6.
「お前の名前を言え。今すぐ」
突如飛び掛かって私をその場に仰向けに押し倒し、更に前足で地面に肩を押さえつける獣は、何の前置きもなしにそう言い放った。当然言われた側としては何が何だかさっぱり分からない。それでも目の前の獣が恐ろしくて仕方が無かったため、私は獣の要求通りすぐに自分の名前を言った。すると今度は名前を付けろと獣が言うので、それにも応じた。勿論、この一連の行動がこの獣との契約に繋がるなどとは知る由も無い。
耀暎とは、光り輝くという意味を持つ言葉である。獣に対して恐ろしさを感じつつも、その金色に輝く瞳は思わず見入ってしまうほどに純粋に美しいと思った。だから咄嗟に思いついた名前は、瞳の色にちなんだものになった。そんな名前を付けた獣が後々、闇の帝王などという異名を付けられるほどの存在になろうとは全く思いもせずに。
***
前世の時とは違い、俺は獣の言った言葉の意味を正確に理解していた。つまりこの獣は、俺ともう一度契約をしようとしているのである。だが俺はそのことに戸惑いと抵抗があった。
『旧市街と新市街というものが出来たのはいつ頃のことなんだ?』
護身用のナイフをくれた男と色々と話をする中で、俺はある時そんな問いかけをした。前世の記憶ではこの街にそんなものは存在しなかったし、この街に住むのは導主シャコフと同じ民族であるシイ族だけだった。そのため、その時の俺は純粋に疑問に思ったことをそのまま男に問いかけた。けれどもこの質問は決してそんな気軽な気持ちでしてはいけなかった。
男は少し考えた後で、こう答えた。
『……そうだな。俺の祖父さんの子供の頃の話だから、ざっと百年ぐらい前じゃねぇかな』
俺は始めのうちぴんとこなかった。思ったより昔のことなんだなと、そのくらいにしか思わなかった。けれども、ふとした瞬間に気づいてしまった。
俺はその百年前の出来事を知らない。でもこの街にまだ旧市街も新市街も存在しなかった頃のことは知っている。この事実から、前世の俺がこの世界で生きていたのは少なくとも今から百年以上も前の話だということになる。
あれから百年以上もの時を経て、俺は再びこの世界へとやって来た。そして今、かつて契約を結んだ獣が再び俺と契約を結ぼうとしている。果たして俺はこのまま流されるがままに契約を結んでしまってもいいのか?
俺はまたいつあちらの世界に戻るかも分からない。
もしそうなったらこの獣はどうなる?
もう一度百年以上の時を一人きりで彷徨い続けるのか?
「さっさと言えよ、愚図。噛み殺されてぇの?」
なかなか答えようとしない俺に早くも痺れを切らした獣は苛立たしげにそう言うと、再び首筋に牙を立てた。しかもそれは先程と全く同じ場所で、出血が止まりかけていた傷口を抉るようにぐりぐりと乱暴に力を加えてくる。俺が痛みのあまりその頭を押しのけようと暴れても、獣は俺の頭を押さえつけて全く止めようとしない。ずぶりずぶりと少しずつ深く突き刺さっていくその痛みに耐え切れず、俺は叫ぶようにして自分の名前を口にした。
「三浦明音!」
***
この際はっきりと言っておこう。俺は自分の名前があまり好きではない。その理由は言わずともお分かり頂けると思うが、女の子っぽいからだ。男の子っぽい女の子の名前はかっこいいとしても、その逆はどうだ。可愛いなどと言われて純粋に嬉しいと思う男はかなり希少な存在だと思う。少なくとも俺はちっとも嬉しくなかった。この気持ちを本当に分かってくれるのは、同じような名前を持つ人以外にいないだろう。けれどもそんな人が果たして俺以外にどれだけ世界に存在するのか。そう思って半ば諦めかけていた。
しかしそんな中、俺は入学した大学にて同士を得た。彼とは大学の実験班が一緒になり、当初班分けが示された名簿でその名前を見た時は、何て読むのだろうと思っただけだった。ところがその読めない漢字の名前というのが、雅な響きながらも俺と同じく一般的には女の子っぽい名前であった。第一印象はとにかくクールで、またその見た目が一流のモデル並みに整っているが故に話しかけづらいことこの上なかったのだが、俺の問いかけに対して怒るでもなく、既に諦めきったような顔をしてその名前の読み方を教えてくれた時、俺は思わずその手をがっちりと握り締めていた。
ちなみに俺の同士たる彼の名字は吉川といい、彼の呼び名を決める際俺と同じパターンでヨシというあだ名もありではあったものの、俺としてはこれまでにない特別なあだ名を進呈したかった。そうして俺があれこれと悩んでいると、同じく実験中ながらも30分という待ち時間を持て余していた武が不意に「吉川ってきっかわとも読むよな」と言った。その瞬間、俺は閃いた。
『キヨにしよう! キヨ!』
『なるほど。きっかわのキとよしかわのヨを取ってキヨか』
『どう? どう? 気に入らない?』
相変わらず理解の速い武に驚きつつ、俺は反応を窺うべく彼の方を見た。
『全然そんなことないよ。なかなか新鮮で良いね』
そう言ってその時彼が見せた微笑みは、正直同性の俺でさえも思わずときめいてしまうほど魅力的なものだった。