てんびん座の魔法
1.あの日の魔法
私は魔法が好き。そう遠村絢花は公言していた。どこまでも透明な期待感。キラキラでふわふわな、未知への扉。
夕暮れの公園に童謡ふるさとのインスト音楽が流れる。絢花はブランコに座り、一人涙を流していた。その泣き声に導かれるように、浅賀侑吾は公園へとやってくる。ゆっくりと歩を進めると、絢花をのぞき込んだ。
「どうして泣いてんだ?」
その言葉に絢花は少しだけ顔を上げる。
「お兄ちゃんだれ?」
侑吾は微笑んだ。
「浅賀侑吾。今日ここに引っ越してきた。君は?」
「遠村絢花……」
「絢花。いい名前じゃん!」
その言葉に、わっと絢花は泣き出してしまう。
「お、おいどうした?」
絢花はしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。
「お、男の子たちいじめるの……。遠村はとおだからとんちゃんだって。とんはブタだからブタちゃんだって……! 私ブタじゃないのに……!」
侑吾の手が優しく絢花の背をなでた。
「絢花は絢花だもんな。ブタじゃねえよ」
泣きながら何度も頷く絢花。そんな絢花から手を離すと、侑吾は明るい声を出す。
「よし! じゃあしょんぼりしてる絢花に、魔法、見せてやるよ!」
絢花の瞳に光が灯る。
「魔法?」
侑吾はニヤリとした。
「おう。取り出したるは何の変哲もないこちらの赤いハンカチ、これを俺の手の中に入れると……」
握られた拳をゆっくりと開く。
「うそ、消えた」
絢花の瞳はどんどん輝きを増していく。
「そう。で、もう一度俺が手を握ると……」
ポンという音と共に、ハンカチで出来た赤いバラが現れた。
「わあ……」
侑吾はそれをそっと差し出す。
「かわいい絢花にプレゼント」
絢花の顔がパッと明るくなった。
「え、ほんと?」
「ほんと」
ふわりと笑む侑吾に、絢花も笑みを返す。
「ありがとう」
一瞬照れくさそうにした後、侑吾はニヤリと笑い言う。
「大成功」
ドキッという音が絢花の胸の中で響いた。
それは夢だった。13歳になった絢花が回想した、侑吾との出会いである。あれは確かに魔法だった。手品とかマジックとか奇術とか、言い方は色々あるけど、あの日あの時あの人が見せてくれたのは、たしかに、魔法……。あの時から絢花は魔法を信じている。あの時から絢花は魔法を愛している。あの時から絢花は、侑吾のことが……。
チャイムの音が南中学校風紀室にこだました。絢花は机に突っ伏して眠っている。隣に座っていた侑吾が絢花をゆすった。
「絢花、おい。絢花!」
「え?」
寝ぼけまなこの絢花である。
「もう委員会議終わったけど。寝不足か?」
絢花は急速に覚醒した。起き抜けに侑吾の声が聞けて、切なくなるほど嬉しくなった。侑吾と絢花の視線が交わる。絢花の胸をときめきが駆け抜けた。ふいに激しく、伝えなければと思った。この思いを……恋を。衝動のまま、絢花は口を開く。
「……あの!」
「ん?」
侑吾が首をかしげるのと、風紀室のドアが開くのは同時だった。福居唯奈。侑吾の同級生。入室した唯奈を見た瞬間、絢花の衝動は死んでしまう。唯奈はゆっくりと侑吾の席まで歩いてきた。
「侑吾君。まだいたの?」
「まーな。そっちは」
「忘れ物」
唯奈はちらりと絢花を見て会釈をする。絢花も慌てて会釈を返した。唯奈はスッと侑吾のネクタイに手をかける。
「あ、侑吾君ネクタイ曲がってるよ」
「これわざと」
「ばか。なおすからこっち向いて」
「いいって」
絢花はがらりと音を立てて椅子から立ち上がった。目の前の光景に耐えられなかった。
「あの、私帰りますね」
鞄をひったくって去ろうとする絢花の腕を侑吾の手がつかんだ。
「まって!」
「え?」
振り向く絢花に、侑吾が囁く。
「明日、10時半。喫茶ローズブルー」
「え、あの」
戸惑う絢花の腕はもう離されていた。侑吾がひらひらと手を振る。
「あ、さよう、なら」
絢花はとぎれとぎれに挨拶し、帰路についた。
2.今夜だけ魔法使い
翌日10時半すぎ。絢花は喫茶ローズブルーの店内にいた。侑吾と向かい合って。二人から注文を取った店員が一礼して去っていく。侑吾が唐突に言った。
「ワンピース似合ってるね」
「ほ、あ、ありがとうございます!」
絢花は口が回らなくなりながらもお礼を口にした。侑吾はにっこり笑う。
「いや、急に呼んで悪かったな。用事とかなかった?」
「ないです! 全然!」
ぶんぶんと首を振る絢花。
「よかった」
侑吾の言葉に、絢花は口を開こうとしてやめる。どうして今日自分を誘ったのか。気になったが聞けなかった。それを察したかのように侑吾は続ける。
「別に理由とかないんだけどさ、親睦深めようかなって。絢花は忘れてるかもしれないけど、昔は結構仲良かったし。嫌?」
「い、いえいえ! 全然嫌じゃないです! そ、それに忘れてません! 全然忘れてません!」
ガラッと椅子を引く大きな音が店内に響く。絢花が立ち上がったのだ。侑吾は面食らいながらも笑う。
「そっか」
「ご、ごめんなさい私。立ち上がったりして」
「いや別に。ありがとな」
そこで会話が途切れた。居心地の悪い沈黙が二人を包む。破ったのは侑吾だった。
「あ、絢花って誕生日いつ? 俺もうすぐなんだよね」
絢花はおずおずと答える。
「10月14日です」
「おお! 俺10月15日! 一日違いじゃん!」
「……知りませんでした」
嘘だった。本当はよく知っていたが、知らないふりをした。その方が侑吾が喜んでくれると思ったからである。思惑通り、侑吾はニコニコと笑った。
「運命かもな」
絢花は泣きそうになる。それがバレないようにうつむいた。
「侑吾君!」
絢花と侑吾は一斉に声の方を向く。店の入り口に唯奈が立っていた。唯奈は嬉しそうに二人の席までやってきた。
「唯奈!? なんで」
驚きを口にする侑吾。それを唯奈はさらりとかわす。
「え、たまたま。ねえ私もいい?」
困ったような視線を送る侑吾に、絢花はにこやかに言った。
「私は、大丈夫ですよ」
数時間後。絢花は自室のベッドにうつぶせになり、泣いていた。悔しかった。悲しかった。自分が情けなかった。その全てが涙となりあふれてくる。
「浅賀先輩……」
絢花は昔侑吾にもらったハンカチを手に言う。つぶやきは誰にも届かず、宙に消えた。はずだった。
「あやちゃん」
自分を呼ぶ聞きなれない声に絢花は顔を上げる。誰もいない。声のしたあたりには、てんびんを持ったうさぎのぬいぐるみが置いてあった。
「気のせいかな」
少しの気味悪さに、絢花はわざと声を出してみる。瞬間てんびんうさぎがぴょんと跳ね、絢花を呼んだ。
「あやちゃーん!」
絢花は驚きに声も出ない。目だけを皿のように丸くした。てんびんうさぎは話し続ける。
「僕はてんびんうさぎ! 今夜だけ魔法使いなんだ! よろしくね!」
「よろしく……」
絢花は思わず返事をした。てんびんうさぎはにっこり笑うと、絢花にてんびんを持っていない方の手を差し出す。
「さあ、僕の手を取って!」
3.魔法は夜の国へいざなう
何故だか分からないが、その手を取らないのはひどく不自然な気がした。手に持っていたハンカチをポケットにしまうと、絢花はそっとてんびんうさぎの手を取る。絢花の体は宙に浮いた。
「体が、浮いてる」
驚きはあったが恐怖はなかった。てんびんうさぎはハリのある声で言った。
「出かけよう。夜へ!」
絢花は侑吾と話すときのような高揚感を覚える。出かけたい。飛び出したい! そう思った時、すでに絢花の体は夜の空を飛行していた。
「すごい。ほんとに、飛んでる!」
「魔法使いだからね!」
得意げなてんびんうさぎに、絢花は問う。
「どうしててんびん君は魔法使いなの?」
てんびんうさぎはキラキラの瞳で答えた。
「君がそう願ったから!」
なんだか絢花は泣きたくなった。笑いたくもあった。絢花は言葉が出ず、ただ美しい夜景を眺める。そんな絢花の手をてんびんうさぎがグイと引いた。
「雲の上に行くよ! 夜の国へ!」
「夜の国?」
首をかしげる絢花。てんびんうさぎはかまわず続ける。
「手を離さないでね!」
風の音が絢花の耳をふさいだ。思わず目をつむる。その音がやむのとほぼ同時にてんびんうさぎの声がした。
「ここが夜の国だよ!」
絢花はそっと目を開ける。
「すごい。雲の上に町が……」
「ただ一つ!」
突然てんびんうさぎはぐいと絢花に顔を寄せた。
「朝までに雲を出ないと永遠に帰れなくなってしまう!」
ごくりと息をのむ。
「でも大丈夫! 朝までに帰ればいいんだ!」
「う、うん」
にっこりとてんびんうさぎは笑う。
「夜間散歩だよ! 楽しもう!」
跳ねるてんびんうさぎに絢花も笑みがこぼれた。パステルカラーの世界。道も、川も、森も。全てが淡く輝いている。なんて美しいんだろう。なんて素敵なんだろう。そんなことを考えながら絢花は歩いていた。ふと、ポケットからハンカチを取り出してみる。なぜ取り出したのかはわからない。ただこの美しすぎる風景の中に囚われてしまいそうで、少し怖かったのかもしれなかった。絢花にとってそのハンカチは現実そのものだったのだ。風を感じ、顔を上げる。木に実ったルビーのような果実が目に入った。その芳醇そうな見た目に気を取られ、絢花は何かにぶつかる。顔を上げて確認すると、それは人だった。よく知った人だった。
「浅賀、先輩……」
侑吾そっくりのその男は、真っ直ぐ絢花を見て告げた。
「はじめまして。かわいいお嬢さん。俺はユーゴ。よそ見はいけません、あなたのようにかわいい方はなおのこと。ああでも、もしよければお茶会にいらっしゃいませんか?」
にっこりとほほ笑むユーゴ。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「いたたた。引っ張らないでおくれよ!」
絢花はてんびんうさぎを少し離れた場所に連れていき、こそこそと聞いた。
「どうして浅賀先輩がいるの?」
てんびんうさぎはさも当然のように答える。
「ここは夜の国、誰かの夢が叶う場所。きっと彼は君の夢さ」
「わたしの、ゆめ……」
いつの間にか絢花たちの背後に移動していたユーゴが声をかけた。
「ご相談は終わりましたか?」
絢花は驚き、思わず手からハンカチを離してしまう。
「あ!」
絢花とてんびんうさぎが同時につぶやく。柔らかな風に乗り、ハンカチはルビー果実の木の幹に引っかかった。ユーゴが木に向かって走り出す。木の下にたどり着いたユーゴは勢いをそのまま、ジグザグに木を登っていった。あっという間にハンカチを取り、来た道を戻ってくる。絢花とてんびんうさぎはただ茫然と立ち尽くしていた。
「どうぞ」
にっこりとハンカチを差し出す。絢花は真っ赤になりながら受け取った。
「あ、ありがとうございます」
あまりにも鮮やかで、見事で、かっこよかった。ユーゴは戸惑う絢花の手を取り、歩きだす。
「さあこちらへ」
「あ……」
ふわふわと歩く絢花。淡い青色のバラが咲き乱れる庭園へといざなわれていく。
「きれい……」
「ようこそ。ブルーローズガーデンへ。すぐにお茶をご用意いたします」
そう言うと一瞬のうちにユーゴはどこかへと消えていった。
4.明日への魔法
ユーゴは慣れた手つきで薄青色のお茶を二つのカップに注ぐと、一つを絢花の方へ差し出す。絢花はそれをおずおずと受け取った。にっこりと笑むユーゴ。
「まずは、お近づきの印に」
ポンという軽い音。ユーゴが青いバラを差し出す。
「どうぞ。プレゼントです」
「あ、ありがとうございます」
ユーゴはまた微笑む。
「では、あなたの話を聞かせてください」
「え?」
「あなたの話が聞きたいんです」
真っ直ぐに見つめられ、絢花はなんだか悲しくなった。
「お嬢さん?」
「ユーゴさんには、仲の良い女の人はいますか?」
何故かスラスラと口にできる。このユーゴは、自分の願いをなんでも叶えてくれる。そんな風に思わせる何かをこの男は持っていた。てんびんうさぎは不安げに絢花を見る。
「あやちゃん?」
絢花は答えない。反対にユーゴは絢花の問いににこやかに答えた。
「いませんよ」
何を聞いているんだろうと自虐的になりながら、絢花の口は止まらなかった。
「好きな人がいるんです。でもその人には、仲の良い女の子がいて。私、なかなか気持ちを打ち明けられないんです。それでその人は……」
「俺に似ている?」
ユーゴの言葉に、絢花の感情をせき止めていた何かが壊れる。絢花の頬を涙が伝う。
「大好きなのに。私の方が絶対大好きなのに……! いつも唯奈先輩が側にいて……!」
椅子から立ち上がり、ユーゴは絢花の涙をぬぐう。
「もう大丈夫。俺は君だけを見ています」
てんびんうさぎがあわてて口を開く。
「あやちゃん、夢におぼれてはいけないよ!」
絢花はうつむいて首を何度も横に振る。
「わかってる。この人は違うって、わかってるけど」
沈黙が流れる。ユーゴは何も言わない。絢花がそっと消え入りそうな声でつぶやいた。
「私ずっと、ここにいたい……」
「あやちゃん!」
てんびんうさぎは椅子から飛び降りる。
「ここにいましょう。俺と一緒に、永遠に」
絢花の肩を抱き、囁くユーゴ。
「あやちゃんダメだ! 朝が来る前に戻らなくてはここから永遠に戻れなくなる!」
絢花はぼんやりと言う。
「戻れなくても、いい……」
「あやちゃん!」
ユーゴが絢花の手を引こうとする。ぐらりと絢花の体が揺れた。かさりと絢花のポケットから何かが落ちる。てんびんうさぎがのぞき込む。
「これは」
絢花の瞳に光が戻った。
「それ、先輩が昔くれた」
「あやちゃん」
「え……?」
てんびんうさぎは真剣な顔で絢花を見つめる。
「ここにはたしかに魔法がある。でも君は思ったはずだ。今日もらった本物の青いバラより、あの日もらったハンカチの赤いバラの方が嬉しかったって!」
絢花はハッとした。
「……そう、不思議だった。すごく、すごく嬉しかった。だけど、あの日の方が、嬉しかった。ねえてんびん君。どうして?」
てんびんうさぎは力強く答える。
「簡単だよ! たとえ都合が悪くても、思い通りにならなくても、仲のいい女の子がいても、それでも君が好きなのは、現実のあさか先輩だからさ!」
「現実の、先輩」
ユーゴを見る絢花。ユーゴは変わらず微笑んでいる。てんびんうさぎはさらに続ける。
「たしかに夜の夢は美しい。でもずっといたらダメなんだ。あやちゃんの本当の夢は、現実の中にあるのだから!」
「私の、夢」
すがるような目で絢花がてんびんうさぎを見た。
「だいじょうぶさ。僕がついてる」
絢花は頷き、ユーゴに向き直る。
「ユーゴさんごめんなさい。私戻らなきゃ」
こてんと首を傾け、ユーゴはどこかさみし気に笑った。
「……かまわないよ。俺はいつでもここにいるから」
てんびんうさぎが絢花の手を取る。
「さあ戻ろう。じきに朝が来る!」
「うん!」
絢花は落ちたハンカチを拾い、しっかりと握った。
ふと気づくと絢花は自分の部屋にいた。ハンカチを手に、ベッドにうつぶせになっている。
「てんびん君!」
思わずぬいぐるみの方へ振り返る。もとの位置に鎮座しているてんびんうさぎ。絢花は目を伏せた。
「夢見てたんだ」
俯く絢花の耳に、キラキラと何かが囁く。それを聞いて絢花は心に勇気が宿るのを感じていた。
「ううん。夢じゃない。きっと大丈夫だよね。だっててんびん君が、運命がついてるもん!」