4.
ある国で神の化身とされる王を殺害したことを皮切りに、各地でその地域における神たる存在の偶像や祀っている建物そのものを破壊し続けている”闇の手”。その姿は人間の姿をしている時もあれば、獣の姿をしている時もあると言われており、”闇の手”という名前はいずれの姿の場合も闇に紛れてどこからともなく襲いかかって来るその手足しか見ることが敵わないためであるそうだ。
人間と獣の二つの姿を取る”闇の手”。
その話が出てからずっと妙な胸騒ぎがして、目の前の男が話す言葉を冷静に聞くことが出来なくなってきている。
いくら何でもこんなに都合良く俺の前に現れるものか。
けれどももし”闇の手”が彼であったならば、俺は一体どうすればいい?
「噂には聞いてたがまさかこんなとこにまで来るたぁ思わなかった。間一髪でシャコフ様を安全な場所にお連れしたおかげで破壊されずに済んだが、そのせいでどうも気が治まらねぇみてぇでな。塔の向こう側の旧市街の方にまだいるらしいぜ。……まぁ、確認しに行った奴らが誰も帰って来ないのが何よりの証拠ってな」
俺が他のことに気を取られつつもじっと男の話を聞いていると、男が不意に乾いた笑みを浮かべてまた俯いた。
「……俺の子供も孫もみんな逃げちまったよ。一緒に行こうって言われたんだが、……どうにも気が進まなくてな。婆さんは既に逝っちまってるし、今更故郷を捨ててまで後生大事に守るだけの命とも思えん」
その猫背気味の丸い背中はどこまでも哀愁を帯びて、そんな相手に対して俺は一体何と言ったら良いのか分からず居た堪れない気持ちになった。そのまま暫くお互いに黙ったままでいたが、やがて男が顔を上げて俺に尋ねてきた。
「それであんたはこれからどうすんだ?」
男の問いかけに俺は一瞬だけ考えた後で、こう答えた。
「その”闇の手”とやらに会いに行ってくる」
正直なところ、”闇の手”が彼であろうとなかろうと、会うのが怖いという気持ちが大きい。
けれども俺は会いに行かなければならない。
どうしてかそんな風に強く思った。
***
―――――鬱蒼とした森の中。
当初はあまりのことに呆然としてその場に立ち尽くしていたが、やがて見知らぬ場所に一人きりという状況に耐えかねて歩いた先で一つの銅像を発見した。
それは今にも襲いかかって来るのではないかと思えるくらい、本物そっくりな獣の銅像だった。鼻に皺を寄せて大きく開いた口から覗く鋭く尖った歯に、こちらを射殺さんばかりにきつく睨みつけてくる瞳。けれどもその獣の四足は見るからに頑丈そうな鎖によって拘束されており、動き出そうとする獣の動きを阻んでいた。
始めのうちは少し遠くからその姿を眺めていたものの、好奇心に負けて恐る恐る近づいてその頭を撫でてみると、当然のことながら冷たく硬い感触しかしない。けれどもその当たり前のことに酷くほっとしながら、その後も暫くの間何となく撫で続けていた。
不意にどこからか強い視線を感じて周囲を見渡してみるが、特に何も見つけることが出来ず、再び銅像へと目をやり瞬時に固まった。先程までは確かに銅像であったはずの獣が、一瞬のうちに銅像ではなくなっていた。金色に輝く瞳が鋭い視線を向けてくる。
素早くその頭の上に乗せていた手を離し、ゆっくりと後ずさるが、恐ろしいことに獣の足に付いていた鎖までもがいつの間にか消えており、獣もまたゆっくりと近づいてくる。
ああもう死ぬしかないのか。
そう思って半ば諦めかけた時、突如獣が飛び掛かってきた。
***
この街の入り口から見て塔の手前側を新市街、そして向こう側を旧市街と呼び、旧市街にはこの街が出来た当時からずっとこの地で暮らしていた人々が住んでいるのに対して、新市街は新たに余所から移り住んできた人々が多く住んでいるという。いや、今となっては住んでいたという表現の方が正しいかもしれない。新市街の方はまだ留まっている人間も少なからず存在するが、旧市街の方に関しては恐らく皆無であろうと先程出会った男が言っていた。
男は見ず知らずの俺に対して随分と熱心に思い止まるよう勧めてくれたが、俺のあまりに頑なな態度にとうとう折れて、せめてこれだけは持って行けと護身用に小さなナイフをくれた。正直鋭い刃物は苦手で、あまり持ち歩きたくなかったが、こればかりはさすがに断れなかった。
すっかりと辺りも暗くなった頃。旧市街を歩いていると、どこからか微かに異臭がするようになった。嫌な予感がしつつもその臭いを辿って行くうちに、俺はやがてその臭いの正体に気がついてしまった。
これは死臭だ。
雲一つ無い快晴の日がほとんどで、日が沈んだ後も熱帯夜というこの街の環境からして、腐敗速度は速いはず。恐らくは大量の血が流れただけでなく、既にその肉体が腐り始めているのだろう。鼻から吸い込んだ生臭い空気が全身を巡って、頭がくらくらする。気休めでしかないことは理解しつつも、俺は鼻と口とを手で強く塞ぎながら何とか足を進めた。