あのころ 後編
『目障りだ。消えろ』
「そいつは聞けねぇな。何でこんなとこにお前みたいなのがいるのか知らねぇけど、放っておけねぇ」
男性は随分と遠くから走って来たのか、やや息を乱しつつも、獣が直接彼の脳に響かせたであろう低音かつ鋭い脅しに全く怯む様子はない。それどころか、即座に言い返すや否や、私に覆いかぶさる獣の背に向けてまっすぐに剣を構えた。
少し長めの波打つ赤い髪を一つに束ね、丈の長い茶色の外套をはためかせながら、剣を構えるその姿は、荒々しい言葉とは裏腹に泰然としている。その態度に加えて、身につけている衣服、武器から察するに、彼は間違いなく老練の旅人だ。
色々と話を聞いてみたい、などと考えながら男性に視線を向けたところでやっと、私は現状というものを思い出した。自分の考えに囚われて周囲が見えなくなってしまうのは、私の悪い癖だ。いつ何が起こってもおかしくない、緊迫した空気の中、この状況を打開すべく思い切って口を開いた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 違うんです。これは襲われているわけじゃなくて、何というか、その……一種の挨拶みたいなもので!」
「挨拶って……そりゃないだろ、いくらなんでも。何でこんなのを庇うんだか知らんが、……悪いな。見過ごせねぇよ、俺には」
取り敢えず男性に向けて制止の声をかけたは良いが、その後が上手く続けられず、到底相手を納得させられそうにない言葉が口から零れ、最後は笑って誤魔化すしかなくなった。そんな私を馬鹿にするわけでもなく、男性はあくまで冷静に言葉を返すと、私に向かって安心させるかのように束の間、微笑んだ。
―――――格好良すぎる。惚れるじゃないか。
思わずその微笑みに見惚れたのが悪かったのか、途端に獣の様子が変わった。それまでは然程興味なさげに、見向きもしないままであったのに、徐に食らいついていた私の肩口から顔を上げて対象を捉えるその目は、既に完全に戦闘態勢に入っていた。
―――――これはマズい。
男性も相当な腕前であろうが、対するこちらはこの獣である。いくらなんでも徒で済むはずがない。しかも他の場所ならばともかく、よりにもよって今いる場所は、「ガルラ・ビ・イラムフ」。こんな誰一人としていない、何もない場所で怪我を負おうものなら、それがたとえ軽度のものであったとしても、これから先の彼の旅路に一体どんな支障を来してしまうか分からない。
今にも両者がぶつかり合いそうな状況の中、私は決心した。
無用の戦いは避けて然るべきだ。
妙なプライドなんてものはさっさと捨てよう。
そして私は、この世界で私だけが知る、その唯一の名を呼んだ。
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「なぁ、何でお前はしょっちゅう俺に噛みついてきたんだ?」
ふと昔を振り返ってみて、ずっと疑問に思っていたことを思い出した。当時、何度聞いても答えが返ってくることはなく、結局分からず仕舞いのままであった。
それにしても酷い話だ。一体どこに、自分の従わせる獣にしょっちゅう噛みつかれる主人がいるというのだ。戯れ合いの延長ならまだしも、軽く目眩が起こるまでの血が流れ落ちる程に噛みつかれるというのは、まずないだろう。おかげでその現場に遭遇し、かつ助け出そうとしてくれた人達に、この情けない現実を一々説明しなければならなかった。
当時を思い出し、恨めしげに見れば、対する当の、今は人の姿をした獣は心底馬鹿にするような目を俺に向けながら、あっさりと、まるでそれがこの世の理だと言わんばかりの口調で言い切った。
「はぁ? 求愛行動以外に何があるってんだよ。アホが」
「…………求、愛?」
いやいや求愛、ではないよな、違うよな。そんなわけないもんな。
“きゅうあい”って、他に何か意味があったっけか。俺が知らないだけで、この世界特有の、誰もが知っている何かで“きゅうあい”という名のものがあるのか。
相手が発した言葉を瞬時に頭で処理しきれず、混乱する俺に、獣は何を思ったのか徐にこちらに近づいてきた。そして更にぐっと顔を近づけると、混乱の極みにある俺に止めを刺すかの如く、決定的な言葉を発した。
「つまりヤラせろってことだな。お前がいつまでも乳臭ぇガキのまんまでいやがるから、参ったぜ。……でもまぁ、今度はその心配はねぇな」
「……は?」
目の前で嫌な笑みを浮かべるその姿を、未だ思考が追いつかないままぼんやりと見ていると、突然唇を舐め上げられた。驚きのあまり目を閉じることもできず、ただその瞳の金に見入る。
「今日は俺がたっぷり飲ませてやるよ? 主」
―――――さて、一体どうやってこの危機を乗り越えようか。




