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ユリは真っ赤な顔で荒い息を繰り返した。
「嘔吐は?」
「ううん、ないよ」
ケッティにそう答えるソウタの視線はユリから離れない。
『大分、汗をかかれています。水分補給をしましょう。さあ、ユリさまゆっくり飲んでください』
しかし、ユリはうっすら目を開けるだけで、口元に当てられた器にも、反応を示さない。そこで、アインスはユリの頭をそっと持ち上げ、逆の片手で器をゆっくりと傾ける。かろうじて喉が一、二度鳴ったが、後は口から筋を作って垂れ落ちる。
ソウタはそれを見て、ふいに目が熱くなる。
ずっといっしょにいたのに、どうしてこんなになるまで分からなかったんだろう。ユリはずっと身体がだるかったのに、我慢をしていたのだろうか。
喉の奥にぐいぐいと空気のかたまりを押し込まれたように身体が重く感じられた。どこか感覚も鈍く思えて、なのに、心臓だけはどくどくと速く打つ。どうしよう、どうしようという考えだけがぐるぐると頭を駆け巡る。
ユリが起きてこなかった日、すぐにソウタたちはモルレへ引き返し、宿にユリを運び入れた。ワンダフルさんが医者を探しに行っている。ひとり目はなんの病気か分からないと言って、とりあえず熱さましを処方した。飲ませたけれど、症状はよくならなかった。ワンダフルさんがほかの医者なり薬師なりを探して来ると出かけて行った。
ソウタは不安で不安でどうにかなりそうだった。いつも元気いっぱいで、美味しいものもうつくしい光景も楽しいことも、みんないっしょに分かち合ってきた。そのユリが今、辛そうにしている。
ユリはどうなるんだろう。怖くて怖くて仕方がなかった。
扉が外から叩かれて、ケッティがそちらへ行く。
「ユリちゃんが病気だって聞いたの! 知り合いにお願いして、お医者さまを紹介してもらったのよ」
「マリエさん」
つい先日別れたばかりのメサニアの歌姫に、さすがにソウタも振り向いた。そこにはワンダフルさんとマリエさんのほか、ひとりの人族がいた。
街中を慌てた様子で走るワンダフルさんを見かけて声をかけ、事情を聞いて駆けつけてくれたのだというマリエは医者を伴っていた。
その医者はモルレいちの名医なのだという。結論から言うと、彼もまた芳しい結果をもたらさなかった。
「ソウタ君、ちゃんと寝て食べている?」
「でも、そんな場合じゃ、ユリが、」
マリエさんに問われて、それどころじゃない、なにを言っているのだとソウタは思った。
けれど、ぐいと肩を掴まれて覗き込まれ、目をしっかりと合わせられた。
「ほら、てんで意味のないことを言っている。しっかりなさい。あたふたしていて、なにもできないようじゃあ、いけないわ。ユリちゃんにできることを精いっぱいしてあげなさい」
ソウタははっと息を呑んだ。
そうだ。マリエさんの言うとおりだ。
どこか茫洋としていて、分厚い空気の塊の中を、動くことはおろか息を吸うのも難儀しているような状況ではないか。そんな中で、ユリを助けるために最善を尽くせると言えるだろうか。
「う、うん、分かった」
そうは思うものの、ソウタの答えはちょっぴりあやふやになる。
ソウタは息を大きく吸った。
「ワンダフルさん、ケッティ、農場牧場へ帰ろう。カントさんなら薬を作れるかもしれない。————トムさんたちのレシピならユリの病を治す薬を作れるかもしれない」
マリエさんの手前、妖精うんぬんは言えなかったので、そんな表現となったが、ワンダフルさんたちには通じた。
「そうだな」
「すぐに出発しよう」
マリエさんとふたたび別れ、ソウタたちは慌ただしく宿を引き払ってモルレを出た。折悪く、乗合馬車は出たばかりで、次にリトラ方面へ向かうのは数日待つ必要がある。徒歩で向かうことにした。
ケッティは悔しそうな顔をした。
「こんなとき、わたしが妖精の舞踏を踏めたら、すぐに着くというのに」
ソウタはなんと言って良いか分からなかったので、そっとケッティの片前足を握った。
モノクルの向こうの瞳がこちらを向く。
「ユリ、大丈夫だよね」
「もちろんだ」
ワンダフルさんは背嚢を背負い、ユリを抱きかかえつつも、慎重な足運びで足早に歩くから、それを追いかけるのもひと苦労だ。
「アインス、ツヴェルクの妖精の路は?」
『リトラへ通じるものはありません。ゴーレムたちを呼びますか?』
「いや、頭数がいても、この場合は仕方がない」
途中、とうとうソウタはアインスに背負われて先を急いだ。暗くなっても進み、最低限の休憩を取るために野宿をした。
『ソウタさま、このままお休みになってください』
「そうだぞ。アインスのことなら気にするな」
そう言われても、役に立たない自分が悔しくて、ソウタはアインスの背中でちょっとばかり涙を流した。
ディレク・ツヴェルク・ゴーレムは実に素晴らしく、冒険者のワンダフルさんも知らない最短ルートを行った。それは街道を辿るものではなかったが、魔獣は蹴散らし、最低限の水場を経由して進んだ。
そして、一行は街道から離れた場所で、懐かしい者と再会する。
「ヒッピィ!」
「あら!」
リトラへ向かっていたカバ族のヒッピィだ。
嬉しそうな顔をしたヒッピィは一行のただならぬ様子にちょっぴりたじろいだものの、ユリが罹病したから先を急ぐのだという事情を聞き、きっと顔を上げた。
「わたしが空を走って運ぶわ。乗って!」
「「「「え?!」」」」
「ヒ、ヒッピィ、大丈夫?」
「頑張るわ! だって、ソウタ君もユリちゃんもこんなにわたしのためにあれこれ考えてくれているんだもの。なのに、わたしが臆病になったり腰が引けていては女が廃るわ!」
ヒッピィは情に厚く、恩義に報いようとする性格をしていた。今まで自尊心を傷つけられることばかり言われてきたせいだから、受けた恩はこの上なく有り難がるのだろう。
リトラへ向かいながらも教わったことを繰り返し練習して来たというヒッピィは、大勢を背に乗せ、空を駆けるという偉業を成し遂げた。
ヒッピィは無我夢中で中空に飛びあがり、四肢を動かした。
そして、ヒッピィはみごと天駆けるカバとなったのである。
「ああ、身体が軽いわ。どんどん進んじゃう!」
空から見下ろせば、なだらかな盛り上がりと凹みが影を作って色の濃淡を創り出している。
集落の上空を通過したときには、狭い場所にぎっしり建つ家々が見えた。同系色の屋根、壁。近くでよく見ると少しずつ色の濃淡が違っているのだろう。
ケッティがガイドブックを取り出し、アインスといっしょにヒッピィが進むべき方向を指示する。
あっという間にリトラへたどり着いた。
ベルナンドさんに挨拶する間もなく、一行は慌ただしく妖精の環を踏み、農場牧場へたどり着いた。
すぐにトムさんとカントさんを呼び、ユリをベッドに寝かせ、その容体を見せる。
カントさんは難しい表情を浮かべ、フェムといっしょに畑へ素材を採取しに行った。
「妖精の国へ行ってレシピを探して来ると良い」
ソウタはトムさんの言葉に一も二もなく頷いた。
そのとき、ソウタはなぜ、ユリのリュックもいっしょに持って行こうとしたのか分からない。けれど、それが後々に大きく影響した。とにかくソウタは、ただただ慌てていたのだ。
ともかく、一行はそのまま妖精の環を踏んだ。みんな気が急いていた。だから、旅の一行はそのまま全員で動いた。ユリはもはや安全な場所でカントさんという頼もしい薬師に任せたのだから、できることをしようと思ったのかもしれない。
だから、ソウタ、ワンダフルさん、ケッティ、ディレクさん、アインス、ヒッピィというメンバーで、うしろの三人は初めて妖精の国へ足を踏み入れるのだという認識もなく先を急いだ。後から落ち着いて考えてみたら、たぶんディレクさんは慌てていたかもしれないけれど、アインスは冷静で、ディレクさんが行こうとしていたから、彼を運んだだけだったのかもしれない。それでも、それで良かったのだ。
さて、妖精の環を踏んで、さあ、妖精の国へとなったのに、違和感を覚えた。なんだか少し抵抗されるような感じがした。そして、なぜかケット・シーの村のすぐ傍に出た。
「あれ? ここって、」
「ケット・シーの村だな」
目当ての場所ではなかったことに驚くソウタが周囲を見回し、ケッティが難しい顔つきになる。
「緊急事態! 緊急事態!」
「急げ、急げ!」
しかも、なんだか騒がしい。ケット・シーたちはいつも賑やかだが、なんだか不穏な様子である。
「どうかしたの?」
「あ! ソウにゃん!」
「ねえ、妖精の環、なんだかおかしいの? 妖精の国へ行こうとしたんだけれど、ここへ出たんだ」
「今、妖精の国は大変なのにゃ!」
「巨大なゴーレムを連れた人族に襲撃されているのにゃ!」




