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自由の香りを求めて

『白、問題ありません。白、問題ありません。黒、問題ありません。青、問題ありません。迷彩……問題あり、社会風紀を乱します。特殊感染症法で定められた色のものを着用ください。グレー、問題ありません。白、問題ありません……』

 車輪と線路が擦り合う耳障りな金属音や車体が揺れる音を除けば、殆ど何の音も聞こえない列車。どこか冷え冷えとした車両の中に無機質なアナウンスが流れては、透明な防菌ビニールの仕切りで区切られた乗客たちのマスクの色を淡々と識別していく。社会風紀を乱す。そうケチを付けられたスーツ姿の若い男は不快感も露わに眉間に深い皺を寄せた。舌打ちはできない。何故なら今から数十年前に制定され、以降幾度も改定されてきた『特殊感染症法』により、乗客同士の不和を生み出すような行為は列車内で禁じられているからだ。

〈また注意されたね。そろそろ危ないんじゃない?笑〉

 迷彩柄マスクの男の視界に、タブレットの画面に並ぶ文字が見えた。打ったのは男の隣に立って目を細めている若い女だった。黒いスーツに身を包んだ女の鼻から下の表情は窺い知れないが、三日月のように細まったその目を見れば、彼女がにやにやと笑っているのは明らかだった。

〈うるせえよ〉

 憮然としながら男も慣れた手つきでタブレットに文字を打ち込み、ずいと見せつけた。女は笑い声も上げず、ただただ可笑しそうに目を狭めるだけだった。

『……続きまして国際情勢をお伝えします。大花連邦とアーミラント合衆国の首脳会談は不調に終わり、開戦の緊張が過去最高潮に達しています。世界秩序を蝕み続ける広域感染症に対する連邦と合衆国の主張は互いに平行線を辿っており、我が日峰政府もより一層状況を注視せざるを得ません。……杉原総理大臣は今朝の会見で……』

 脳髄に染み渡るほど聞き飽きたニュース。初老の総理大臣がしわがれた声でいつもと変わらない台詞を滔々と吐き出す。世界平和と誠に遺憾。その二つが彼の口癖だ。反骨的なマスクで顔を隠した男を含め、列車内の誰ひとりとして老人の薄い演説など聞いていなかった。ただひたすら目を閉じる者、イヤホンで音楽の世界に浸る者、タブレットに目を落とし続ける者。一人として声を出す者はいなかった。

『次は丸の新地。丸の新地。お出口は右側でございます。特殊感染症法に基づき、順序良くお降りください』

 感情の無い音声に導かれ、冷たい扉が開いた。乗客たちは一様に疲れた足取りで秩序正しく車両を後にする。響く無機質なアナウンス、寒々しく鳴り渡る人々の靴音。地下鉄のホームを足早に歩く者たちの姿は、まるで亡霊のように男の眼には映った。だが、そんな彼もまた抑圧された亡霊の一人に過ぎないのだ。それを自覚してか、男も周囲に歩調を合わせ、地上出口を目指した。


◇◇◇


 都心の一等地に聳える巨大企業のオフィスはひっそりと静まり返っていた。聞こえる音はパソコンのキーボードを打ち鳴らす音と、コピー機が稼働する機械音だけだった。オフィスには数十人の社員がおり、皆一様に眼前の画面に釘付けの状態だった。しかしそこに電話機は一台もない。他部署や他社とのやり取りは全て画面上で行っていた。初めての施行以来、幾度も幾度も改正され続けた特殊感染症法がついに社内での会話すらも禁じるようになってしまったからだ。

 迷彩柄のマスクを付けた男はちらりと部署の窓際の方に目をやった。きっちりとブラインドの閉められた大窓の前に営業部長が座っていた。営業一筋で鳴らしてきた部長は毎度のことながら、苛立ちを露わに自身の口元を覆う白いマスクの紐を摘まんでは離す行為を繰り返していた。何の意味も持たないその行動は、非常に短気な部長の永遠に治ることが無いであろう悪癖だった。若手の頃から営業に身を捧げ、顧客との直接的なやり取りに拘ってきた彼には、電話さえも満足に使用できない現状は腹立たしいもの以外の何でもなかったのだ。発散のしようがないその激憤は部長のマスクに常に向けられていた。何度も摘ままれたせいで彼のマスクの紐は毛羽立ってしまっていた。

〈部長がまたキレてる〉

 男は素早い手つきで入力し、メッセージを送る。すると、彼の隣のデスクに座っている肥満体の同僚がすぐに返信を飛ばした。

〈いつものことだろ。俺らを面と向かって怒鳴り散らせないから余計にストレス溜まってんだ〉

〈だったらそのままストレス溜まり続けて、ぽっくり逝ってくれねえかな〉

〈……お前、ログ見られたらやべーぞ。つーかそのマスクやめろ。そんなガラ物つけてるとろくなことにならん〉

 肥満体の同僚は非難がましい目付きで友人の派手なマスクをねめつけた。迷彩の男は大して気にした様子もなく、今度は他部署にいる彼女に向けてまたメッセージを打ち始めているところだった。


◇◇◇


「……うざい」

 出歩く者など一人も無く、不気味なほどに静寂に包まれた郊外の住宅地。暮れなずむ空を飛び交い眼下の家々を監視して回るドローンを見つめながら、女は一言吐き捨てた。そして彼女はベージュ色の遮光カーテンを乱暴に手繰り寄せて閉めた。

「まったく、まるでムショにぶちこまれてるみてえだな」

 ソファーに腰をかけ酒を呷っていた男が呟いた。彼の足元の屑籠には迷彩柄の使い捨てマスクが無造作に放り込まれていた。

「あ、酒が無くなった。予備あったっけ?」

「無いわよ。あんた飲むペース早いんだもん。また注文するしかないわね」

 もう買い物で外出することだって簡単じゃないんだから。そう漏らして女は男の向かい側に座った。そして机上のスナック菓子を掴み取り、ようやく口元のグレーのマスクを外した。ばり、ぼり、と、女がスナック菓子を噛み砕く音だけがリビングに染み渡った。二人の間に会話はなかなか生まれない。屋外で声を出して話し合う機会がほぼ無い為に、会話の無い静寂が癖になってしまっているのだ。そんな中、男の手は自然とテレビのリモコンに伸びた。

『先日の会談が決裂して以降、アーミラント合衆国のベイロン大統領は特殊感染症の起源は大花連邦の軍事研究にあるとの主張を再び強め、連邦のシャオ最高主席との間で非難の応酬を繰り返しています。これに関しラッサ連邦のペレチェフ大統領は、ベイロン氏は憶測で責任を追及して世界秩序を混乱させることは避けるべきで冷静な判断をすることが重要だ、とのコメントを発しています。東西の大国同士の争いに伴い各地でも紛争が頻発しており、中東地域では再び原理主義組織が版図を拡大しています。また、欧州の幾つかの国家では感染症拡大防止を目的として移民、難民排斥の兆候が高まっている模様です……』

 いつもと同じアナウンサーがいつもと同じ報道を繰り返していた。何の意味も希望も無い下らない報道だ。男は舌を打ち酒の空瓶に手を伸ばして、また苛立たし気に舌を鳴らした。そして中身のない綺麗事を垂れ流すテレビに向けて、リモコンを向けた。たちまち室内は静穏に包まれた。

「雨。降らないなあ」

 不意に女が呟いた一言に、男は眉をひそめた。

「雨の匂いが恋しい。もうずっと嗅いでいないもの」

 風呂入ってくる。女は急に立ち上がり、何事も無かったかのようにリビングを後にした。男はしばらくの間、交際相手の後ろ姿を眺め続け、そして透明な窓の向こうに目を向けた。空は色を変え始め、雲が緩やかに流れていた。


◇◇◇


 その日も金属の箱舟はがたがたと揺れていた。物言わぬ労働者たちはその中で操り人形のように揺らめいていた。マスクの色を検閲する車内アナウンスに余計な小言を言われないよう、いつもと同じグレーのマスクを付けた女は、左手首にはめた腕時計に目を落とした。そろそろ降りる時間だ。彼女が溜息を漏らすや否や、列車は首都の中心駅に滑り込んだ。

『丸の新地。丸の新地に到着でございます。お出口は右側です。特殊感染症法に基づき……』

 足を踏み出そうとした彼女の腕を、隣に立っていた男が強く掴んだ。女は驚いて男の顔を見上げた。懲りもせず迷彩柄のマスクを付けた男の目に宿る光は、何故かいつもより強かった。女はただただ男の顔を見つめ、列車はそのまま駅を通り過ぎていった。


◇◇◇


 腕時計の針は午前11時を指し示していた。顔を上げた女の目の前には、一面の田畑とあちこちに点在する小山のような雑木林が映っていた。降り立った駅舎はちんまりとしていて、駅員も見当たらなかった。駅前にはコンビニが無く、その代わりにどこか郷愁を起こさせる古びた商店があるくらいだった。

〈……ちょっと、どこよここ〉

 女は信じられないといった目をして男にタブレットを押し付けた。

〈知らねえ。でもいいとこじゃん〉

 男はそれだけ返すと、すたすたと歩き出してしまう。女はタブレットをバッグに仕舞い込み、慌てて男の後を追った。道路は一応アスファルトで舗装されていたが、駅前の本道からひょろひょろと伸びる間道は砂利が敷き詰められているだけだ。人影はほとんど無く、たまに田畑で農作業をしている老人を見かけるくらい。二人が歩く町は不思議と心地の良い静寂に包まれていた。そこは時間の流れが穏やかで、ただ歩いているだけで心が落ち着いてくるような場所だった。

 田舎町を飲み込む空気は額がじわりと汗ばむくらい暑かったが、空は明るい灰色の雲に覆われ、眩い太陽と青空は見えなかった。そんな曇天でも女はいつもより気持ちが晴れやかであることに気が付いていた。仕事を放棄している状態なのに何故こんな気持ちになるのか、女はよく分からなかった。マスクの色にまでケチを付ける車内アナウンスが無いからか。住民を監視する行政のドローンが無いからなのか。それとも誰しもが特殊感染症を警戒し苛々を溜め込んでいる、あの嫌な雰囲気がこの町には無いからか。それら全てが答えであり、またそれ以上の何かが答えでもあるような、そんな気がした。

〈腹減ったな。ここで食べていこうぜ〉

 考え事に耽っていた女の眼前に男のタブレットが突き出される。女も頷き、二人は坂道の途中にひっそりと佇む小さな食堂の引き戸を開けた。扉の向こうには薄明るい空間が広がっていて、老齢の店主夫婦が客席のひとつに向かい合って座り、ラジオに耳を傾けていた。客はいない。木製のテーブルと椅子たちは見るからに年代物で、小さな食事処が歩んできた歴史を静かに物語っていた。

「あら、いらっしゃい」

 店の女将の方が二人の来店に気付き、椅子から立ち上がった。タブレットに文字を打ち込もうとしていた女は思わず面食らった。今や都心の飲食店では従業員も声を出さず、やり取りはタブレットを介して行うのが当然になっていたからだ。

「どうぞ、どうぞ。好きなお席に座ってくださいな」

 女将に勧められるまま二人は壁際のテーブル席に座った。所々に薄い染みの付いた白い壁には、手書きでメニューが書かれた短冊が所狭しに貼られている。女はずらりと並んだ短冊をしばし眺め、注文をする為に再びタブレットに目を落とした。

「こらこら、ここではそんなもの使わなくていいわよ。だーれも気にしやしないんだから」

 注文用のメモ帳を持って戻ってきた女将が苦笑する。女は一瞬、逡巡したが、女将の顔をちらりと上目で見た。

「……天津飯をお願いします」

「はい、天津飯ね。お兄さんは何にします?」

「僕は炒飯をください」

 二人の注文を聞き終えた女将は、ゆっくりとした足取りで厨房へ戻っていく。そしてカウンターの向こうの調理場から店主が火にかけた鍋へ油を敷く音が聞こえ始めた。

「良い店だな」

 いつの間にかマスクを外した男が笑みを浮かべながら呟いた。女の頭には男に対する文句が色々と浮かんできたものの、それらを口にしようと整理している間に……何だか全てがどうでもよくなってしまった。

「……そうね」

 結局、出てきたのはその一言だけ。後は何も言わないまま、女は調理場から奏でられる心地よい音にその身を浸し続けた。


◇◇◇


 空腹を満たした二人は雑木林に囲まれた緩やかな山道を登っていた。既に正午を過ぎ、気温はじりじりと上がっていく。地面が踏み締められた硬い赤土の道から、細かい砂利道に変わる頃、二人の視界に小さな東屋とその右横にひっそりと建つ祠が飛び込んできた。東屋の裏は小高い丘になっていて、左の脇道から上がれるようだ。どうやら裏手の丘が山頂らしかった。

 その時、灰白色の雲の隙間からぽつりと水滴が落ちた。初めは散発的だった雫は、数分も立たないうちに無数の霧雨となって、名もなき小山に降り注いだ。男は折り畳みの傘を取り出し、無言で女をその下に抱き寄せた。大股の男に合わせるようにして、女も小刻みに足を動かした。脇道を登り、二人は猫の額のような山頂に立った。古びた木の杭としなるロープの下に広がる緩やかな崖は、やがて山腹の森に、そしてその下を流れる小川のせせらぎに、鮮やかな緑色に染まる田畑へと繋がっていく。鳥たちは雨を避けるように木々の下に隠れ、響き渡るは霧雨が大地に吸い込まれる音のみ。

「変な匂い」

 女は呟いた。グレーのマスクは腰のポケットの中へグシャグシャに詰め込まれていた。

「でも好きな匂いなんだろ」

 遠くを見つめて笑う男の肩に女は頭を預けた。二、三度、鼻を啜るような音がして。そして霧雨が奏でる静かな歌に全て吸い込まれていった。


◇◇◇


 地下鉄は耳障りな金属音を断続的に立てながら、左に右に揺れ動く。今日も人々は物言わず、淡い光を発する画面を食い入るように見続ける。文字を打ち込む指は忙しなく、眠たげに充血した目は異様に開ききっている。誰もかれも素顔は見えない。鼻から上だけが露出し、ぐるぐると瞳だけが動き回っている。


『……――線をご利用のお客様。おはようございます。本日も特殊感染症法に基づき、秩序だった一日を送りましょう。マスクは必ず法で指定された色のものをご着用ください。……白、問題ありません。白、問題ありません。黒、問題ありません。青、問題ありません。白、問題ありません。白、問題ありません。白、問題ありません。青、問題……』


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