日常 その2
―――――榎並徹。勉学に関しては全く期待できない奴らこと、俺の友人その2である。
徹はまさにバイト人間。一にバイト、二にバイト、三・四もバイトで五もバイト、といった具合である。そんなにバイトをするからには何が何でもお金を稼がなければならない、深刻な事情とやらが存在するのかと思いきや、そうではないらしい。確かに学費以外は基本的に自分で何とかしなければならないそうだが、それにしてはバイトの量が半端ない。“睡眠時間は3時間で十分だ”が彼のモットーである。睡眠時間や食事の時間、その他諸々を犠牲にしてまでバイトをするその理由は、実のところただ単にバイトが好きだからだろうと思われる。
徹との出会いのきっかけは言わずもがな、そのバイトである。大学入学前の春にとあるイベント会場にて3日間、受付及び案内役をするという超短期バイトであったのだが、彼の働きぶりは言葉で言い表せない程もの凄いものだった。徹はたとえどんな相手であろうとも、どうすれば相手に気に入られるか、その術を知り尽くしている。気づけば運営側はほとんどそっちのけで、俺は3日間専ら彼の指示に従って動いていた。おかげで初めてのバイトの割には、そこそこまともに動けていたのではないかと思う。
徹の容姿はというと良くも悪くも平凡で、街中ですれ違ったくらいでは恐らく誰の記憶にも残らない。ところが彼の“素顔”はというと、一転して誰かしらの記憶に残るような、思わず人目を引く容貌をしていて、普段はそれを敢えてメイクによって覆い隠している。あまり詳しくは聞いていないが、どうも過去にその容貌のせいで相当嫌な目に遭ってきたらしい。今の社会というのは良すぎても駄目、悪すぎても駄目、とにかく普通が一番、という風潮が強く、何ともつまらない世の中になったものだと思う。
わざわざメイクを施して隠したがるほどであるから、自分の容貌に対してトラウマにも似た何かを抱いているのかと思いきや、ただ単にバイトをして回るのに平凡であった方が楽なのだそうだ。その時、その場の状況に合わせて態度どころかその顔つきまでも変えてしまうのだから、彼の適応能力には本当に脱帽する。
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昼食を食べにラウンジに向かって歩いていると、隣で武がグランドに視線を向けながら「あそこに見覚えのある奴がいるぞ」と声を掛けてきたのでそちらに視線を向けると、確かに武の言う通り非常に見覚えのある奴が一人で延々とリフティングをしていた。
「あそこにいるの、多分そうじゃねぇか?」
「おーおー。あれは間違いなくそれっぽいな。ちょっと声掛けてみるか」
俺がグラウンドの端に走り寄って試しに名前を呼んでみると、あいつは器用にリフティングをしながらこちらに視線を向けて俺たちの姿を確認した後、サッカーボールを置いて俺の方にやって来た。
「よ! 今はサッカーの助っ人やってんのか? 相変わらずリフティングも上手いなー、お前」
「そうでもない。暫くやっていなかったらやっぱり若干感覚が鈍っていた」
近頃は一体何に取り組んでいたのやら。俺の記憶に新しいものと言えば、やはりこの間の長期休暇に現地まで行ってとことんやり抜いてきたというカポエイラだろうか。帰国後、見事に真っ黒に焼けた姿を見て、本気で一瞬誰だか分からなかった。しかしながら焼けるのも早ければ抜けるのも早いようで、こうして見ると相変わらず黒いことには黒いが、当時と比較すると既に大分色が抜けてきているような気がする。
「邪魔して悪かった。でもちゃんと適度に休憩して水分補給もしろよ?」
「あぁ」
「今日はカチャトラ作る予定だから、ちゃんと食えよ?」
「あぁ、分かった」
気のせいかカチャトラという単語を言った時に、目が一瞬大きくなったような気がする。やはりこれはカチャトラが好き、ということで良いのだろうか。そんなことを考えつつ、あいつと別れ再びラウンジに向かって歩き始めると、「相変わらず世話してやってるんだな」と武が感心したような声で言った。
「何せあいつの親御さんから直々にお願いされちゃってるからな。それに誰かのために作ると思った方が、こっちもやる気が出るってもんだし」
俺の自宅とあいつの自宅が実は徒歩3分圏内であったことを知ってから、度々食事を提供していたところ、ある日あいつの自宅にてあいつのお母様と遭遇してしまった。シチューの入った小鍋を手に玄関で立ち尽くす俺を見てお母様は即座に状況を把握し、くるりと俺に背を向けると、「ちょっとアンター! 何、人様に迷惑かけてるのよ! それならそうとちゃんと報告しなさい!」と部屋の中にいるあいつに怒鳴り込んで行った。
そして暫くの口論の末に、俺に対してお母様から深々と謝罪された後、「ご迷惑じゃなかったら、またたまにこいつに食事を分けてやって下さいませんか? 勿論、その分のお金はこいつからきっちり持って行って頂いて構いませんので」とのお願いを受けてしまったのであった。
「でもまぁ、あんまり世話を焼き過ぎるんじゃねぇぞ? 餌やりだけで十分だ。掃除くらい自分でやらせろ」
「……ん。了解」
武も本当に鋭い奴だ。今まさにそろそろ掃除でもしてやるかな、と考えていたところであった。しかしながら、確かに甘やかしすぎるのは良くない。今日はカチャトラを届けたらさっさと帰って来ることにしよう。