あのころ 前編
―――――さすがにそろそろヤバいかもしれない。
多少慣れたとはいえ、やはり流れ落ちる程に血を流すというのはなかなか肉体的に堪えるものだ。
「……もういいですか? さすがにこれ以上血を流すと意識が飛びそうなんですけど」
ある時、ふと振り返った途端に飛びかかられ、尻もちをついてしまった私に、獣は覆いかぶさるようにして、私の肩口に食らいついてきた。そうして未だに食らいついたままの獣に、私はその頭に手を伸ばし、宥めるように撫でた。こうすると、比較的素直に言うことを聞いてくれるというのを最近学んだ。
―――――全く一体これは何なんだ。
最早諦めの境地にも似た思いでひたすら撫で続けていると、不意に遠くの方で何か物音が聞こえたような気がした。嫌な予感がしたため、「いい加減、放してもらえませんかね」などと言いつつ、少し強めに獣の頭を押しのけようとするが、こういう時に限って言うことを聞かず、それどころか不機嫌そうに唸り始めた。
***
―――――緑という色が一切存在しない、砂漠になる一歩手前の非常に乾燥した土地。
少し前までは、ごく限られた時期にだけ降っていた雨が、今は本当に、全く降らなくなってしまったらしい。元々、雨の降る量が少ないこの周辺地域に住む人々にとって、雨とはすなわち“神からの恩恵”を意味する。そしてその“神からの恩恵”を全く受けられなくなったこの土地を、人々は「ガルラ・ビ・イラムフ」、この地域の言葉で“神に見捨てられしもの”と呼んでいる。
そんな土地に最早、誰一人として住む者はいない。
もし万が一、この土地を訪れる者がいるとすれば、それはよっぽどの変わり者か、あるいは私のように何も知らずに、気づいたらここまで辿り着いてしまった哀れな旅人ぐらいであろう。
ちなみに、以上の情報は全て、つい先程、目の前で唸っている獣から聞いて初めて知ったものである。正直、もっと早くに知りたかったとは思うものの、そもそも私が上手く情報収集することが出来ていないのが悪いのである。
「旅をする者にとって、迅速かつ正確な情報こそが己の身を守る命綱になる」、とはいつかどこかで聞いた話である。全くもってその通りであると、旅を続けていくうちに何度も思い知らされた。お金は確かに全く持っていなければそれはそれで大変かもしれないが、それでもやっていけないことはない。けれども情報を全く持っていなければ、とてもじゃないが旅を続けることはほとんど不可能といえるだろう。
とにもかくにも、全部、今更である。ここまで来てしまったからには、もうこの道をまっすぐ突き進んで行くしかない。ここを通らない別のルートも勿論考えてはみたが、かなりの距離を引き返さなければならなくなる上に、例のあの厄介な国にもう一度足を踏み入れなければならなくなる。ようやっとの思いで出てきたというのに、そこに自らもう一度足を踏み入れるなんてことは、まさに飛んで火に入る夏の虫。
……それにしても、本当に、いい加減に勘弁してほしい。
こんなところから、一刻も早く、抜け出したいというのに。
先程から全く変化しない状況に思わず溜息をつくと、遠くの方から今度は一つの声が聞こえてきた。
***
「大丈夫か? 今助けてやるからな!」
「違うんです! これは別に襲われてるわけじゃなくて……」
「意地を張ってる場合か! どこをどう見ても獣に襲われてるじゃねぇか。いいから大人しくしてろ!」
―――――獣に襲われている見ず知らずの小娘一人を助けようとするなんて、なんて素晴らしい人なんだ。
普通なら拍手喝采を浴びるに相応しい行為。
だが今は違う。
先程も言ったように、私は獣に“襲われている”わけではない。
最初は遠くから聞こえた小さな声が、次第に大きくなる。声の聞こえる方を見たところ、一人の男性がこちらに向かって走って来るのが分かり、私は慌てて言葉を返すが、男性の足は止まらない。
一方で、多少の状況変化には全く動じないこの獣は、相変わらず私の肩口に食らいついたまま。声の主はもうすぐそこまでやって来ているというのに、見向きもしない。押しのけようと獣の額に乗せた手はそのままに、私はまたやってしまったかと思わず溜息をついた。