62.君がいない朝
……目が覚めるといつもと違う景色が広がる。ちょっと痛い体がソファーで寝たことを思い出させる。
「あ、そっか。昨日……」
昨日の夜、光くんが私の部屋を訪ねてきた。そしてよく分からない質問をされ続けて、その後ーー。暗闇でキラッと光ったナイフと泣きそうな彼の顔を思い出す。あれは、なんだったんだろう。気がついたら時には応接室で、お姉ちゃんになんだかんだと世話を焼かれていた。
ふと、ローテーブルの上を見るとお姉ちゃんの字で綴られたメモが目に入る。
柚子へ
おはよう。
よく眠っていたから起こさなかったわ。
昨日は色々と大変だったわね、気持ちは落ち着いたかしら?
今日はゆっくりするようにと、ご当主様から言付けを頼まれたから伝えておくわ。
お腹が空いたら起きていらっしゃい。
結衣
お腹が空いたらーーか。ぐるぐる見渡すけど、応接室に時計はない。私のお腹からは、朝食の時間であることを知らせる音が鳴っていた。お姉ちゃんが用意して置いてくれた服に着替えて、ダイニングへと向かっていくと朝食のお味噌汁の香りが広がっていた。
「おはよぉーございまーす」
その場にいた全員が私を見つめた。
「あら、柚子。おはよう。思ったより早かったわね……すぐに用意するから」
食事を始めるところだった様子のお姉ちゃんが立ち上がってキッチンへ向かったので、席に着いて食事が来るのを待つ。誰かに話しかけられるのを待った方がいいのか、それとも自分から何か……光くんのことについて、私に何か話されることはあるのかな、昨日のは夢だったのかな。
「柚子ちゃん、昨日はよく眠れたかな?」
微かな緊張の走る沈黙を破ったのは、立花さんの柔らかい声だった。
「うん!あ、寝る前に飲んだお茶のおかげかな~」
「カモミールのハーブティーだね。昨日は風見が淹れてくれたんだよね」
「えっ!育が??」
この家で魔除けの意味を持つカモミールのハーブティーを淹れるのはお姉ちゃんだけだと思っていた。驚いて隣に座る育を見ると煩げな顔でこちらを向かれた。
「別に……。よく眠れる効能があるって聞いたし、僕も昨日は眠れなかったから。柚子の為じゃない、ついでだよ」
「あー!そう!なんか苦かったから、お姉ちゃんじゃない人が淹れたと思ったら育か!」
言い方に腹が立ったので、憎まれ口で返す。
「もう柚子には淹れてやらない!」
「柚子だって自分で淹れられるもんっ」
「2人とも朝から喧嘩しないで。ほら、落ち着いて」
言い争いが食卓を賑やかにすると、立花さんが止めに入っていつもの空気が流れる。
「ご飯はこのくらいで良かったかしら」
お姉ちゃんが私の分の食事を持ってきた。いつも通りに盛られたそれ、いつも通りの食卓の空気は、昨夜の出来事が夢だったように思わせた。
ふと目に入ったのは、自分の前ーー最近ずっと空席の場所だった。
「ーー光くんは?」
何も考えていなかった、口からその名前が溢れ出したのだ。ハッと我に返った時、食卓は冷たく凍りついていた。
「……少し、具合が良くないみたいよ」
「そっかぁ。早く良くなるといいねぇ」
お姉ちゃんの言葉に、また何も考えずに返答が口から漏れた。私から発せられた言葉に食卓はまたいつもの空気に戻った。
もう会えないんだろうな。朝食の席を思い出して私は考えた。ここは一条家、光くんにどんな理由があったのか私には分からないけど、昨夜の出来事を思い返せば彼がこの先もここに勤め続けることは許されない。一度の過ちが命取り、一瞬のミスも許されないのが、この国で公爵を名乗る家にいる者の心得だ。
「お別れは言えるのかな」
自分の今までを振り返ると、大切な人にお別れを告げられたことは数少ない。いつの間にか、目の前からいなくなってしまうのだ。あの時もあの時もーー。
ボソッと呟いた言葉は冬の風に乗って消えていった。




