5.
いくつかの階段を下った先にある少し遠くの十字路に、何かが落ちているのが見えた。けれども外灯の一つも無い夜の闇の中では月の影だけが頼りだというのに、今宵の月は左側が半分も欠けてしまっている。その上、気紛れに雲の中へと姿を隠してしまうので、遠くからではそれが何であるのかを確認することが出来ない。それでも何となく予想はついていた。何より辺りに漂う強烈な臭いこそが事実を雄弁に物語る。
ここで何も見なかった振りをして引き返したい。
でもそうしたらきっと俺は後悔する。
ここまで来て今更引き返すなんて意気地の無いことは出来ない。
そう自分に言い聞かせて、俺は歩き続けた。
***
無残な光景だった。
いたずらに食い散らかされた者の果て。
あまりに非現実的すぎて脳が現実であることを拒絶する。
先程俺が見たものは、思った通り人間の死体であった。その首は食い千切られる寸前でかろうじて皮一枚で繋がっている状態で、その顔はちらと見ただけで正直それ以上直視出来なかった。体の方も悲惨で、所々で皮膚の下の肉の色が露わになり、血管から溢れ出した血の色と相まってこの上ないグロテスクさを醸し出している。
呆然とその死体を眺めた後で周囲を見渡せば、同じような死体が辺りに点々と転がっていた。まるで渦に巻き込まれて投げ飛ばされたように、それはぽっかりと中心だけを残してその周囲に数多くの死体が並ぶ。そして今、その中心にいる一匹の獣がじっと俺の方を見ていた。
雲の切れ間から降り注ぐ月の影が、その獣の姿をぼんやりと照らし出す。額と目の周りは焦げ茶色。鼻先は薄茶色で口周りは白色。少し丸みを帯びた三角の耳は注意深く正面を向き、しっかりとした白色の長い足で立つ姿はとても気品に満ち溢れていて、とてもこの惨状を作りだした存在とは思えない。金色の瞳がただただ静かな眼差しを俺に向けている。
その何とも言えない空気に耐え切れなくなったのは、俺の方だった。彼に違いない。でも俺を前にしても何の反応も無い。それはつまり、もう俺と彼との間に何の繋がりも無くなったということなのか。そんなことをあれこれと考えたものの、答えが出るはずもなく。とうとう俺は実力行使に出た。
「……ヨウ?」
口にしてすぐに我ながら何と情けない声を出したものかと、自分自身にがっかりした。更には獣の方も相変わらず微動だにしない。これはやはりそういうことなのかと諦めにも似た気持ちを抱く一方で、俺はもう一度だけ呼ぶことにした。かつて自分が少女だった頃、契約代わりに彼につけたその名前を。
「耀暎」
その言葉を口にした瞬間、突如獣が襲い掛かってきた。
長い前足が肩を押し、仰向けに地面に押し倒される。そして足で俺の頭を抱え込むと、その大きな顔が近付いてきて俺の口をぺろぺろと舐め始めた。やがて口から頬、額へその舌が移動した後、今度は耳を舐め始めた。更には時折軽く噛みついてくる。驚きのあまりされるがままになっていた俺だが、耳を舐め始めたあたりからいい加減に寄せとその顔を押し退けようと抵抗し始めたものの、全く止める気配が無い。それどころか耳に続いて首筋を一度下から上へと舐め上げたかと思うと、そのままがぶりと噛まれた。
勿論手加減はされていたが、ぶちりと皮膚が切れて僅かながらその鋭い牙が首に食い込む感触がはっきりと分かった。これにはさすがに「痛っ」と叫び、全力で首から獣の顔を引き剥がそうとしたが、獣は俺のそんな行動も露気にすることなく、その傷口をざらついた舌で熱心に舐め続ける。
「おい、ヨウ! もういいだろう? そろそろ勘弁してくれ」
押しても引っ張っても駄目であったので、今度は逆にその頭を撫でてみることにした。今更ながらこの獣に対しては撫でるという行為が一番有効であったことを思い出したからだ。すると獣が漸く俺の頭を解放し、真上から俺をじっと見ると、少々不機嫌そうな顔をしながら徐にその口を開いた。
「お前の名前を言え。今すぐ」
それを聞いて俺は一瞬呆気に取られてしまった。そのあまりに横暴すぎる態度についてではなく、その言葉があの時と全く同じであったことが分かってしまったからだ。俺が前世においてこの獣と初めて出会ったあの時と。