日常 その1
目覚まし時計の音に目を覚まし、ベッドから立ち上がって徐に振り返ると、そこに昨夜寝るときには確かになかったものが存在していた。その存在に一瞬びくりとするものの、それが見慣れたものであることにすぐさま気づき、俺はその頬に手を伸ばした。
「おい、コラ」
「んー」
「勝手に俺のベッドに入ってくんなといっつも言ってるだろーが」
「……ん」
容赦なくその頬を引っ張っているというのに、それでも頑として目を開けようとしない。しかしながら俺の朝は忙しい。よってこいつに付き合っているような暇はない。仕方なくさっさとその頬から手を離し、俺は手早く朝の支度を整えると、鞄を肩に引っかけ玄関に向かった。
「出る時、ちゃんと鍵かけろよー!」
靴を履き終え、玄関の戸の取っ手を片手に声を掛けると、「んー」というくぐもったような声が聞こえた。ほぼ寝ながら返事をしていると思われるが、このやり取りはこれまでに何度も行ってきているので恐らくはきちんと戸締りをしてくれることだろう。それにしても昨日は一体何時にやってきたのだろうか。
***
―――――黒河彰。勉学に関しては全く期待できない奴らこと、俺の友人その1である。
マージャン、ポーカーから囲碁、将棋まであらゆるゲームでもって賭けごとをし、その恐ろしい程の勘と勝負強さで大金を稼いでいる。見るからに草食系な優男然とした外見に油断すると、あっという間に身ぐるみを剥がされるという噂が入学時から流れていた中、なんでそんな危険な男と友人になったかと言えば、偶然の一言に尽きる。偶然、入学式の席が隣になり、どういうわけか賭けごとが超強いんだという話で盛り上がって、気づけば俺はその日の朝に道端で拾った100円玉を奴に投資していた。一体どうしてそんな流れになったのか、今思い出してみても全く訳が分からない。
後日、俺にあの100円玉で稼いだという1000円札を持ってやってきた奴からそのお金を受け取り、代わりに900円を返すと何故かもの凄く驚かれてしまった。「これはお前のだ」「いやお前のだってば」というやり取りを何回か繰り返した後、結局はその場にいた武共々三人でそのお金を持ってとあるファーストフード店に行き、フライドチキンを皆で美味しく頂いてきた。
この制度(?)をいたく気に入った奴こと彰に、俺はそれ以来、週一で100円を投資している。そしてそのお金を元にして彰が稼いだお金で、時に武や他の奴らも交えながら食事に行ったり、遊びに行ったりしている。
今朝のようにいつの間にか俺のベッドに彰が侵入していることは、誠に不本意ながら日常茶飯事と化している。本格的に賭けごとをするのは深夜から明け方にかけてが基本だそうで、俺の自宅が大変交通の便が良い場所にあることを知るとすぐに俺に無断で合鍵をこしらえ、かなりの頻度で不法侵入を繰り返している。
不法侵入者なら不法侵入者らしく、その辺の床でクッションでも枕にして寝ろと言っているのに、毎回俺のベッドにまで図々しくも侵入してくる。これで寝癖が悪かったら問答無用で叩き出すところなのだが、俺も俺で眠りが深くてちょっとやそっとじゃ起きない上に、彰もまたまるで死んだようにうんともすんとも言わず静かに、身動ぎすらせず眠るタイプなので、結果として日常茶飯事と化してしまっている。
***
「あっれ、珍し。お前、今日バイトは?」
授業開始15分前という、俺にしては珍しく余裕を持って大学にやって来ると、講義室の後方で一人、片手に握った何かをもぐもぐと食べている奴がいた。随分と不機嫌そうに栄養バーを齧っているなと思ったら、そいつは俺の友人であった。
「コックの信長さんが熱出して休みでさー。朝ご飯食いっぱぐれ。もー、朝から超がっかり。気分ガタ落ち。今日は完璧、塩フランクの気分だったのにさー」
彼は最近、営業時間が朝の4時から8時までという面白いパン屋でバイトをしていて、朝ご飯はその売れ残ったパンを分けて貰えるそうで、「これぞまさに天職ってやつかー!」と以前騒いでいた。塩フランクというのは俺も少し分けて貰って食べたことがあるが、これがなかなか美味しかった。真ん中に小さなフランクフルトが入った極々シンプルなパンなのだが、ドイツパンらしく噛みごたえがあり、がぶりと齧った時にこんがりと焼かれたフランクフルトの油がじわりとパンに染みて、それがまた良いのだ。
ちなみにコックの信長さんというのは、もちろんそのパンを作っている人であって、信長というのが名字で名前は康弘というそうだ。初めてその名前を聞いた時、世の中には俺の知らない珍しい名字を持つ人がまだたくさんいるのだろうなと漠然と思ったものだった。
「塩フランク、俺もまた食べたいからさ、まだバイトやめるなよ?」
「オッケーオッケー。今回ばかりは俺もそう簡単には辞めねぇぞ。てか、辞めろと言われても辞めねぇし。だってあそこのパン、めちゃめちゃウマすぎだっつーの」
そう言って笑う彼の言葉に同意しながら、その隣の席に座ろうとしたところ、彼は突然すっくと立ち上がった。
「んじゃ、そろそろ俺行くわ」
「何、もう次のバイト入ってるのか?」
「貧乏暇なし、俺暇なし。バイトが俺を呼んでいる。つーわけで、じゃあなー!」
彼は口早にそう言うと、慌ただしく講義室を出て行った。大学には単に朝食代わりの栄養バーを食べに来ただけのように思えるのだが、そんなことで本当に彼が無事に大学を卒業できるのか非常に心配である。