アックス第152号
若草ヒヨスさん「めだかのこ」最終話。
私がアックスを買うきっかけであり、定期購読を申し込む理由でもあるところの作品のうち、かなりデッカイ部分が終わってしまった。
作者の若草ヒヨスさん曰く「私は女の子の(うへえ……)って表情を描くのが得意だ」とのことだったけど、この連載で毎回リラちゃんが見せてくれた珠玉の(うへえ……)は、デヴィッド・リンチのインランド・エンパイアに出て来るヒロインの女性に匹敵する(うへえ……)だったと思う。そんなリラちゃんが挫折を乗り越え、居るべき場所に戻って来て見せてくれたのは、とびっきりの笑顔だった。
この笑顔を見るために読んでいたのかも知れないってぐらいの、とびっきりの笑顔。
カワサキ君はヒールを履いてビジネススーツを着てスカート穿いて前髪ぱっつんで言葉遣いはガラッパチで……かわいい。性癖ど真ん中剛速球である。かわいい。
この子は最後の最後の部分でガラッパチなのが本当に素晴らしい。この言葉遣いで、この可愛さ。これである。
閑話休題。枠の外から、つまり読者の背中越しにリラちゃんの言葉が届く場面は印象的で、吸い殻でいっぱいの灰皿の奥底に暗く落ち込んだ世界にパッと明かりが灯るようだった。タバコ、増えてたんだな……寂しかったんだな。
でもリラちゃんの(うへえ……)も健在で、しかも「おばあちゃんみたいな味」という表現も秀逸。なんか薄くてダシっぽくて、不味くないけど前ほど美味しく感じない、みたいな…?
そして最後のセリフに繋がるのが、この「味落ちました?」からの一連のやり取りだった。
流れるような幕引き。タバコ吸う男性キャラではバンコランかスペースコブラ並みのカッコよさを持つ、社会不適合ニコチン中毒無愛想不器用ロン毛中年男性の、精いっぱいの微笑み。
若草ヒヨスさんありがとうございます、この作品が今後あなたの中でモニュメントになるかエピタフになるかわからないけど、私の心にはしっかりと聳え立つスポメニックになりました。髪を切ったリラちゃんと、この物語を描き切ったヒヨスさんは、二人そろってひとつ大人になったのだと感じました。
これからも「I'm free to be whatever I」ってなもので、お好きに何でも描きまくってほしいと願っています。あなたの望むどんなものでも。
描きたければ喜劇でも悲劇でもブルースでも。
何を描こうと、Yeah I know it's alright.です。
荒井瑞貴さん「さよならきよちゃん」
第25回アックスマンガ新人賞 林静一個人賞・受賞作。
恋人の「きよちゃん」と死別した男、チャドの物語。を、少し離れたところの視点から描く。
ぼんやりして可愛く見える絵柄だけど、背景の茫洋としたところがどことなく空虚で、悲恋を決してロマンチックにせず、ギリギリの狂気や孤独をずーっと感じる作品。
死別を描いて作品としてまとめたことで、よっこらしょっと十字架を背負い始める。
それがあるから、漫画家になれた。仕事も来る。でも、それを自らの手で宣伝する事なんて出来ない。チャドの葛藤や後悔が、きよちゃんの魂を呼び寄せたのか、それとも単なる妄想か幻覚か。
十字架は所々パカっと開けることが出来、中にコミックスや供花が入っている。
便利。
自分で背負った十字架は時々、便利なのだ。
何気なく過ごしていた日々が突然終わる。亡くなる前日に焼いてたパンを食べてたり、スマホやクルマを買い替えたり、6年という歳月が流れているようで、どこかで押しとどめておきたがっている。付き合った当初から、まだ生きているうちから、気持ちは変わっていったしカラダのこともわかっていた。でも、はっきり返事が出来なかったことも悔やんでいるのかな。と見える。目つきが時々あやしくなったり、きよちゃんの姿が骨壺になったり、そうしたなかで懺悔のようにチャドは語り続ける。
その十字架はなんのつもりか、夕暮れの空の彼方で漕ぐブランコは何処と何処を行ったり来たりしているのか、そして最後に土砂降りの雨が降り、月に向かってさよならをする。
とても綺麗だ。綺麗にまとまった。でも中身はドロドロだ。こうでなくては。
チャドはサイテーなところもあるし、すぐ逃げるし、どんなに愛だの忘却だの言っても自分が可愛い。結局は自分可愛さに十字架を背負って見せて、そうしなきゃいけない、と自家中毒みたくなって過ごしていた。
それが解放された時に見上げた月があんなにキレイでハッキリ見えたのだから、もう彼は泣いてないのだろうな。
清水沙さん「スターゲイザー」後編。
倒錯した感情は自作自演からこぎつけた契約に繋がっていた。陰湿で偏執的な感情であっても、かなしいとうれしいがいっしょにあった。落ち葉のように踏まれてぐしゃぐしゃになるだけだった自分が、産まれて初めて求められた。最後に帰りたい場所で後悔と倒錯がキラキラと輝く、この物語にスターゲイザーと名付ける胆力とセンスと、振り向いて終わる余韻がサイコーに好きだ。
消えたテレビ、止まった揺り椅子、手を洗いたい。
杉作J太郎さん「ふんどしのはらわた」第146回。
RNB南海放送のラジオ番組、杉作J太郎のファニーナイトやかつてはタモリ俱楽部、エンタメ時代のFMWの解説でもお馴染み軽妙かつ愉快なトークの杉作J太郎さんだが、ここのコラムはいつも、一段トーンを落としてボソボソと話すような語り口が印象深い。私は、このコラム大好きでいつも楽しみにしています。が、ちょっと怖い時もあります。
テレビもラジオもあるしインターネットもある時代であっても、結局は創作の原動力とか始めるきっかけは内なる孤独、自分だけが入ったり作ったり出来る内なる宇宙……
おまえだけのばしょ
を持ってるかどうか、なんだな。
今回の記事の中の若かりし頃の杉作さんは、当時の住まいに居場所が無さそうだ。そして漫画家になり、家電製品や食べ物の備蓄でさえ乏しいまま、しかし寂しさや虚しさを感じることなく過ごしていたと回顧する。
内なる宇宙に居たからだろうか。
近所の中華料理屋、銭湯、パブスナック、遠くの店、自販機。
当時の自分を取り巻く狭い世界と今を見比べてみると、今の方が寂しそうにさえ感じる。
テレビは見なくなり、ラジオはたまに聞き、インターネットからも時々、遠ざかろうとしながら何か書いている私の原動力も、なんだか似たようなものな気がする。
まどの一哉さん「猿渡教授の華麗な戦い」復讐の終わり
前回、猿渡教授と戦った雷神が何やら物騒なお仕事をしている。若いオポッサムの男の子と一緒に、とある会社の会長室に忍び込み、金庫を荒らし、中身を頂戴して復讐のお手伝いだ。あの女の子とも一緒に生活しているらしく、ハンバーガーとコーラを手にして、地球の暮らしに馴染んでいるようにも見える。が、金庫荒らしがバレたので呼び出しを喰らう……行ってみると、そこにはオポッサムの死体が。ブルドッグふうの会長に脅迫されるまでは動じなかった雷神だが、会長は発作を起こして巨大化。
あの金庫の中には、発作を抑え巨大化を防ぐ薬が隠されていたのだ。
雷神が薬を探す間も暴れ回る元会長。そこへ猿渡教授がさっそうと登場、怪獣退治を始める。が、雷神は巨大化しない。何故、と問われると
「雨が降っていないから」
なるほどそうか。しかし雷神が薬を発見して飲ませたことで会長は沈静化。猿渡教授と雷神の間には奇妙な連帯感が生まれる……。今回、メインの猿渡教授は出番が遅く、殆ど雷神の話になっている。特撮ってたまに脇役が大活躍したり印象深い悪役が出たりするけど、まさにそんな感じのエピソードだった。金庫の中に現金が乏しく、そこに薬が隠してあって、巨大化した会長は猿渡教授が引き受け、トドメは雷神の手で。流れるようなカーブを曲がって落着する。いい構成でした……!
駕籠真太郎さん「世界の構成要素」
三角形が単に三角形として存在しているならいい。でも外からの要因で偶然そこに三角形が生まれている状態が自分だったとしたら……?
ただそれだけのために、煩悩や悦楽、虫、脳などで形作られた外的要因がびっちりと詰まり、話しているニンゲンは空白で描かれている。
禅問答みたいだ。でも、外的要因のために生きているってのは、空っぽに感じられるかもしれない。さっきの杉作さんのコラムで感じたみたいに、自分の内なる宇宙を持ってなければ、なんだか自分が空虚に思えるのも。空虚ではいけない、自分を持ってなくちゃダメ、という強迫観念な思い込みも、もしかすると外的要因からのものなのかも知れない。
それについて悩んでいるのは確かにオレだが、分解・消滅したオレは誰だろう?
ツージーQさん「ぶどう園物語」最終話。
なんとなく終わりが近いだろうなと思っていた私の大好きな漫画が、またしても最終回を迎えた。完結おめでとうございます。そしてその余韻に浸りながら巻末のコメントや広告などを眺めていくと、最後に次号予告。ぶどう園物語発売決定おめでとうございます!
余計なことしやがって、って言われて謝るツージーさん。
かつての友、町、長屋……何もかも消えてしまった場所にたったひとつ残った大樹。
どっしりと根を張り聳えたそれこそが、年月を重ね変化を続けた自分を支えていた、何か漠然とした思考や記憶、もっとぼんやりした念や「氣」みたいなモノだったのかも知れないなあ。
挫折と加齢と変遷。人生の春夏秋冬をなぞる物語を総括したい。ぜひ購入します。
楽しみにしております。




