日常 その4
―――――藤範武。勉学に関しては完全に依存しきっている大先生こと、俺の友人その4である。
武は俺の観点から言わせてもらうと、”万能の天才に片足を突っ込んでいる秀才”である。武が大変な勉強家であることは普段一緒にいてよくよく承知してはいるが、それにしたっていくら何でも出来過ぎなんじゃないかというくらい、武はあらゆる物事に対して短時間でその要点を掴み、ある程度のレベルでそつ無くこなすことが出来る。
武と初めて出会ったのは入学式後のガイダンスで、開始時刻ギリギリにやって来たために慌てて座れそうな席を探す俺に声を掛けてくれたのが武であった。そう言いたいところだが、実を言うと俺は一方的ではあるがそれよりも前に武という存在を知っていた。彼と以前に一体どこで接点があったかと言えば、それは世の高校生の多くが経験するセンター試験である。
センター試験の初日。休み時間になる度に、それまで解いていた科目の解答について話す声や次の科目についての問題を出し合う声などで試験会場内のどの教室もざわつく中、ある時俺はトイレに行くために一人席を立った。そしてその帰りがてら何となく周囲を見渡していると、ふとある教室にいた一人の男子学生が目に入った。彼はその教室の一番後ろの席で、まるでその耳に差し込んだイヤホンで外界をシャットアウトしているかのように、ただ一人黙々と参考書らしき本に目を通していた。
どういうわけか俺はその姿を見て、それまでどことなく浮ついていた足が地に着いたような心地がして、それ以降は周囲の雰囲気に呑まれることなく、至っていつも通りに試験に取り組むことが出来た。そして俺が目にした男子学生というのが、何を隠そう武なのである。それ故にガイダンスの時に突然声を掛けられた上、その声の主があの時の彼であると分かった時の驚きと言ったら思わずその場で固まってしまうほどであった。とにもかくにも詰まる所、俺は入学前から武に助けられてばかりだということだ。
強いて彼の欠点を挙げるとすれば、その字の汚さぐらいであろうか。武の字は誰がどう見ても間違いなく、汚い。例えるなら、まさにミミズが這った跡のような字である。初めて彼の字を目にした時、武のことだからまた何か独自の暗号でも生み出したのかと思った。しかしながら慣れとは恐ろしいもので、今や俺はその暗号をほとんど苦もなく解読することが出来る。もしかすると、この要領でかのヒエログリフも解読できるようになるかも分からない。
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「おー、ウラおかえり」
帰り際にスーパーに寄ってちょうど切らしてしまっていたトマト缶などを買って帰宅すると、誰もいないはずの部屋から声が聞こえてきた。そこでふと玄関の足元に目をやると、今朝見た黒のスニーカーがまだそこにあった。もちろん、これは俺の靴ではない。
「彰、お前まだ帰ってなかったのか? ……ていうか、何してんの?」
部屋に入ると、彰がベッドの脇にその背を預けるようにしてだらしなく座りながら携帯ゲーム機で遊んでいた。
「推理ゲームっぽいやつ。一回家帰って、んで妹が熱心にコレやってたから、そっくりそのままパクってきた」
「何やってんだよ。というか一回家に帰ってるくせに、何でまた戻って来るかなぁ。……何かだんだん彰の別宅みたいになってないか? 俺の家」
「今更? ……って、いてっ! ちょ、マジで痛ぇし! 何入ってんの、ソレ」
何を当たり前のことを、とでも言いたげなその人のことを馬鹿にするような言い様に、気づけば手に持っていた買い物袋で奴の頭を殴っていた。
「多分トマト缶がヒットしたんじゃないか? それ以外は特に凶器になりそうなものは入ってない」
トマト缶はそれなりに痛かったようで、ゲームの手を止めて己の頭を擦りながら恨めしげな目を向けてくる奴を放置して、俺は買い物袋を片手に台所へ行き、夕食の準備をし始めた。そしてそのぐつぐつと煮込んだ鍋から食欲を誘う良い香りが漂い始めた頃、案の定、「今日の夕飯、何?」と言いながら彰が台所へやって来た。やはりわざわざ俺の家に戻ってきたのは、夕飯目当てか。
「カチャトラだよ。……んったく、俺はお前の彼女でも何でもないっつーの」
「どうせまた秀一にも分けてやるんだろ? そしたら別に俺に分けてくれたって問題ないだろ」
「お前の場合、夕飯だけじゃないだろうが。お前、今彼女いないのか? 夕飯作ってくれてなおかつ泊めてくれそうな彼女」
煮詰まった鍋に塩・胡椒と生クリームを加えて味を確認した後、適当な皿に装って彰に手渡した。
「んなもんいるわけないだろ。お前ほど便利…いや、出来た奴はなかなかいないぞ?」
「今、便利って言ったよな」
「空耳だ。空耳」
俺が目を細めて見せると、彰はそう言って皿を手にそそくさと逃げるようにしてベッドのすぐ側にあるテーブルに向かって行った。
―――――これがちょうどあの出来事が起こる一年くらい前の、とある日の出来事である。