3.
街の入り口の手前に立ち、遠くの方へ去っていくシャズスの民の一行に向かって大きく手を振る。あの時彼らが現れなければ確実に死ぬしかなかっただろうし、あるいは彼らではなく他の人間が現れたとしても身ぐるみをはがされるか、最悪の場合には俺自身が闇市場の商品となっていたかもしれない。本当にザフニエアス神のお導きには心から感謝しなければならない。
やがてその姿も砂粒の一つと化し、俺はゆっくりと手を下した。何となく左手首に目をやれば、そこに黒のレザーブレスレットがある。俺は感謝の印としてこれを彼らに渡すつもりでいた。着の身着のままこの世界へ飛ばされてきたため、これ以外に渡せるものがなかったからだ。それなのに一瞬だけ躊躇してしまった。それを相手は見逃さなかった。
『大切なものなんだろう? それならちゃんと君が持っていなくては』
ブレスレットを外そうとしていた手を思わず止めてしまった俺に、男は更に続けた。
『我々が君に何か欲するものがあるとすれば、それは既に十分受け取っている』
そう言って微笑みながら、左胸の上あたりを掌で軽く二度叩いて見せた。
このブレスレットは今年の誕生日に彰から貰ったものだった。デザインとしては極々シンプルながらも、上質なレザーにとあるブランドではお馴染みのプラスのモチーフが付いている点からしてかなり高価なものだというのはすぐに分かった。本当に受け取っていいのかと俺が少し怯めば、お前には色々世話になってるからいいんだと言われて、そのことにもまた酷く驚いてしまった。
普段どちらかというとあまりアクセサリーは付けない方だが、このブレスレットは気に入ってほとんど毎日のように付けていた。それがまさか、あちらの世界からの服以外での唯一の物になろうとは全く思いもしなかった。しかし、いずれにしてもこれが唯一無二であるがために手放し難いと思ってしまった。
彰の誕生日はクリスマスの少し前で、今年は一体何をプレゼントしようかと密かに頭を悩ませていたが、どうやらその日をあちらの世界で迎えること自体が難しそうである。
これが夢であればよかったのに。
これはきっと夢じゃない。
「……帰りたいなぁ」
再び一人になって心細いせいか、無性に友人に会いたくて仕方がなかった。
***
砂漠の中の涸れ谷に忽然と現れる幻の街、レルワオニ。赤茶色や黄色の濃淡様々な四角い家々が斜面に沿ってびっしりと密集し、丘の頂上には細長い塔が聳え立つ。この街に住む人々が祀っているのは導主シャコフ。かつてただ一人彼のみが神の言葉を信じ、数々の試練に耐え、その結果この街が生まれるに至ったという。丘の頂上にある塔には彼のものとされる遺骨が納められており、迷路のように入り組んだ街の細い路地は最終的にはこの塔に全て繋がっている。
これが俺の記憶の中にあるこの街に関する情報である。あれから一体どれだけの年月が経っているのかは分からないが、街の外観からしてまず間違いないだろう。だが少し奇妙だ。夕暮れ時とはいえ、表に出ている人間が少なすぎる。それによくよく注意をして見れば、男女問わずお年寄りばかりで若い人間を一人も見かけない。どことなく街全体に漂う淀んだ空気といい、これは一体どうしたことだろうか。
「おい、あんた」
歪んだ渦を描くように土壁に挟まれた石畳の細い路地をひたすら上へ向かって歩いていると、不意に階段の途中で呼び止められた。見れば、今し方通り過ぎたばかりである家の玄関らしき扉の横で椅子に座っている男が一人いた。身に纏う茶色の衣服よりも濃い褐色の肌には長い月日を思わせる皺が刻まれ、白い布の小さな帽子からは白髪交じりの黒髪が覗いている。両足の間にある杖で痩せて骨張った体を支えながら、その目は力無くも見慣れない俺の姿を訝しむような視線を送っていた。
「知らない顔だが何者だ? 命が惜しけりゃこれ以上先に行くのは止めた方がいいぜ」
「色々あってそこの砂漠で死にかけてな。命からがらこの街に来たわけなんだが、この先に何かあるのか?」
俺がそう言うと、男は「成程な」と頷いた。
この街はその位置する場所からして、砂漠を越えていく上での中継地として多くの人間や物が行き交う交流の盛んな商業の街でもある。本来であればどこもかしこも喧騒に満ち満ちているのが普通なはずだ。それがどういうわけか今はこの有様。何かがあるに違いない。
「……出たんだよ。あの”闇の手”が」
再び口を開いた男はその一言で全てが分かるだろうとばかりに深い溜息を吐き、俯いてそのまま何も言わなくなってしまった。しかし残念ながら、いかにこの世界での常識であろうとも俺には何のことだかさっぱり分からない。少なくとも俺の記憶の中に”闇の手”たる存在に関する情報は無い。
何の反応も返ってこないことを不思議に思ったのか、ふと男が顔を上げた。そして俺の顔に何の変化も見られないことに気づくや否や、驚きに目を見開いた。
「あんた、まさか知らないのか? あの神殺しで有名な”闇の手”さ」