉だけは。


どうしても嫌だった。


犬みたいだから。


だから腕を組んでもいい。


だから甘えてもいい。


だから番より優先してもいい。


そんな風に聞こえてしまう。


「奏?」


「……ううん。」


結局、その日も言えなかった。



ヒートの日。


薬は飲んだ。


それでも身体は熱い。


番になったΩは、自分のフェロモンが番以外へ届かなくなる。


番以外のαのフェロモンにも反応しなくなる。


だからヒート中でも外へ出られる。


薬を飲めば普通に生活できる。


苦しいのは、自分だけ。


それでも。


今日は少しだけ声が聞きたかった。


奏は陽翔へ電話をかけた。


一回。


二回。


三回。


出ない。


『少しだけ声が聞きたい。』


メッセージを送る。


既読はつかない。


もう一度電話をかける。


留守番電話。


「……番なのに。」


誰より近いはずなのに。


こんな時くらい。


出てほしかった。


スマホが震える。


陽翔。


そう思った。


違った。


知らない番号。


『こんばんは。陽翔先輩の会社の後輩です。』


胸がざわつく。


『今、先輩は僕と一緒にいます。』


『だから電話には出られません。』


息が止まる。


さらに続く。


『一つ聞いてもいいですか?』


『……本当に番なんですか?』


奏は画面を見つめたまま動けなかった。


『だって番の貴方より、僕の方が優先されていますよね。』


『休日も。』


『夜も。』


『相談も。』


『困ったら最初に呼ばれるのも僕です。』


『先輩、僕がお願いするとすぐ来てくれるんです。』


そして最後。


『αって番を複数持てますよね。』


『だったら僕も立候補していいですか?』


『今のままなら、僕の方が番らしいことしてる気がするので。』


怒りは湧かなかった。


涙も出ない。


ただ。


心のどこかで。


何かが静かに終わった。


「……番って。」


何なんだろう。



数日後。


「ねぇ、陽翔。」


「ん?」


「僕、働きたい。」


ネクタイを締めながら陽翔が振り返る。


「急に?」


「アルバイトでもいいから。」


「外に出たいんだ。」


少しだけ沈黙。


「そんな必要ないって。」


「俺が稼ぐし。」


「でも。」


「ヒートになったら困るだろ。」


「家にいた方が安心だし。」


まただ。


これは相談じゃない。


話し合いですらない。


「まぁ・・そのうち考えよう。」


「今はしなくていいよ。」


終わった。


奏は頷く。


「……うん。」


陽翔はテレビへ視線を戻した。


奏はキッチンへ向かう。


蛇口をひねる。


水の音だけが響く。


(いつからだろう。)


ちゃんと話を聞いてもらえなくなったのは。


(いつから。)


対等じゃなくなったのは。


守られている。


その言葉で。


何も決められなくなった。



その夜。


薬を飲みながら奏は思う。


番になったΩは安全だ。


フェロモンは番以外へ届かない。


だから仕事もできる。


ヒート中だって薬で抑えれば、苦しいのは自分だけで、誰にも迷惑は掛からない。


(……そうか。)


陽翔がいなくても。


一人で生きられる。


その日から。


奏は昼間だけアルバイトを始めた。


陽翔が会社にいる時間だけ。


夕方には帰る。


夕飯を作る。


洗濯をする。


何も変わらない。


だから気づかれない。


最初のお給料。


小さな封筒を抱き締める。


「……嬉しい。」


夜は資格の勉強を始めた。


事務職に役立つ資格。


陽翔が寝たあと。


毎晩机へ向かう。


少しずつ。


少しずつ。


ここじゃない場所で生きる準備。


相談もしなくなった。


「何食べたい?」


とは聞かない。


作り置きを冷蔵庫へ並べるだけ。


帰りが遅くても。


電話がなくても。


もう何も言わない。


陽翔は安心したと思っている。


奏が落ち着いた、と。


違う。


諦めただけだった。


ある日。


洗濯物を畳みながら奏は気づく。


(……そういえば。)


もう一か月以上働いている。


資格学校にも通っている。


一度も。


「昼間何してた?」


そう聞かれたことがない。


シャツを畳む手が止まる。


(バレないんじゃない。)


静かに笑った。


(陽翔は。)


(もう僕に興味がないんだ。)



就職が決まった。


遠方。


家具家電付きの小さな部屋。


荷物はほとんどいらない。


少しずつレンタルスペースへ運び終えている。


明日。


陽翔が仕事へ行ったら。


引っ越し業者がそこから新居へ運ぶ。


クローゼットを開く。


陽翔のシャツ。


手に取る。


抱き締める。


安心する匂い。


(持っていこうかな。)


寂しくなった時のために。


そう思った。


けれど。


静かに畳み直す。


元の場所へ戻した。


「……もういい。」


鏡を見る。


首筋の噛み跡へ触れる。


「僕は。」


「番がいなくても、生きていける。」


カレンダーを見る。


次のヒートまで、あと三日。


薬もある。


新しい部屋なら。


一人で耐えられる。


だから。


明日、家を出よう。


陽翔には、もう迷惑をかけない。


自分がいなくなっても。


きっと大丈夫。


αは番を複数持てる。


あの後輩が新しい番になればいい。


奏は最後の夕食を作る。


「おかえり。」


いつも通り笑う。


陽翔もいつも通り答える。


「ただいま。」


その"いつも通り"が。


七年間で最後の「おかえり」になることを。


まだ彼は知らなかった。





## 2 いつも通りの朝


「いってきます。」


「いってらっしゃい。」


いつもの朝。


玄関で靴を履く。


振り返ると、奏が笑っている。


その笑顔を見ると、一日頑張ろうと思えた。


高校の頃から変わらない。


俺にはもったいないくらい優しい番だ。


「今日も帰り遅くなるかも。」


「うん、分かった。」


「ごめんな。」


「お仕事だもん。」


奏はそう言って笑う。


怒らない。


責めない。


昔からそうだった。


だから俺も、甘えていた。



会社へ着くと、すぐに声が飛んできた。


「陽翔先輩!」


「あ、おはよう。」


「今日もお願いします!」


今年入った新人のΩ。


人懐っこくて、距離が近い。


最初は驚いた。


でも本人に悪気はない。


犬みたいなやつだ。


放っておくと誰にでも甘える。


「先輩、今日の昼一緒にいいですか?」


「ああ、いいよ。」


周りの先輩社員が笑う。


「またお前か。」


「陽翔、完全に懐かれてんな。」


「まぁな。」


「番いるんだからほどほどにしろよ?」


「大丈夫ですよ。」


俺は笑って答えた。


「犬みたいなもんなんで。」


みんな笑う。


本人も笑う。


だから何も問題ないと思っていた。



昼休み。


新人が仕事の相談をしてくる。


真面目なんだ。


覚えも早い。


でも失敗すると落ち込む。


「先輩……これ間違えました。」


「どれ。」


隣へ座る。


肩が触れるくらい近い。


「ここはこう。」


「あ、なるほど!」


目を輝かせる。


「先輩ほんと分かりやすい!」


教育係として頼られているだけ。


そう思っていた。



夕方。


スマホが震えた。


奏。


一瞬だけ手が止まる。


「先輩!」


新人に呼ばれる。


「すみません!このお客さんなんですけど!」


電話は鳴り止んだ。


(あとで掛ければいいか。)


画面を伏せる。


そのまま忘れた。



夜。


会社を出る。


新人も一緒だった。


「送っていきますよ。近いんで。」


「いや、大丈夫。」


「方向同じじゃないですか。」


結局途中まで一緒に歩く。


他愛もない話。


仕事の話。


趣味の話。


駅で別れて、電車に乗る。


家に着く頃には十時を回っていた。


「ただいま。」


「おかえり。」


奏は笑っていた。


夕飯は温め直されていた。


「ごめん。」


「いいよ。」


何も聞かれない。


怒られない。


やっぱり奏は優しい。



ある日。


「僕、働きたい。」


突然そう言われた。


「急に?」


「アルバイトでも。少し外に。」


俺は困った。


働く必要なんてない。


俺の給料で十分暮らせる。


「ヒートになったら困るだろ。」


「家にいた方が安心じゃん。」


奏は少し黙って。


「……うん。」


と笑った。


納得してくれたと思った。



それから奏は変わった。


「今日は何食べたい?」


と聞かなくなった。


冷蔵庫を見ると作り置きが増えている。


帰りが遅くても先に寝ている日もある。


少し大人になったのかな。


一人の時間も楽しめるようになったのかもしれない。


むしろ安心した。


俺が仕事を頑張れるのも、奏が落ち着いてくれたからだ。


そう思っていた。



奏から電話が来なくなった。


メッセージも減った。


「帰り遅い?」


くらい。


俺も返信は短くなった。


『ごめん。』


『遅くなる。』


『了解。』


それで十分だと思っていた。


番なんだから。


信頼している証拠だ。



金曜日。


新人が言った。


「先輩。もし番がいても、二人目ってありですか?」


思わず笑う。


「何その質問。」


「いや、気になって。」


「制度上はあるけど。普通はしない。」


「へぇ。」


何でもない雑談。


そのはずだった。



土曜日。


休日出勤。


帰宅は夜。


「ただいま。」


返事がない。


リビングを見る。


明かりはついている。


テーブルの上には夕飯。


ラップが掛かっていた。


「先に寝たのか。」


少し笑う。


食事を済ませる。


風呂へ入る。


寝室へ向かった。


「……奏?」


ベッドが冷たい。


トイレ。


いない。


洗面所。


いない。


「コンビニか?」


時計を見る。


二十三時。


珍しい。


リビングへ戻る。


その時だった。


玄関。


奏の靴がない。


「……あれ。」


旅行用のキャリーケースも。


ない。


クローゼットを開ける。


服が少ない。


引き出し。


空いている。


心臓が大きく鳴る。


慌ててスマホを取り出す。


発信。


一回。


二回。


三回。


出ない。


もう一度。


出ない。


部屋が静かだった。


静かすぎた。


奏がいる家の音じゃない。


テーブルの端に、小さな封筒。


見慣れた字で。


──陽翔へ


とだけ書かれていた。




## 3 勘違い


「橘、お前また陽翔さんと一緒?」


昼休み。


同期に笑われて、伊織は照れくさそうに笑った。


「教育係なんだから当たり前じゃん。」


「それにしても仲良すぎ。」


「番いる人なのに。」


「……そうかな。」


少しだけ頬が緩む。


確かに陽翔は番持ちだ。


でも。


だからこそ不思議だった。



入社して半年。


教育係は陽翔だった。


仕事を教えてくれる。


失敗しても怒らない。


夜でも相談に乗ってくれる。


休日でも電話に出てくれる。


困っていると言えば来てくれる。


最初は。


「優しい先輩だな。」


それだけだった。


でも。


それが自分だけではないと分かっていても。


少しずつ特別だと思い始めた。



「先輩。」


「ん?」


「もし番がいても……二人目ってあるんですか?」


陽翔は書類から顔を上げた。


「急にどうした。」


「いや、気になって。」


少し考えてから答える。


「制度としてはあるよ。珍しいけど。」


「へぇ……。」


「なんで?」


「何でもないです。」


伊織は笑って誤魔化した。


でも胸は高鳴っていた。


あるんだ。


ゼロじゃないんだ。



最初から番を奪おうなんて思っていなかった。


そんなことするつもりはない。


でも。


もし。


番がいても。


二人目として愛されることがあるなら。


少しくらい期待してもいいんじゃないか。


そんなことを考えてしまう。



決定的だったのは。


あの日。


先輩のスマホが鳴った。


画面には。


『奏』


番だ。


伊織は思わず目を逸らそうとした。


その時。


取引先から電話が入る。


「先輩!この件なんですけど!」


陽翔はスマホを見た。


少しだけ困った顔をして。


画面を伏せた。


「悪い、続きをやろう。」


電話には出なかった。


伊織は息を呑む。


番より。


今ここにいる自分。


そう思ってしまった。



その夜。


眠れなかった。


先輩は。


僕を優先した。


番より。


僕を。


その事実が。


どうしようもなく嬉しかった。



それから少しずつ。


距離が近くなった。


「先輩、お昼一緒にいいですか?」


「いいよ。」


「駅まで一緒に帰りません?」


「途中までな。」


「休日なのにすみません。」


「気にすんな。」


全部。


断られない。


だから。


勘違いした。



ある日。


会社のシステムを触っていた。


緊急連絡先。


本来なら見る必要なんてない。


でも。


名前が目に入る。


番 奏


電話番号。


伊織は画面を見つめた。


ダメだ。


そう思った。


でも。


指は止まらなかった。


番号を打ち込む。


保存はしない。


それだけだから、と自分に言い聞かせた。



夜。


メッセージ画面を開く。


何度も閉じる。


送っていいのか。


ダメだろ。


でも。


知りたかった。


番って。


本当にそんなに特別なの?


もし特別なら。


どうして先輩は。


いつも僕を優先するんだろう。


震える指で文字を打つ。


本当に番なんですか?


送信。


既読。


返事はない。


続ける。


番の貴方より、僕の方が優先されて大切にされていますよね。


ここで止めればよかった。


でも。


止まれなかった。


αって番を複数持てますよね。


僕も立候補していいですか?


送信。


画面を閉じる。


胸はどきどきしていた。


少し意地悪だったかな。


怒られるかな。


でも。


それだけだった。


奏は怒るかもしれない。


陽翔は困るかもしれない。


それでも。


最後には話し合って。


「番は一人で十分だよ。」


そう言われるか。


あるいは。


「二人目なら……。」


そんな未来だって、少しだけあるかもしれない。


そんな甘い想像をしていた。



それから数か月。


何も変わらなかった。


先輩は相変わらず優しかった。


仕事を教えてくれる。


困れば助けてくれる。


昼も一緒。


帰り道も途中まで。


あのメッセージの返事は結局来なかった。


だから伊織も。


(やっぱり少し失礼だったかな。)


くらいにしか思っていなかった。


番同士のことは本人たちで話し合って終わっているものだと、そう思っていた。



ある月曜日。


朝から会社がざわついていた。


「陽翔さん、今日も休み?」


「有給じゃないの?」


「いや……。」


部長が困った顔で首を振る。


「私用だ。」


その日も。


翌日も。


陽翔は会社へ来なかった。



一週間後。


久しぶりに姿を見せた陽翔を見て、伊織は息を呑んだ。


別人だった。


頬がこけている。


無精髭。


髪も整えていない。


目だけが、酷く疲れていた。


「先輩……。」


陽翔は返事もしない。


デスクへ座る。


仕事を始める。


でも五分もしないうちに手が止まる。


画面をぼうっと見つめている。


あんな先輩、見たことがなかった。



昼休み。


思い切って声を掛けた。


「先輩、大丈夫ですか?」


陽翔はしばらく黙っていた。


やがて、小さく口を開く。


「……奏が出ていった。」


「え……。」


「何も持っていかないと思ってた。」


「でも、服だけなくなってた。」


「家具も家電も全部そのまま。」


「置き手紙だけ残して。」


陽翔は俯いた。


「俺。」


「何も気付かなかった。」


「ずっと一緒に住んでたのに。」


「いつ出ていく準備をしてたのかも分からない。」


声が震えていた。



伊織は何も言えなかった。


服だけ。


家具は置いたまま。


つまり。


最初から住む場所を決めていた。


計画して。


準備して。


何か月も前から。


先輩は。


何一つ気付いていなかった。



その夜。


伊織はスマホを開く。


あの日送ったメッセージ。


本当に番なんですか?


番の貴方より僕の方が優先されて大切にされていますよね。


αって番を複数持てますよね。


僕も立候補していいですか?


既読。


返信はない。


画面を見つめる。


(……違う。)


きっと。


奏さんは。


あのメッセージだけで出ていったんじゃない。


何か月もかけて。


住む場所を探して。


荷物をまとめて。


全部準備して。


その最後に。


僕のメッセージが届いたんだ。


(……じゃあ。)


(あれは。)


最後の一押しだったのかな。


その考えにたどり着いた瞬間。


伊織はスマホを伏せた。


認めたくなかった。


自分は原因じゃない。


でも。


原因の一つには、なってしまった。


その事実だけは、どうしても消せなかった。






## 4 消えた番


封を切る。


一行目を読む。


『探さないでください。』


「……は?」


その先が読めない。


頭に入ってこない。


「何だよこれ。」


もう一度読む。


「奏。」


笑いながら言う。


「悪い冗談だろ。」


返事はない。


「奏!」


家中を探した。


押し入れ。


ベランダ。


物置。


トイレ。


分かっている。


いないことくらい。


それでも。


探さずにはいられなかった。


「奏!!」


静かな家へ声だけが響く。



スマホを掴む。


発信。


一回。


二回。


三回。


出ない。


もう一度。


もう一度。


もう一度。


留守番電話。


「出ろ。」


声が震える。


「奏。」


切れる。


また掛ける。


三十回。


四十回。


五十回。


全部同じだった。



財布だけ持って家を飛び出した。


スーパー。


コンビニ。


夜によく歩いた川沿い。


いない。


駅。


改札。


ホーム。


「この人見ませんでしたか。」


駅員は困った顔で首を振る。



実家。


インターホンを鳴らす。


深夜なのに。


何度も。


扉が開く。


「陽翔くん?」


「奏いますか。」


「え?」


「帰ってませんか。」


義母は青ざめる。


「帰ってないわよ。どうしたの?」


「……いなくなりました。」


義父も起きてくる。


「警察は?」


「まだです。」


「まず探せ。」


「はい。」


車へ飛び乗る。



友人。


知り合い。


思いつく場所。


全部回る。


「奏知らない?」


返事は全部同じ。


「知らない。」


「喧嘩?」


「違う。」


「じゃあ何で。」


「分からない。」


俺にも。


分からない。



夜明け前。


警察署。


「成人されていますので。」


「事件性が確認できないと。」


「事件だろ!」


思わず机を叩く。


「俺の番なんです!」


「何も言わず消えたんですよ!」


警察官は困った顔をする。


「お気持ちは分かりますが。」


分かるわけない。


番がいなくなった苦しさなんて。



朝。


玄関を開ける。


誰もいない家。


「……奏。」


息を吸う。


奏の匂いが薄い。


昨日まで。


毎朝あった。


抱き締めれば当たり前に感じていた匂い。


なくなって初めて気付く。


「っ……。」


胸が苦しい。


頭じゃない。


身体が理解してしまう。


帰ってこない。


足から力が抜ける。


玄関へ座り込む。


「奏……。」


何度呼んでも。


返事はなかった。



スマホが鳴る。


会社。


画面を見つめる。


出ない。


また鳴る。


切れる。


指が動かない。


奏を探さなきゃ。


立ち上がろうとする。


身体がふらつく。


壁へ手をつく。


その拍子に。


冷蔵庫が目に入った。


ゆっくり開ける。


作り置き。


保存容器がきれいに並んでいる。


『月』


『火』


『水』


ラベルまで貼ってある。


「……何で。」


出ていくって決めてたんだろ。


それなのに。


最後まで。


俺の飯を作ったのか。


目が滲む。


レンジへ入れる。


温める。


食べたいわけじゃない。


それでも。


奏なら言う。


『ちゃんと食べて。』


その声が聞こえた気がした。


温まったハンバーグを口へ運ぶ。


一口。


噛む。


味なんて分からない。


ただ。


涙だけが止まらなかった。


「何でだよ……。」


「最後まで。」


「俺の心配してるんだよ……。」


テーブルには置き手紙。


冷蔵庫には作り置き。


洗面所には新しい洗剤。


全部。


陽翔が困らないように。


自分がいなくなった後の生活まで。


奏は整えてから出ていった。


その優しさが。


今は何より苦しかった。


陽翔は便箋を胸へ抱き締める。


「奏。」


絞り出すような声が静かな部屋へ溶ける。


「……お願いだから。」


「帰ってきて。」


その願いだけは。


もう、届く相手がどこにもいなかった。





## 5 なくしたもの


その日から。


会社へは行かなかった。


電話だけ入れる。


「家族の事情で休みます。」


それだけ。


理由なんて説明できない。


番がいなくなりました。


そんな理由。


誰が理解できる。



朝から夜まで探した。


奏が好きだった喫茶店。


公園。


駅。


実家。


友人。


全部。


「知りません。」


その返事ばかり。


電話も繋がらない。


メッセージも既読にならない。


位置情報共有も切られていた。


毎日。


同じ場所を歩いた。


もしかしたら。


帰ってきてるかもしれない。


そんな期待だけで。



義母から毎日電話が来る。


『陽翔くん。』


『何か分かった?』


『ちゃんと寝てる?』


『ご飯食べてる?』


「まだです。」


「見つかりません。」


義母は泣いていた。


「奏……。」


電話越しに名前を呼び続けていた。


陽翔も。


一緒に泣いた。



四日目。


義母からの電話は来なかった。


五日目も。


六日目も。


少しだけ気になる。


でも。


すぐに奏のことを考え始める。


どこにいる。


何を食べてる。


頭はそれだけだった。



七日目。


部長から電話が来る。


『陽翔。一度会社へ来い。』


『仕事しろとは言わん。』


『顔を見せろ。』


断ろうと思った。


でも。


部長が静かに言う。


『このままじゃ壊れるぞ。』


その言葉だけが耳に残った。



久しぶりの会社。


「陽翔……。大丈夫か。」


みんな驚いた顔をする。


鏡を見なくても分かる。


酷い顔だ。


「先輩。」


伊織が近付いてくる。


心配そうな顔。


陽翔は頷くだけだった。



昼休み。


非常階段。


伊織が言った。


「僕。先輩を支えます。」


「だから。僕でも……。」


陽翔は理解できなかった。


「何言ってる。」


「奏さんがいないなら。」


「僕、一人目になれますか。」


思考が止まる。


「……は?」


「だって先輩。ずっと僕を優先してくれてましたよね。」


「休日も。夜も。電話も。」


「何でそうなる。」


本気で意味が分からなかった。


その時だった。


同僚が苦笑した。


「俺らもそう思ってた。」


「え?」


「橘とそういう関係になるのかって。」


「番いるのに距離近すぎたし。」


「完全に番持ちの距離感じゃなかったぞ。」


「教育係だからだろ。」


「教育係以上だった。」


別の先輩も頷く。


「正直、番さん可哀想だなって思ってた。」


「怒らないから公認なのかと思ってたけど。」


陽翔の呼吸が止まる。


「……奏も。」


舌が動かなかった。


「そう思ってたのかな。」


誰も答えない。


でも。


沈黙が答えだった。



家へ帰る。


暗い。


静か。


「ただいま。」


返事はない。


そのまま。


床へ座り込む。


「……奏。」


初めて。


理解した。


浮気してなかった。


でも。


奏を軽んじていた。


「奏なら待っててくれる。」


「奏なら分かってくれる。」


「奏は怒らない。」


全部。


甘えだった。


涙が止まらない。



奏の部屋へ入る。


クローゼット。


引き出し。


机。


全部開ける。


ゴミ箱の底。


見慣れない封筒。


広げる。


給与明細。


資格試験の問題集。


知らない会社だった。


「……働いてた。」


「いつ。」


「何で。」


何も知らない。


同じ家に住んでいたのに。


スマホが震える。


橘 伊織


無視しようと思った。


でも。


指が勝手に開いていた。



先輩


やっぱり無理ですか?



眉を寄せる。


続けて届く。



あの日から考えてました。


僕じゃ駄目ですか?



さらに。



前だって。


番さんがヒートの時も。


僕と一緒にいてくれたじゃないですか。



その瞬間だった。


頭の中で。


何かが弾けた。



ヒート。


電話。


奏から。


着信。


「先輩!」


伊織に呼ばれた。


スマホを伏せた。


後で掛け直せばいい。


そう思って。


忘れた。


帰宅して。


何気なく聞いた。



『そういえば、今日ヒートじゃなかった?』



奏は少しだけ驚いて。


それから笑った。



『今回は軽かったから。薬飲んだら落ち着いたよ。』



俺は。


安心した。


「……違う。」


陽翔は立ち上がる。


軽かったんじゃない。


あの時もう。


俺を頼ることをやめたんじゃないか。


でも。


仕事だった。


浮気じゃない。


教育係だった。


だから仕方ない。


そう思った瞬間。


別の考えが浮かぶ。


もし奏が。


『ヒートだから帰ってきて。』


そう言っていたら。


俺は。


帰ったか。


長い沈黙。


答えは。


嫌になるほど簡単だった。


「……帰らない。」


仕事だから。


もう少し待って。


そう言った。


きっと。


また奏を待たせた。


「何でだ……。」


「何で俺。あんなに奏を後回しにできた。」


息が苦しい。


「俺……。」


「奏が嫌いだったのか……?」


その言葉だけは。


すぐに否定できた。


嫌いなわけがない。


今だって。


息ができないほど苦しい。


会いたい。


触れたい。


なのに。


何で。


あんな扱いをした。



給与明細をもう一度見る。


「家族口座は減ってない……。」


だから。


気付かなかった。


そこで。


また思い出す。


『僕、働きたい。』


あの日。


奏はちゃんと言っていた。


俺は。


『そんな必要ない。』


『家にいた方が安心。』


そう言って。


話を終わらせた。


奏は言わなかったんじゃない。


言った。


俺が。


聞いていなかっただけだ。



「そういえば……。」


あの頃からだった。


奏が変わった。


相談しなくなった。


電話しなくなった。


帰りが遅くても。


何も言わなくなった。


俺は。


それを見て安心した。


「落ち着いたんだな。」


そう思った。


「何で。」


乾いた笑いが漏れる。


「何でそう思った。」


奏は。


そんな奴じゃない。


高校の頃から。


一度決めたら絶対に曲げない。


泣きながらでも最後までやり通す。


頑固で意地っ張りで。


誰より負けず嫌いだった。


「いつから。」


「そんな奏を忘れてた。」


相談しなくなったんじゃない。


落ち着いたんじゃない。


一人でやると決めただけだった。


「……でも。」


また同じ言葉が漏れる。


「だからって。」


「出ていかなくても。」


「よかっただろ。」


その時。


ふと気付く。


「……そういえば。」


義母から。


連絡が来ない。


最初は毎日だった。


それが。


ぴたりと止まった。


スマホを見る。


最後の着信は数日前。


「……まさか。」


陽翔は立ち上がる。


財布だけ掴み。


車へ飛び乗った。



実家の近く。


車を離れた場所へ止める。


チャイムは鳴らさない。


静かに。


家の前まで歩く。


息を吸う。


番の匂いを探す。


……ない。


どこにも。


奏の匂いは残っていない。


「ここじゃない。」


本当に帰ってきていない。


なのに。


義母は連絡してこない。


「じゃあ。」


知ってる。


奏が無事だって。


俺だけ。


知らない。


その事実だけが。


陽翔を焦らせた。



翌日。


陽翔は興信所へ依頼した。


「人を探しています。」


「ご家族ですか?」


「……俺の番です。」


調査員は静かに頷いた。


「承知しました。」



三日後。


報告書が届く。


新しい住所。


勤務先。


勤務時間。


陽翔は報告書を握り締めたまま車を走らせた。



昼過ぎ。


小さなカフェ。


ガラス越しに。


見覚えのある横顔があった。


「……奏。」


息が止まる。


エプロン姿。


髪を後ろで結び。


注文を聞いている。


笑っていた。


柔らかく。


穏やかに。


俺じゃない誰かに。


「……は?」


目を見開く。


何で。


笑える。


俺は。


眠れない。


食べられない。


こんなに苦しいのに。


「何でだ。」


奏は笑う。


同僚も笑う。


楽しそうだった。


胸の奥が重くなる。


「……俺だけ。」


陽翔は車へ戻った。


エンジンはかけない。


ただ。


店の入口だけを見つめ続ける。


仕事が終わる時間。


帰る道。


誰と話すのか。


知らなければならない。


もう二度と。


見失わないために。


陽翔は静かにハンドルを握り締めた。


その日から彼は、毎日その店の前に車を停めるようになった。


執着は、静かに、そして確実に深くなっていった。



## 6 執着


カフェの向かい。


陽翔は今日も車の中にいた。


奏は変わらない。


「ありがとうございました。」


柔らかく笑う。


年配の常連客。


女子高生。


子ども。


誰にでも同じように笑う。


仕事だから。


接客だから。


分かっている。


それでも。


嫌だった。



閉店後。


スタッフが片付けを始める。


一人の男性スタッフが、奏へ話しかける。


「今日も助かった。」


「ありがとうございます。」


「奏くんいると店の雰囲気明るくなるよ。」


奏は照れくさそうに笑う。


「そんなことないですよ。」


「いや、本当。」


二人で笑う。


陽翔の手に力が入る。


男だ。


しかも。


首筋を見る。


α。


番がいる。


奏には番がいる。


なのに。


何で。


そんなふうに笑う。


俺以外に。



翌日も。


その次の日も。


奏は笑う。


客にも。


スタッフにも。


「おはようございます。」


「また来てくださいね。」


その笑顔を見るたび。


息が浅くなった。


何で。


俺には。


あんな笑顔を見せなくなっていた。


いや。


違う。


俺が。


見なくなっただけだ。



男性スタッフが奏の頭を軽く叩く。


「今日もお疲れ。」


奏が笑う。


「痛いですよ。」


怒っていない。


嫌がってもいない。


陽翔は思わずドアへ手を掛けた。


降りようとして。


止まる。


「……違う。」


仕事だ。


分かっている。


でも。


嫌だ。


嫌だ。


嫌だ。



その夜。


車の中。


頭を抱える。


奏は。


番だ。


俺の。


番だ。


なのに。


「……あ。」


不意に。


遠い昔の記憶が浮かぶ。


高校一年。


文化祭。


クラスの女子が言った。


『奏くんって優しいよね。』


『笑顔かわいい。』


その瞬間。


胸がざわついた。


体育祭。


先輩が奏へ話しかける。


『一緒に写真撮ろう。』


奏は困りながら笑う。


大学。


サークル勧誘。


『君、うち来ない?』


奏は笑って断る。


そのたびに。


嫌だった。


誰かが。


奏を見ることが。


「……そうだ。」


陽翔はゆっくり顔を上げる。


「思い出した。」


俺は。


昔から。


奏が俺以外へ笑うのが嫌だった。


だから。


「働かなくていい。」


「俺が養う。」


ヒートが心配だから。


危ないから。


そう思っていた。


いや。


違う。


本当は。


外へ出したくなかった。


奏は外へ出れば。


すぐ好かれる。


だから。


誰かに取られる。


ずっと。


それが嫌だった。


「俺……。」


息が震える。


「守りたかったんじゃない。」


「隠したかったんだ。」


誰にも見せたくない。


誰にも取られたくない。


だから。


家にいてほしかった。


そのくせ。


自分は仕事を理由に奏を一人にした。


「はは……。」


「最低だ。」


独占したかった。


でも。


大切にはできなかった。


「奏。」


店の灯りが消える。


エプロンを脱いだ奏が外へ出てくる。


男性スタッフが笑って手を振る。


「また明日。」


奏も笑って手を振り返す。


「はい。また明日。」


その笑顔を見た瞬間。


胸の奥で、何かが静かに軋んだ。


あの笑顔は、昔は自分だけのものだと思っていた。




## 7 迎えに行く


奏を見つけてから、一か月。


陽翔は店へ入らなかった。


話し掛けもしない。


ただ、見ていた。


朝、何時に家を出るのか。


どの道を歩くのか。


誰と挨拶を交わすのか。


休憩はいつ取るのか。


閉店後、どこへ寄るのか。


スーパー。


本屋。


ドラッグストア。


たまに公園。


決まった生活だった。


それを知るたびに、不思議と安心した。


(今日も生きてる。)


(ちゃんとご飯食べてる。)


(笑ってる。)


……


笑ってる。


そのたびに胸が痛くなる。


俺以外に。


奏は外へ出れば。


すぐ誰かに好かれる。


だから。


誰にも見せたくなかった。


守っていたんじゃない。


閉じ込めようとしていただけだった。


そのくせ。


家では仕事を理由に。


奏を一人にした。


「……逃げるよな。」


初めて。


自分の歪さを認めた。



監禁しても意味がない。


あいつは逃げる。


実際に逃げた。


だったら。


同じことはしない。


「無理やり繋いでも駄目だ。」


「また壊れる。」


「また逃げる。」


「だったら。」


「逃げたいと思わせなければいい。」



翌週。


陽翔は会社へ復帰した。


「戻りました。」


深く頭を下げる。


部長は何も聞かなかった。


「無理するな。」


それだけだった。


陽翔は教育係を外してもらった。


伊織とも必要最低限しか話さない。


定時で帰る。


残業もしない。


その代わり。


在宅勤務へ切り替えられる部署へ異動願いを出した。


夜は副業を始めた。


動画編集。


投資。


思った以上に向いていた。


収入は以前より増えた。


「これなら。」


「仕事を言い訳にしなくて済む。」



家も売った。


奏が帰りたくない家なら。


意味がない。


新しいマンション。


駅から近い。


日当たりがいい。


キッチンは広い。


一部屋多い。


奏が仕事を続けても。


趣味を始めても。


窮屈じゃない。


家具も全部。


奏が好きそうなものを選んだ。


「今度は。」


「ちゃんと話を聞く。」


「働きたいなら働けばいい。」


「友達が欲しいなら作ればいい。」


「外へ出てもいい。」


「どこへ行ってもいい。」


そこまで考えて。


陽翔は静かに笑った。


「でも。」


「俺もいる。」


「ずっと。そばに。」


「朝も。夜も。」


「全部。ちゃんと見る。」


「今度は見逃さない。」


その言葉は。


誰へ向けたものでもない。


自分自身への誓いだった。



そして。


土曜日。


午後三時。


陽翔は初めて車を降りた。


深呼吸を一つ。


扉へ向かう。


カラン、とベルが鳴る。


「いらっしゃいませ。」


聞き慣れた声。


顔を上げる。


奏がいた。


注文票を持ったまま。


笑顔で。


そして。


目が合う。


一秒。


二秒。


奏の笑顔が。


ゆっくりと消えていく。


「……陽翔。」


七か月ぶりに呼ばれた自分の名前に、陽翔の胸は激しく脈打った。


「見つけた。」


その一言だけが、静かな店内に落ちた。




## 8 再会


カラン――。


ドアベルが小さく鳴る。


「いらっしゃいませ。」


反射で顔を上げた。


「……陽翔。」


その瞬間。


奏の笑顔が消えた。


七か月ぶりだった。


陽翔は何度も想像していた。


泣くかもしれない。


怒るかもしれない。


抱きついてくるかもしれない。


でも。


現実の奏は違った。


驚いて。


ほんの少し悲しそうな顔をして。


それだけだった。


「……いらっしゃいませ。」


一呼吸置いて。


接客用の笑顔を作り直す。


その笑顔が陽翔の胸を締め付けた。


俺じゃない。


客に向ける顔だった。


「お一人様ですか?」


「……ああ。」


「こちらへどうぞ。」


奏は何事もなかったように席へ案内する。


メニューを置く。


「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください。」


仕事。


完全に仕事だった。


陽翔だけが震えていた。



奏は他のテーブルへ向かう。


「ありがとうございました。またお待ちしております。」


笑っている。


いつも見てきた笑顔。


でも今は。


俺にも同じ笑顔を向ける。


「……嫌だ。」


思わず零れた。


奏は気付かない。


いや。


気付いても。


仕事だから動かない。


それが余計に苦しかった。



注文を取りに来たのは別のスタッフだった。


「ご注文お決まりですか?」


陽翔は首を振る。


「……奏を。」


スタッフは困ったように笑う。


「申し訳ありません。奏は今ほかのお客様を対応しておりますので。」


"奏"


自然に名前を呼ぶ。


それだけで胸の奥が重くなる。


「仲、いいんですね。」


思わず聞いていた。


「ああ。いい子ですよ。」


「すぐ職場に馴染んで。みんな助かってます。」


その一言一言が刺さる。


俺の知らない奏。


俺の知らない毎日。


俺の知らない笑顔。


全部。


ここにある。



少しして。


奏が水を持ってきた。


「お待たせしました。」


テーブルへ置く。


手首を掴みそうになって。


寸前で止めた。


「……奏。」


小さく名前を呼ぶ。


奏は周囲を一度見回す。


他の客がいる。


店長もいる。


静かに言った。


「勤務中だから。」


「仕事が終わるまで待って。」


その言葉だけで。


陽翔は頷いてしまう。


「……分かった。」


昔なら。


「今話そう。」


と言っていた。


今は。


嫌われたくなかった。


逃げられたくなかった。



閉店。


スタッフが帰っていく。


奏は店長へ頭を下げる。


「お疲れさまでした。」


「お疲れ。」


店長は陽翔へ一度視線を向けた。


何かを察している。


でも何も言わない。


最後の一人が帰る。


奏はエプロンを外した。


「……待たせて、ごめん。」


陽翔は首を振る。


「いや。」


沈黙。


七か月分の言葉があるはずなのに。


何一つ出てこない。


先に口を開いたのは奏だった。


「見つけたんだ。」


責める声ではない。


確認するような声。


「……うん。」


「どうやって?」


少し迷って。


「興信所。」


奏はゆっくり目を閉じた。


小さく息を吐く。


怒らない。


驚かない。


「そっか。」


それだけだった。


その反応が怖い。


「奏。」


「探した。ずっと。毎日。」


「ごめん。」


奏は黙って聞いている。


「俺。何も見てなかった。」


「お前が働きたいって言ったことも。」


「ヒートの日も。全部。」


「俺が悪かった。」


ようやく奏が顔を上げる。


「うん。」


その一言が。


陽翔には何より重かった。


否定も。


慰めもない。


ただ。


事実として受け止められた。


「でも。」


陽翔は一歩近付く。


「変わった。仕事も変えた。」


「在宅が増えた。副業も始めた。」


「収入も前よりある。」


「だから。もうお前を後回しにしない。」


奏は何も言わない。


陽翔は続ける。


「働きたいなら働けばいい。」


「友達も作ればいい。」


「外へ出てもいい。どこへ行ってもいい。」


「でも。」


そこで一度言葉を切る。


「今度は。ちゃんと見る。」


「見逃さない。」


「寂しいも。苦しいも。全部。俺が気付く。」


「だから。帰ってきてほしい。」


長い沈黙。


奏はゆっくりと首を振った。


「……帰らない。」


陽翔の胸が締め付けられる。


「まだ。」


奏は静かに続ける。


「今の陽翔は。」


「僕を見てるんじゃない。」


「失った僕を見てる。」


「だから。まだ帰れない。」


陽翔は何も返せなかった。


その言葉が。


あまりにも正しかったから。



「……どうして。」


声が掠れる。


「俺。変わる。変わった。」


「仕事も。生活も。全部。」


「もうお前を一人にしない。」


奏は静かに聞いていた。


否定もしない。


怒りもしない。


ただ。


まっすぐ陽翔を見ている。


その目が苦しい。


「陽翔。」


穏やかな声だった。


「僕のために。」


少し笑う。


昔と変わらない。


優しい笑顔。


「無理しなくていいよ。」


「違う!」


思わず声が大きくなる。


「違わない。」


奏は遮らなかった。


「陽翔は優しいから。」


「また僕に合わせようとしてる。」


「でも。僕は。そんなこと望んでない。」


陽翔は首を振る。


「望んでなくても。俺がしたい。」


「俺が。お前と。一緒にいたい。」


奏は少しだけ目を伏せた。


それから。


小さく笑う。


「ありがとう。」


その笑顔が。


陽翔には一番苦しかった。


「でも。」


「新しい番を作った方がいいよ。」


陽翔の思考が止まる。


「その後輩じゃなくても。」


「陽翔はモテるαだから。きっといい子がいる。」


「やめろ。」


声が震える。


「そんな話。聞きたくない。」


「僕はね。」


奏は周りを見回す。


店内。


カウンター。


窓際の席。


スタッフが片付けをしている。


店長がコーヒー豆を整理している。


「ここが好きなんだ。」


嬉しそうに笑う。


「毎日すごく楽しい。みんな優しいし。仕事も好き。」


「毎朝起きるのが楽しみなんだ。」


陽翔は何も言えない。


「だから。」


奏はゆっくり首筋へ触れる。


番の噛み跡。


まだ薄く残っている。


「もう大丈夫。心配しないで。」


「僕は。」


少しだけ寂しそうに笑う。


「陽翔がいなくても。」


「ちゃんと笑えるようになった。」


「もう。」


「僕には。」


「必要ないよ。」


静かだった。


責める声じゃない。


突き放す声でもない。


ただ。


事実を伝えているだけ。


だから。


何より残酷だった。


陽翔はその場で立ち尽くす。


"必要ない。"


その言葉だけが。


何度も何度も頭の中で反響する。


番なのに。


唯一なのに。


俺は。


必要ない。


その瞬間。


陽翔は初めて理解した。


奏は家を出たのではない。


陽翔がいなくても幸せに生きられる人生を、自分の力で手に入れてしまったのだ。




## 9 唯一


「もう。」


「僕には必要ないよ。」


その一言で。


陽翔の中の何かが、音を立てて崩れた。


「……陽翔?」


視界が滲む。


息が吸えない。


その場へ膝をつく。


「っ……。」


肩が震える。


涙が止まらない。


店内の空気が変わる。


店長が一歩前へ出ようとする。


スタッフたちが顔を見合わせる。


奏は小さく息を吐いた。


「……店長。少しだけ外で話してきます。」


店長は陽翔を見てから、静かに頷いた。


「分かった。無理だけはするな。」


「はい。」



店の外。


陽翔は俯いたまま泣いていた。


子どもみたいに。


声も隠さず。


ただ泣いていた。


奏は周囲を見回す。


通行人が何人か足を止めている。


「……陽翔。ここじゃ迷惑になる。」


陽翔は返事をしない。


「車で話そう。」


その一言で。


陽翔はゆっくり顔を上げた。



助手席へ奏が座る。


ドアが閉まる。


運転席へ陽翔が乗り込む。


カチッ。


小さな電子音。


ドアロックだった。


奏はその音に気付く。


ちらりと陽翔を見る。


「……鍵。」


陽翔はハンドルを握ったまま俯いている。


「ごめん。今だけ。」


「……陽翔。」


「離れるなんて。」


震える声だった。


「無理だ。俺には。無理なんだ。」


奏は静かに聞いている。


「他の番なんていらない。」


「さっき作れって言ったけど。」


首を振る。


「無理なんだ。奏以外。好きになったことなんて。一度もない。」


陽翔は笑った。


泣きながら。


「高校の時も。大学も。会社も。全部。」


「奏がいたから頑張れた。」


「お前が家で待ってるって思えたから外へ行けた。」


「俺。甘えてた。知ってる。分かってる。」


「でも。」


拳を強く握る。


「もう。無理なんだ。」


「一人じゃ。生きていけない。」


車内に沈黙が落ちる。


陽翔は首筋へ触れた。


番の証。


そこを撫でながら、小さく笑う。


「αは番を複数作れる。そう言うよな。」


「でも。」


ゆっくり奏を見る。


「俺。お前の匂いしか分からない。」


「他のΩが近くにいても。何も感じない。」


「伊織だって。何も。何にも。お前じゃなかった。」


涙が頬を伝う。


「俺。勘違いしてた。」


「奏は俺がいなくても生きていける。それは本当だった。」


「でも。俺は違う。」


「お前がいないと。生き方が分からない。」


奏は窓の外へ目を向ける。


夕暮れの街。


車が走り。


人が笑っている。


静かに息を吐いてから、陽翔へ視線を戻した。


「……それ。」


穏やかな声だった。


「恋じゃないよ。」


陽翔の肩が震える。


「依存だよ。」


責めるためではなかった。


事実を伝えるだけの、優しい声だった。


「僕は陽翔がいなくても生きられるようになった。」


「でも陽翔は。僕がいないと生きられないって言ってる。」


少しだけ寂しそうに笑う。


「それじゃ。昔の僕と同じだよ。」


陽翔は言葉を失う。


反論できなかった。


できるはずがなかった。


今の自分は、本当にそう思っていたから。


奏がいなければ、生き方が分からない。


その事実だけが、何よりも恐ろしかった。



## 10 番の意味


車の中は静かだった。


エンジンも掛けていない。


夕暮れの光だけが、フロントガラスを赤く染めている。


「……それ。恋じゃないよ。」


陽翔は俯いたまま動かない。


「依存だよ。」


「僕は陽翔がいなくても生きられるようになった。」


「でも陽翔は。僕がいないと生きられないって言ってる。」


少しだけ笑う。


悲しそうな笑顔だった。


「昔の僕と同じ。」


陽翔は返事ができなかった。


奏がいない。


それだけで。


毎日が止まってしまった。


「……違う。」


ようやく絞り出した声は弱々しかった。


「依存じゃない。俺は。お前だからなんだ。」


奏は何も言わない。


陽翔は首筋へ触れる。


番の痕。


「番になった日。覚えてるか。」


「覚えてるよ。」


「俺。嬉しかった。世界中の誰より。安心した。」


「これで。誰にも取られないって。」


奏はゆっくり目を閉じた。


「……やっぱり。」


小さく呟く。


「そこだったんだね。」


「え?」


「陽翔は。番になって安心した。」


「僕は。番になって。」


少し笑う。


「もっと頑張ろうって思った。」


「……。」


「陽翔が外で頑張れるように。」


「帰ってきたいって思える家を作ろうって。」


「料理も。掃除も。洗濯も。全部。僕がしたくてしてた。」


「奏。」


「でも。」


奏は陽翔を見つめる。


「いつからか。陽翔は。番になったから大丈夫って思って。」


「僕は。番になったのに。一人だった。」


その言葉は静かだった。


責める口調ではない。


だからこそ。


胸に刺さる。


陽翔は目を閉じる。


全部。


その通りだった。


「……ごめん。」


奏は首を横に振る。


「謝ってほしいわけじゃない。」


「じゃあ。どうすればいい。」


「教えて。何でもする。何年でも待つ。」


奏は困ったように笑った。


「そういうところなんだよ。」


「……え。」


「陽翔。また。僕に答えを聞いてる。」


陽翔は言葉を失う。


「自分で考えて。」


「自分で変わって。」


「自分で生きて。」


「それができるようになったら。」


奏は一度言葉を切る。


陽翔は息を呑む。


「……その時。もう一度。会おう。」


希望だった。


帰るとは言わない。


やり直すとも言わない。


でも。


拒絶でもない。


「もう一度。会えるのか。」


「うん。」


「でも。」


奏は真っ直ぐ陽翔を見る。


「今の陽翔とは。戻れない。」


「今のまま迎えに来られても。僕は帰らない。」


陽翔は静かに頷いた。


納得はできない。


今すぐ連れて帰りたい。


その気持ちは何一つ変わらない。


でも。


一つだけ理解できた。


今の自分では、奏は幸せになれない。


その事実だけは。


痛いほど分かった。


陽翔はゆっくりとドアロックを解除する。


カチッ。


小さな音が響く。


「……ごめん。」


奏は何も言わず、ドアノブへ手を掛けた。


降りる直前。


一度だけ振り返る。


「陽翔。」


「うん。」


「ちゃんと。ご飯食べて。」


その一言は。


昔と変わらない奏だった。


陽翔は思わず笑ってしまう。


涙が滲む。


「……分かった。」


奏は小さく頷くと、車を降りた。


店の明かりへ向かって歩いていく。


その背中を見送りながら、陽翔は初めて思った。


「取り戻す」じゃない。


「帰らせる」でもない。


もう一度、自分を選んでもらわなければ意味がない。


その道がどれほど長くても。


陽翔は初めて、自分自身と向き合うために歩き始めた。



## 11 待てない


奏が車を降りる。


「ちゃんとご飯食べて。」


その言葉だけ残して。


店へ戻っていく。


陽翔は動けなかった。


ドアが閉まる。


店のベルが鳴る。


奏は振り返らない。


手を伸ばしかけて。


止める。


今追い掛けたら。


また逃げられる。


そう思った。



家へ帰る。


新しいマンション。


誰もいない。


広いリビング。


奏のために選んだキッチン。


全部。


空っぽだった。


ソファへ座る。


「自分で考えて。」


「自分で変わって。」


「自分で生きて。」


奏の声が何度も頭の中で響く。


「……分かってる。」


そう呟いて。


笑う。


「でも。」


「待てない。」


会いたい。


今。


声が聞きたい。


その気持ちは。


何一つ変わっていない。



翌日。


オンライン会議。


「以上で終わります。」


画面が消える。


時計を見る。


十五時。


奏の休憩時間だった。


気付けば車へ乗っている。


アクセルを踏む。


「……違う。」


途中で止まる。


ハンドルへ額を預ける。


「行くな。」


昨日。


約束した。


追い掛けない。


だから。


行くな。


「っ……。」


手が震える。


十分。


二十分。


三十分。


戦う。


結局。


車は動かなかった。


「はは。」


「一日目からこれか。」



その夜。


陽翔はノートを開く。


一ページ目。


『奏』


その下へ書く。


今日は会いに行かなかった。


少しだけ誇らしかった。


でも。


その横へ小さく書き足す。


本当は行きたかった。



一週間。


会わなかった。


二週間。


会わなかった。


三週間。


限界だった。


「一目だけ。」


「見るだけ。」


誰にも迷惑を掛けない。


そう言い訳して。


車を走らせる。



カフェ。


窓際。


奏がいる。


笑っている。


その姿を見た瞬間。


陽翔の肩から力が抜けた。


「……よかった。」


生きてる。


笑ってる。


それだけで。


安心した。


その日は。


本当にそれだけで帰った。



翌日も。


その次の日も。


気付けば。


また来ていた。


店へは入らない。


話し掛けない。


ただ。


遠くから。


奏を見る。


陽翔は苦笑した。


「結局。」


「見てる。」


奏は知らない。


約束を守ろうとしていることも。


毎日必死に戦っていることも。


でも。


最後だけは。


守れなかった。


見ないではいられなかった。


「ごめん。」


誰へ向けた謝罪なのか。


自分でも分からない。


「もう少しだけ見てる。」


その言葉は。


約束を破る言い訳だった。


そして陽翔は気付いていない。


車道の向かい。


信号待ちをしていた奏が。


一度だけ。


こちらを見ていたことに。


目が合った。


……気がした。


奏は何も言わず。


そのまま歩いて行く。


奏はとっくに。


「見られていること」に気付いていることを。



## 12 見えていた


「奏くん。」


昼休憩。


店長がコーヒーを淹れながら声を掛けた。


「最近さ。」


「はい?」


「知り合い?」


奏は手を止めた。


店長は窓の外を見ている。


道路の向かい。


黒い車。


もう三週間。


同じ場所に停まっている。


奏も窓を見る。


今日は曇っていて、中までは見えない。


でも。


誰が乗っているかは分かっていた。


「恋人?」


「元、です。」


嘘ではない。


「トラブル?」


「大丈夫です。」


店長は少し黙る。


「困ってるなら言えよ。警察でも。俺でも。」


奏は笑った。


「ありがとうございます。でも。悪い人じゃないんです。」


店長は苦笑した。


「悪い人じゃないやつが、一か月も毎日同じ場所に車停めるか?」


その言葉に。


奏は返事ができなかった。



仕事帰り。


いつものスーパー。


買い物を終える。


外へ出る。


ショーウィンドウへ映る。


黒い車。


一定の距離。


追い越さない。


近付きもしない。


ずっと。


同じ距離。


奏は小さく息を吐く。


「陽翔。」


聞こえない距離で。


名前だけ呼んだ。



その夜。


アパート。


お風呂へ入る。


ベッドへ座る。


窓の外を見る。


ここまでは来ない。


それだけは守っている。


奏はスマホを開く。


陽翔とのトーク画面。


最後は。


七か月前。


おかえり遅くなる?


画面を閉じる。


「……変わったんだ。」


前なら。


店へ入ってきた。


腕を掴んだ。


連れて帰ろうとした。


でも今は。


見ているだけ。


約束を守ろうとしている。


だから。


余計に苦しかった。



一方。


車の中。


陽翔は今日もノートを開く。


『今日も笑ってた。』


『昼はオムライス。』


『スーパーで牛乳。』


『元気そう。』


ペンが止まる。


「……違う。」


こんなの。


知る必要ない。


そう思う。


でも。


書かずにいられない。


「今日も笑ってた。」


それだけで安心する。


「俺。本当に変われてるのか?」


誰にも聞けない。


「……でも。」


ノートを閉じる。


「見ないと。」


「生きてるか分からない。」


「誰かに。」


「取られるかもしれない。」


最後の一言で。


陽翔は固まる。


「……あ。」


違う。


そこじゃない。


「取られる。」


その言葉が。


一番先に出た。


「俺。まだ。全然変わってない。」


分かってしまった。


奏を心配している。


それは本当。


でも。


それ以上に。


誰かのものになることが怖い。


だから。


見ている。


「奏。」


陽翔は静かに呟く。


「どうしたら。変われる。」


その答えを知らない。


だから。


また明日も。


車を走らせる。



翌朝。


奏は家を出た。


郵便受け。


一通の封筒。


差出人はない。


警戒して開く。


中には。


一枚だけ。


写真。


昨日。


スーパーで笑っている自分だった。


裏には短い文字。


『昨日も笑ってて安心した。』


奏の手が止まる。


「……陽翔。」


写真には悪意はない。


脅しもない。


ただ。


"見ていた"


という事実だけが。


静かに写っていた。



## 13 怖い


写真を見つめたまま、奏は動けなかった。


裏返す。


昨日も笑ってて安心した。


たったそれだけ。


脅しでもない。


悪口でもない。


なのに。


背筋が寒くなった。


あの人は。


自分が元気ならそれでいい。


そう思っている。


でも。


元気かどうかを知るために、毎日見ている。


それが怖かった。



「奏くん?」


店長が声を掛ける。


「顔色悪いけど。」


奏は写真を見せた。


店長の表情が変わる。


「……これ。」


「知ってる人です。元番です。」


店長はゆっくり息を吐く。


「警察行くか?」


奏は首を横に振る。


「まだ。」


言葉が続かない。


店長は静かに言う。


「怖くなったら、すぐ言え。一人で抱えるな。」


「はい。」



その夜。


奏は母へ電話を掛けた。


「もしもし。母さん。」


少し沈黙が流れる。


「陽翔のこと。」


母はすぐに察した。


「会ったの?」


「うん。」


「……そう。」


奏は迷ってから聞いた。


「陽翔。家に来た?」


電話の向こうで静かに息を吐く音がした。


「来たわ。何度も。」


やっぱり。


「教えなかったよね。」


「もちろん。」


「でも。」


母の声が少し震える。


「毎回来るの。奏は元気ですか、それしか聞かない。」


「奏を返してくださいとも。」


「住所を教えてくださいとも。」


「一度も言わなかった。」


「ただ。」


『元気ならいいんです。』


『ちゃんと食べてますか。』


『笑ってますか。』


それだけ。


母は少し笑う。


「最後はね。毎回泣いて帰るの。」


奏は何も言えなかった。


「……奏。」


「うん。」


「陽翔くん。壊れてる。」


「でも。悪い子じゃない。」


「知ってる。だから困るの。」


奏は静かに呟いた。


「僕。今なら。前より怖い。」


「どうして?」


「前は。閉じ込めようとしてた。」


「今は。僕を自由にしてる。」


「でも。全部知ってる。」


母は黙って聞いていた。


「自由なのに。逃げられない気がする。」


その一言に。


母は返事をしなかった。



電話を切る。


ベランダへ出る。


夜風が気持ちいい。


空を見上げる。


「陽翔。」


写真を握る。


「変わろうとしてる。」


「でも。まだ。苦しいね。」


その夜。


奏は一つの決心をした。


逃げ続けるだけでは終われない。


一度。


ちゃんと終わらせる。


あるいは。


始め直すために。


陽翔と、もう一度だけ向き合おうと。




## 14 条件


翌週。


店長に相談して、奏は半休を取った。


場所は、あのカフェではない。


家でもない。


人通りの多い公園。


昼間。


逃げようと思えば逃げられる場所。


スマホを開く。


陽翔とのトーク画面。


七か月前で止まったまま。


奏は短く打った。


少しだけ話せる?


送信。


一秒。


二秒。


着信になった。


「……もしもし?」


『奏?』


「うん。」


『何かあった?』


「違う。」


『体調?』


「違うよ。」


少し笑ってしまう。


「話がしたいだけ。」


電話の向こうで息を呑む音がした。


『……行く。』


「今から?」


『今から。』


「仕事は?」


『帰る。』


「駄目。仕事終わってからでいい。」


『……分かった。』


ちゃんと。


分かったと言った。


それだけで。


少しだけ安心した。



夕方。


陽翔は時間ぴったりに現れた。


スーツ姿。


息を切らしていない。


昔なら。


仕事を放り出して来ていただろう。


奏はそれに気付いた。


「待った?」


「いや。十分前に着いただけ。」


二人でベンチへ座る。


少しだけ距離を空けて。


沈黙。


先に口を開いたのは奏だった。


「写真。」


「……ごめん。」


言い訳はしなかった。


「怖かった。」


「うん。」


「見られてるって思った。」


陽翔は俯く。


「ごめん。」


また謝る。


それだけだった。


奏は少しだけ笑う。


「前なら。そんなつもりじゃないって言ってた。」


陽翔は苦く笑う。


「昔の俺ならな。」


また沈黙。


風だけが吹く。


「陽翔。」


「うん。」


「僕。考えた。」


陽翔はゆっくり顔を上げる。


「まだ。今すぐは無理。」


胸が締め付けられる。


続きを待つ。


「でも。」


奏は真っ直ぐ陽翔を見る。


「嫌いになったわけじゃない。」


陽翔の瞳が揺れた。


「だから。もう一回だけ。やり直してみてもいい。」


「……奏。」


涙が滲む。


奏は手を上げる。


「でも。条件がある。」


陽翔は何度も頷く。


「何でも。守る。」


「聞いて。」


奏は指を一本立てた。


「一緒には住まない。すぐには。僕は今の家に住む。」


「うん。」


「二つ目。仕事は辞めない。好きだから続ける。」


「……うん。」


「三つ目。僕のスマホを見ない。位置情報も共有しない。」


陽翔は少しだけ苦しそうな顔をした。


「守れないなら。終わり。」


陽翔は目を閉じる。


ゆっくり息を吐いて。


「……守る。」


「四つ目。毎日会わない。会う日は二人で決める。」


「分かった。」


「五つ目。」


奏は少しだけ笑った。


「ヒートの時。僕が呼んだら。」


陽翔は顔を上げる。


「絶対来ること。」


その言葉を聞いた瞬間。


陽翔の瞳から涙が零れた。


「……うん。」


声にならない。


「絶対。何をしてても。行く。」


「仕事でも。会議でも。全部置いて。迎えに行く。」


奏は苦笑した。


「全部置いてこなくてもいい。」


「置いていく。約束する。」


その返事はあまりにも即答で。


奏は思わず吹き出した。


「ばか。」


久しぶりに。


陽翔へ向けた自然な笑顔だった。


陽翔はその笑顔を見て。


泣きながら笑った。


「あと一つ。」


奏はゆっくり立ち上がる。


「今日から。番じゃなくて。恋人から。やり直そう。」


陽翔は目を見開く。


「番なのに……?」


「うん。」


「番だから安心した結果。僕たちは壊れた。」


「だから今度は。毎日。恋人として。選び直そう。」


風が吹く。


陽翔はゆっくり立ち上がった。


「……ありがとう。」


「違う。」


奏は首を振る。


「これが最後のチャンス。次はない。」


陽翔は真っ直ぐ奏を見る。


「分かってる。」


本当に分かっているのか。


奏にはまだ分からない。


でも一つだけ。


以前と違うことがあった。


陽翔はもう、「分かった」と言うだけではなかった。


その約束を守るために、自分を変え続けようとしていた。


それを見届けてみよう。


奏は、そう思えた。




## 15 ただいま


約束から、一年。


「奏、お先。」


「お疲れさまです。」


カフェのスタッフへ頭を下げる。


エプロンを外す。


店を出る。


冬の風は冷たかった。


スマートフォンが震える。


今日もお疲れ。


思わず笑う。


一年前なら。


毎日連絡なんて重いと思ったかもしれない。


でも今は違う。


朝は、おはよう。


昼は、ご飯食べた?


夜は、お疲れ。


それだけ。


返事が遅くても責めない。


位置情報も聞かない。


誰といたのかも聞かない。


約束だった。


陽翔は、一年間。


一度も破らなかった。



駅前。


見慣れた人影。


「陽翔。」


「お疲れ。」


スーツではない。


在宅勤務だったのだろう。


「迎えに来た。」


「ありがとう。」


自然に並んで歩く。


恋人になって一年。


でも。


まだ別々に暮らしている。


「今日は家寄る?」


「うん。夕飯作った。」


「また?」


奏は笑う。


「最近作りすぎ。」


「食べてほしいから。」


「ふふ。」


昔と似た会話。


でも。


昔とは少し違う。


陽翔は。


「今日は何食べたい?」


と聞くようになった。


「仕事どうだった?」


と最後まで聞くようになった。


「嫌なことあった?」


と途中で遮らなくなった。


小さな変化。


でも。


奏には全部分かっていた。



マンション。


玄関。


「ただいま。」


「いらっしゃい。」


もう。


"帰ってきて"


とは言わない。


奏が来る日は。


奏が決める。


それも約束。


夕飯を食べながら。


他愛ない話をする。


カフェの常連。


店長の失敗。


新作メニュー。


陽翔は笑って聞いている。


途中で口を挟まない。


「……陽翔。」


「ん?」


「変わったね。」


陽翔は少し照れたように笑う。


「毎日怒られてるから。」


「怒ってない。」


「教えてもらってる。」


奏は笑った。


「そういうところ。」


「うん。」



食後。


ソファで並ぶ。


スマホが震えた。


奏は画面を見る。


少しだけ顔色が変わる。


陽翔は気付く。


「どうした。」


「……たぶん。」


少し照れくさそうに笑う。


「ヒート。」


空気が止まる。


陽翔は立ち上がらない。


慌てない。


「どうしたい?」


そう聞いた。


奏は少しだけ目を見開く。


それから。


ゆっくり笑った。


「……陽翔。」


「うん。」


「迎えに来て。」


陽翔は一瞬だけ固まる。


その言葉を。


一年。


ずっと待っていた。


「うん。」


短く答える。


コートを取る。


財布を持つ。


「病院寄る?」


「ううん。家でいい。」


「分かった。薬ある?」


「ある。」


「水は?」


「ある。」


「じゃあ。」


靴を履く。


「行こう。」


奏は玄関で立ち止まる。


一年前。


同じように。


陽翔へ電話した。


出てもらえなかった。


だから。


もう頼らないと決めた。


でも。


今日は違う。


自分から。


頼んだ。


陽翔は。


当たり前のように隣へ立つ。


「待たせた?」


奏は首を横に振る。


「ううん。すぐ来てくれた。」


陽翔は少し笑う。


「約束だから。」


その一言だけで。


奏は胸が熱くなった。



夜。


ベッド。


奏は陽翔の肩へ寄り掛かる。


「ねぇ。」


「ん?」


「番って。何だと思う?」


陽翔は少し考える。


昔なら。


「絶対離れない相手。」


そう答えただろう。


「……毎日。選び続ける相手。」


奏は静かに笑った。


「正解。」


首筋の番の痕へ。


そっと触れる。


傷は残っている。


でも。


二人を繋いでいるのは。


もうその傷だけじゃない。


約束。


会話。


信頼。


そして。


毎日。


お互いを選び続ける意思。


「ただいま。」


奏が小さく呟く。


陽翔は優しく抱き寄せた。


「おかえり。」


その言葉は。


今日も自分を選んで帰ってきてくれたことへの、感謝だった。




## 16 愛し方


「行ってきます。」


「行ってらっしゃい。」


玄関で軽くキスをする。


奏は笑って会社へ向かった。


ドアが閉まる。


陽翔は三秒だけ立っていた。


それから。


静かにスマートフォンを開く。


画面には今日の予定。


10:00 カフェ出勤


13:00 昼休憩


18:00 退勤


全部。


奏が教えた予定だった。


共有カレンダー。


約束して作ったもの。


位置情報はない。


でも。


陽翔は微笑む。


「今日は残業ない。」


「十七時五十分には店を出るな。」



仕事を始める。


在宅。


オンライン会議。


資料作成。


副業。


忙しい。


でも。


デスクの横には。


一冊のノート。


『奏』


一年前のノートとは違う。


尾行記録じゃない。


好きなもの。


嫌いなもの。


最近眠れているか。


疲れている顔。


笑った日。


泣いた日。


全部。


「今日は新作ケーキの日だ。」


「甘いもの好きだから。」


昼休み。


陽翔はカフェへ配達を頼む。


差出人は書かない。


奏はきっと。


「店長かな。」


と思う。


それでいい。



夕方。


会議中。


画面の隅。


スマホが光る。


奏から。


今日少し遅くなるね。


陽翔は少し笑う。


返信する。


分かった。気を付けて。


それだけ。


それ以上送らない。


約束だから。


でも。


会議が終わると。


陽翔は窓を見る。


「今日は二十分遅い。」


「何かあったかな。」


自然と心配になる。


「……いや。」


首を振る。


待つ。


信じる。


昔とは違う。



十九時十二分。


インターホン。


「ただいま。」


「おかえり。」


奏が笑う。


「ごめん。常連さんと話し込んじゃった。」


陽翔は一瞬だけ止まる。


「……そう。」


胸の奥が重くなる。


知らない男。


知らない会話。


知らない二十分。


昔なら。


全部聞いた。


今は。


聞かない。


約束だから。


「疲れた?」


そう聞くだけ。


奏は笑う。


「うん。今日は甘いもの食べたい。」


「ちょうどある。」


陽翔は冷蔵庫を開ける。


新作ケーキ。


奏は驚く。


「え!何で分かったの?」


「……勘。」


陽翔は笑った。


「すごい。」


奏も笑う。



夜。


奏が眠る。


規則正しい寝息。


陽翔は髪を撫でる。


優しく。


起こさないように。


「奏。」


小さく名前を呼ぶ。


返事はない。


陽翔はサイドテーブルの引き出しを開ける。


古いノート。


監視していた頃の。


びっしりと埋まった記録。


ページをめくる。


7:58 家を出る


8:14 コンビニ


12:05 オムライス


18:17 退勤


陽翔は静かに笑う。


ノートを閉じる。


引き出しへ戻す。


鍵を掛ける。


そのまま。


奏を見つめる。


「安心して。」


優しく囁く。


「約束は守る。もう監視なんてしない。」


少しだけ。


言葉が止まる。


「……でも。」


眠る奏の髪へ口付ける。


「お前が笑わなくなったら。」


「疲れてたら。」


「無理してたら。」


「俺は。絶対に見逃さない。」


「もう二度と。気付けなかった、なんて言わない。」


陽翔は穏やかに笑う。


その笑顔は。


誰が見ても。


優しい恋人だった。


けれど。


奏は知らない。


玄関の傘立てには、奏が昨日「雨かな」と呟きながら迷っていた傘が、今朝ちゃんと手前に出されていたことを。


冷蔵庫の新作ケーキが、奏の好きな期間限定商品だと陽翔が発売日に調べていたことを。


共有カレンダーに書かれていない予定を、陽翔が「聞く」のではなく、奏との何気ない会話を何度も思い返して頭の中で組み立てていることを。


監視ではない。


尾行でもない。


GPSもない。


ただ。


奏という人間を、誰よりも見て、誰よりも覚えている。


それが陽翔の愛し方になった。


歪みは消えていない。


形を変えただけだった。


そして陽翔は今日も穏やかに笑う。


「おかえり。」


明日も。


明後日も。


その先も。


世界で一番、奏を見続けるのは、きっと俺だ。


――了

pixivにも掲載しています。

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