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エピローグ

 どんな相手が現れても、自分からは断らないようにしよう。

 妙にさっぱりとした気持ちで、セシルはそう決意していた。


 釣書には一応目を通していた。

 それによると、相手はなんと侯爵家の嫡男。二十三歳。この結婚が決まれば両親は引退し、爵位を譲る意向とのこと。

 現在は王宮の近衛騎士身分。名前はエリオット・グリフィン。


(よりにもよって、エリオットさんと同じ名前だなんて、冗談みたい。姓は聞いたことがなかったけど、二十三歳ならさすがに別人よね。私より五歳も年下だなんて。それにしたって、この方もお気の毒だわ。公爵家の圧力? 相手が行き遅れどころか十年間在野で働いていた、貴族令嬢には程遠いあばずれだなんて、どうお考えなのかしら)


 顔合わせは、公爵家の庭園にて。

 セシルは三日前から公爵家入りをしており、集中して肌や髪の手入れに時間を使い、毎晩の堅苦しい晩餐にて貴族の作法を思い出していた。もともと教育はきちんとした家の出だったので、さほど苦労はしなかった。どちらかというと「ねえねえ、厨房を使って良いから、からあげを作ってくれないかしら?」と言い出すシャーリーに対して、公爵は苦言を呈していた。ちなみに、からあげはきちんと作って、公爵にも絶賛されている。


 木陰のガゼボの椅子に腰掛け、風に吹かれるがままに、セシルは目を閉じていた。


 いくつもの緑の匂いに混ざる、花の香り。

 梢の葉擦れは耳に心地よく、風も優しい。

 久しぶりにゆっくりと、満ち足りた気分だった。仕事も好きだったが、貴族の暮らしだって嫌いなわけじゃない。こういった生活も悪くない。あとは夫となるひとが納得してくれたらなのだけど……。


 風が止まった。セシルは、ふっとまぶたを持ち上げた。

 目の前には、群青色の礼装に身を包んだ、黒髪の青年が表情を殺して立っていた。


(え?)


 頭も心も追いつかない。それはもしかしたら、青年も同じだったのかもしれない。


「………………妻になるんですか。あなたが。俺の」


 恐ろしく低い声で、確認されてしまった。


* * *


 妻に。


「もし、このお見合いで双方が合意した場合、そういった未来も考えられなくはないですが。つまり、私とあなたが、結婚すると決めた場合です。でも、エリオットさん、相手が私だなんて思わずにここまで来ていますよね? 合意なんて」


 早口になった。それはエリオットも同じで、猛然とした勢いで語りかけてきた。


「それはそうです。釣書を見て、セシルだなんてあなたと同じ名前であることに怒りを覚えていたし、女性であることにも腹を立てていました。女性のセシルさんがいるなら俺が結婚したいくらいだって。何を言っているかわかりますかこれ。自分でもわかりません。だけど、俺が欲情を抑えきれなくなって無理矢理に唇を奪ったセシルさんが、俺と結婚してくれたらいいのにってどれだけ考えたことか。結婚します。しましょう。今すぐ結婚したいです。俺ではだめですか? 断らないでください」

「落ち着いて……ください。私も何がなんだか」


 エリオットは、一度も目を逸らしていない。まるで、目の前の「伯爵令嬢セシル」と自分の知る人物が同じであるか、何がなんでも見定めようとしているようだった。どこかに間違いがあるのではないかと。強いて間違い探しと言えば、コックコート姿ではまったく目立たないが、ドレス姿では無くもない、ささやかな胸。エリオットの視線がそこに向かい、セシルも気付いたところで、エリオットは顔を背けて横を向いた。頬が赤い。


「本当に、あなたなんですよね。シェフのセシルさん」

「はい確かに。私で間違いありません」

「そばに寄って、触れても良いでしょうか」


 セシルは返答に迷い、長く沈黙した。やがて、逃げてはいられないとようやく腹が据わり、椅子から立ち上がる。

 エリオットの目の前まで歩いて行き、いつかのように手を差し出した。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 かすかに震えた声で礼を言い、エリオットはその手に手を重ねた。

 風が吹く。

 花が香る。

 二人だけの空間を、静かに時間が流れていく。

 ため息とともにエリオットはセシルの手を取り、指に口づける。


「もう一度、あなたに触れたいと思っていた。いま、俺の夢のすべてが叶っています」


 何度も指に口づけを落とし、ついにはセシルへと視線を投げかける。


「エリオットさん、蕁麻疹はどうですか?」

「全然。どうしてあなただけ大丈夫なんだろう。この手に料理を作ってもらったときに、自分から触れてみたいと思ったせいだろうか。この手が好きです」


 その一言一言に、口づけのひとつひとつに。

 怖いくらいに、体が熱を帯びていく。ようやくすべてに現実感が出てきて、セシルは上ずった声で確認した。


「私の手が好きなのは、私の料理が好きだから?」

「あの夜のキス以来、店に行けなくて本当に辛かった。後悔もしました。でもあのとき、思いを伝えないという選択肢はやはり俺にはなかった。あなたのことが好きです」


 長い口づけの末に、エリオットは言ったのだ。「あなたが好きです」と。セシルはそれを拒絶した。エリオットの人生を滅茶苦茶にしてしまうと思ったせいだ。


「あのとき、断ってしまってごめんなさい。私もあなたが好き。あなた以外なら誰と結婚しても同じだと思って今日この場に来ていたけど、相手があなたで良かった。結婚します」

「店は?」

「え?」


 余韻に浸る間もなく、間髪おかずに尋ねられて、セシルもまた真顔で聞き返してしまった。今なんと言いましたか、この方は、という。


「『銀の鈴亭』です。俺の見る限り、あなたがいなくても二番手、三番手が育っているように思ったのですが、しかしシェフのあなたがいての銀の鈴亭といいますか。もし仕事を続けられるようでしたら、部屋がないなどと言わずぜひあの二階に俺も住ませて頂きたく」

「仕事は……、少し休んでもいいかと思っていました。もしかしたら、またやりたくなるかもしれませんが、少し勉強の時間を取りたくて。諸外国に食べ歩きですとか、新メニューの開発ですとか。これも結局仕事なんですが」

「いいですね。旅行の手配も試食もお任せください」


 エリオットは、真面目くさった顔で胸に手を当て、力強く言った。

 セシルはそこで、ふきだしてしまう。


「あなたは食べることにはどこまでも前向きですね。私はそこが好きです。実は今日のお茶会用のお菓子も、私が作らせてもらっているんです。お見合い相手に興味はなかったんですけど、美味しく食べてもらえたら、好きになれるかもって思って。召し上がりますか?」

「喜んで。世界一美味しそうに食べます」


 彼らしからぬ浮かれた物言いに、セシルは再び明るい笑い声を響かせた。


(お見合い相手に向けて作っていたはずなのに、あなたの顔ばかりが浮かんでいた。世界一美味しそうに食べるあなたの姿だけが見えていて。食べてもらえるんだ。良かった)


「それで、今日のおやつはなんですか?」


 少年のように目を輝かせて促され、セシルは「今日はですね」と笑顔でメニューの説明を始めた。



★最後までお読み頂きありがとうございましたー!


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