ソメイヨシノの咲く頃は
毎年、春の小川の水面が咲き始めの桜花で淡く染まる頃になると、わたしは南奈良の片田舎で過ごした遠い昔の青春時代を想い出す。
長い黒髪をおさげに編んだだけの化粧気もない姿で、重いカバンを抱えて歩いた通学路は、夏は日陰も少なく、冬は北風が吹きつけるという、十代の少女には、いささか過酷なものだった。
それでも、途中で腐ることなく卒業できたのは、一年生の頃に出会った三年生の先輩の存在が大きかった。
その先輩を初めて目にしたのは、入学式でのことだった。
新入生歓迎演奏の中で、後列の向かって左寄りの席に陣取り、指揮者の振りに真剣な眼差しをしてホルンを吹いていた彼の姿を認めた途端、わたしは、どれほど言葉を尽くしても正確に表現できないほどの強い衝撃を受けた。
ハッキリ言って、一目ぼれだった。
ただ、彼に注目していたのはわたしだけだったようで、周りの女子は前列右手前でアルトサックスを吹いていた別の先輩に心奪われていたようだった。
まぁ、そちらの二年生の先輩は副部長を務める傍ら、全国模試で県内一位の成績を修めるというスーパー秀才で、いかにも出来る男オーラを発してる人物だったから、わたしの審美眼の方が周囲とズレがあったのかもしれない。
どちらがどうであるにしろ、憧れの先輩を狙うライバルが居なかったことだけは確かである。
「ツツイさん、だね。僕は、アズマ。ヒガシと間違えないでね」
「はい。よろしくお願いします、アズマ先輩」
入学式の翌日から始まった仮入部で、わたしは真っ先に吹奏楽部の部室である第二音楽室の扉をたたいた。
仮入部期間初日ということもあり、教室内は件の二年生の先輩を目当てにしたミーハーな女子生徒でにぎやかだった。
だが、そのようなミーハーな群衆のことは気にも留めず、わたしはグランドピアノの後ろでマウスピースを取り付けているところだったアズマ先輩に教えを乞うことにした。
わたしが声を掛けた直後、先輩は意外そうな顔をしたが、軽く教室全体を見渡してから、すぐに空いてる椅子を引き寄せて持っている楽器の説明を始めてくれた。
この時の先輩は、きっと「他に手の空いている部員が居ないから声を掛けてきたのか」と判断したに違いない。
一週間の仮入部期間が終わり、いよいよ本入部となった時の楽器選びで、わたしは迷わずホルンを希望した。
しかし、それを告げられたアズマ先輩の顔色は芳しくなかった。
うれしくないというわけではなく、どちらかといえば心配そうな面持ちだった。
「ホルンを吹くのは大変だよ? 左手の運指が複雑だったり、右手が鉄臭くなったりするよ? ピッコロとかフルートとかの方が向いてるんじゃない?」
「いいんです。この五日間で、ホルンを頑張るって決めたんです」
アズマ先輩は困った様子で眉根を八の字に下げ、しばし楽器選択希望届とわたしの顔を交互に見比べたあと、同じ学年の女子部員で部長を務める先輩と相談すると言い残し、準備室へと移動した。
数分後、アズマ先輩と一緒に準備室から戻って来た部長さんから「アズマくんは面倒見がいいから、困ったら頼りにしなさい!」と言われ、正式にホルン担当として決まった。
後日談だが、この時の部長は既に、わたしがアズマ先輩にほの字だと見抜いていたそうだ。
さて。これでわたしは、晴れて放課後に正々堂々と先輩と一緒に居られることになった訳だが、そこから先輩後輩の関係を超えて親しくなることはなかった。
まぁ、高校生は学業が本分であり、部活動に恋愛感情を持ち出すのも変なお話なのだが、スマートフォンどころか個人用の携帯電話すら普及していなかった当時、同世代の異性と会話できる機会が多くないという環境で、もう少しフランクな関係になりたいという欲求が高まることは、思春期真っただ中の女子として致し方ないところがあったのも事実。
ただ、そうは言っても、あまりにも仲良くしすぎるとクラブ内の空気がいびつになってしまうため、今にして思い返せば、付かず離れずの関係を保とうとしていた先輩の方が、理性的で賢明な判断だったといえるかもしれない。
……隣に座る先輩の横顔や指先に目が行ってしまい、指揮を振る顧問の先生からよそ見を注意されたことは二度三度あるけれど。
慣れない楽器に手こずったり、定期考査でアタフタしたりしているうちに、季節はひまわりが育つ夏になり、落ち葉舞う秋になった。
そして、文化祭当日を最後に受験を控えて引退した先輩達が放課後の音楽室に姿を見せなくなり、横にアズマ先輩の居ない演奏の寂しさにも少しずつ慣れてきた頃には、いつの間にか粉雪が降る日も無くなり、生徒昇降口の前にそびえ立つ吉野桜の樹には、薄桃色のつぼみが膨らみ始めていた。
高校内で最後にアズマ先輩の姿を見たのは、卒業式の演奏を終えて音楽準備室から戻る時だった。
場所は、人混みを避けるようにしてたまたま通りがかった生徒昇降口。
「アズマ先輩!」
「あっ、ツツイさん。演奏、お疲れさま。緊張した?」
「ええ、まだ人前で吹くことに慣れませんね。トチってませんでした?」
「合ってたと思うよ。自信を持って」
そう言いながら、アズマ先輩は入部当初と変わらぬ優しさで話しながら、下駄箱から外靴を出して内履きと履き替え、脱いだ内履きを巾着袋に入れて片手に持った。
その瞬間、わたしは文化祭の日に部長が言っていた『アズマくん、卒業後は東京の大学に行くらしいよ』という言葉を思い出し、唐突に『もう先輩と会うことは無いんだ』という実感が湧き、ささっと左右を見渡して他の人の姿が無いことを確かめ、勇気を振り絞って本音を口にしはじめた。
「あのっ、アズマ先輩に、ずっと言いそびれてたことがあって……」
「……何?」
「入学式の日に先輩を一目見た時から、ずっと好きでした。東京へ行っても、先輩とは親しい間柄でいたいです。わがままかもしれませんけど……」
今度会ったらどうしよう。アレを伝えておこうか、コレも言っておこうか。
前日までの妄想シミュレーションでは饒舌だったわたしも、いざ本物の先輩を目の前にすると頭が真っ白になってしまい、言葉が見つからないまま、赤面していく顔を見せまいとうつむいてしまった。
「……なるほどね。言いたいことは何となくわかったよ。ちょっと、これ持っててくれる?」
言葉に詰まっていると察した先輩は、わたしに巾着袋を預けると、カバンの中から楽譜をとじたファイルを取り出し、中の紙を一枚引き抜いて裏面にペンで走り書きをした。
それから、ファイルとペンをカバンに戻したあと、詰襟の第二ボタンをぐっと引き千切り、ペンで書いた面を内側にして第二ボタンを粉薬のように五角形に包んだ。
「これ、渡しておくよ」
「わっ、うれしいです! ありがとうございます!」
「スコアの裏書きは、家に帰ってから一人の時間に見て」
「わかりました」
畳んだ紙と交換で巾着袋を受け取ると、アズマ先輩は少しはにかんだような笑顔で控えめに手を振りながら、桜の樹がそびえる正門の方へ歩いて行った。
憧れの先輩の第二ボタンをもらっちゃった。先輩の第二ボタンだ。これは先輩の制服の一部だったものなんだ。
ウキウキにルンルンを掛け合わせたくらいの多幸感に包まれながら帰宅すると、二階の自室で高級な宝飾品を扱うような慎重さをもって包みを開けた。
先に第二ボタンを箱型のオルゴールにしまってから、紙の内側に書かれた数字と文字の列を読み取った。
途端、わたしは思わず目を丸くし、声が出ないよう片手で口で覆った。
……何が書かれていたか?
下宿先の電話番号と進学先の大学名と、これからもホルン頑張ってという旨の応援メッセージ、そして、目立たないすみっこに添えられた「僕もツツイさんのことが好きです」という言葉だった。
部員間でのコミュニケーションがうまくいかなかったり、思ったような成果が得られずに落ち込むことがあるたびに、わたしは先輩から受け取ったこの紙を取り出して眺めたものだった。
この後、女が大学に行く必要なんかないという旧弊な父親の反対を押し切って先輩と同じ大学へ進んだわたしは、二年ぶりに再会した先輩と一年間お付き合いし、関係が更に進展するのだが、そのお話は長くなるので、また別の機会に。
比喩を使ってまとめれば、古都奈良の吉野で愛された桜が、江戸の染井村でソメイヨシノへと変化を遂げたのである、といったところかな。
どういう意味かは、勘の良い皆様なら察しがつくでしょう?