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夢と朝

 ただ冷たい体をあたためたい。

 

 私は予知夢などみたことはない。適当に現実的な女だから。霊感、予知能力一切関係のないところで生きている。

 けれど、忘れられない夢が一つだけある。 

 可哀相な女の身の上話に触れるたびにそれをまざまざと思い出す。わかるなあと実感しつつ、石のように固まる。 

 あれは自分の身に起こることだったのだろうか。 

 いや決して予知夢ではない。ないのだけれど、リアルだった。脳裏に感触までが蘇る。

 砂を噛むような苦い光景。己を支配しつくす冷酷な憎悪と凄まじい喪失感。 

 単に夢だと普段は忘れているが、ことある毎に蘇っては、私の生き方を戒めるものかもしれない。



 その男とはふるさと展だかの催しをしている体育館のような場所で落ち合った。爬虫類のように精気のない顔をした冴えない男。服の下からは間違いなく冷たい皮膚が現れるだろう。 

 目印を探して声をかけると、一瞬目を見張るようにしてこちらを見た。 

「行きましょう」 

「はい」 

 探るようにこちらを見ている。わかっている。向こうにしてみれば意外だったのだろう。

 だが今日びどんなに取り繕った女でも裏では何をしているかわからない。行きずりのキブアンドテイクに詮索など不要であるから、互いに自然に振る舞う。

 相対して改めて目を上げると、男の目はあきらかにこちらの容姿に満足したことを物語っていた。冷酷な気持ちを隠してそれを確認すると、細心の注意を払ってたおやかに相手の服に手をかける。

 冷たい体をあたためたい。ただそれだけの欲求を満たすために。


 商売女がどうしているかは知らない。ただ自分のやり方で男は必ず上り詰める。何故だろう、訳もなくその自信だけはあった。 

 やはり冷たい体だった。一物を口にくわえ込む。夢中になる。誰だかわからなくなる。  

 終わった時に私の目から感情のない涙がひとしずく流れた。 

 無論男が気付くはずもない。それどころかすぐさまばつが悪そうに尋ねてきた。 

「本当に、あの条件でいいんだな?」 

「ええ。本当ですよ。私はこうして奉仕をさせてくださればそれでいいんです。お代なんて」 

「わかった。では失礼するよ」  

 うまい話には気をつけろとばかりに警戒心を垣間見せていた男は、女の気が変わらないうちに立ち去ろうと逃げるように出ていった。その姿を眺めていると、内心ニヤリとほくそ笑む男の心の内が見えた。 

 ――儲かった。上物にただで奉仕させたぞ。清楚な女があんなに俺を……うう、興奮したな。仲間に自慢してやろう。だけど、あの条件といい、落ち着き払った雰囲気といい…… 

 ――ちょっと気味悪い女だったな。

 それぐらいのことは感じとったか。やはり下司な男だ、わかりきったことだけれどと侮蔑しながらも、その男の物を貪り行為を全うした満足感のほうがはるかに勝っていた。

 じんわりと充実した歓びをかみしめる。静物のように冷え切った男の体が熱を帯びていくさまを今一度思い浮かべて心底満足する。

 まるで羊が草を食むように、これだけは続けていかねばならない。このとてつもなく強い欲求に己の全てが支えられているかのようだった。

 すぐまた次の獲物を探さなくては。評判になってはやっかいだからこのアドレスはもう使えない。噂にならない程度に、いつまで、いやいつまでも続けていかなければ。


 いろんな男がいた。やはりただと言うと逆に怖くなるのか、はした金を無理にも握らせる男もいた。奉仕だけでは飽き足らない貪欲な男には素直に従った。

 だが危険な目にあうまでもなかった。例えば制限時間をきっちり守らせて最低限の安全を確保したのだろうか、そのあたりの記憶は曖昧であり、後づけの憶測であった。 

 ただ男が中に入ってきた感触はある。それは仕方がない。 

 だけどそれだけは言ってはいけない気がした。……誰に? こういう身に落ちたことも。……どうして?  

 決してわかっていないのではない。ただ、今は考えられない。

 それよりこうした密会の機会が途切れてしまった時期が一番いけない。

 遠い彼方から何かがやってくるような感覚が目の前に降りたかと思うと、激情にかられて叫び出していた。怒りと悲しみがないまぜになって体じゅうを駆け巡る。誰もいない六畳間で独り、ふと我に返るまで耐えているのが辛かった。

 そうでなければ、ぼうっとしていて気がつくと声もなく涙が流れている。そんな夕暮れが嫌だった。

 あんな恐ろしさには耐えられない。だから、だから今日も明日もそのあとも、冷たい体を見つけ出して、あたためなければ。この涙のわけを知るのは出来うる限り後回しにしたい。 

 

 けれど、無情にもやがては涙の理由に行きついてしまう。はたからどう見えようと、どんなに後ろ暗いことをしていようと、私は狂ってはいなかった。

 閉ざした記憶の底から細く小さくあの声が蘇える。初めは弱く、やがてはっきりと。 

「僕といると危険だよ」 

 耳元でささやく湿り気のあるよい声。ハスキーヴォイス。 

 冷たい彼の体……そうだ、私、彼を温めたかったんだ。 

 だめだ、もういけない。途端に自分のことが殺したいほど憎い。 

 間に合わなかった。いつものように彼の冷えた体を温められればよかったのに。冷えていく体が更に硬くなるまで私は何をしていたというのか。

 記憶を掘り起こす作業はそこで止まった。定かではないが彼は永遠に冷たくなったのだった。

 

 とにかく世の中の全てが憎い。何よりも、愚かな自分自身が、幸せな恋人たちが憎い。後悔と悲嘆で押しつぶされてしまう恐怖は、決して生半可な自虐などではなかった。 

 あなたほどの男に愛された誇りは変わらない。

 でもあなたがいないのだから、だから誇り高いまま、ただただ汚れて堕ちていく。

 薄汚れたくだらない男など喰い散らかしてしまえばいい。くびり殺したって構わないのだが、いまや彼らは冷たい体をあたためたいという歪んだ欲求を満たしてくれる道具でもあった。 

 私は黒々と増大していくまがまがしいものに我が身を突き動かされながら、ただひたすら、冷たくひえた体を欲してさまようしかなかった。

 




 何故、あんな夢をみたのだろう。

 今、彼は私の隣で健やかな寝顔を見せている。愛しい体のその体温と鼓動を確認する。

「温かい。よかった」

 心からの安堵とはこういうことを言うのだろう。彼は死んでなどいない。ちゃんと生きているのだ。

 生身の温かさにたまらなく愛しさがこみ上げてきて、そっと首筋に唇を這わせる。目覚めたときの冷たい涙が嬉し涙に変わった。仰向けになってしばらく涙が耳へと流れるままにしていると、彼が甘い吐息とともに寝返りを打って腕を絡ませてきた。

 いけない、いま起こして顔を見られたら変に心配させてしまう。

 私はもう一度口づけをすると、弛緩した彼の腕をそっとほどいて身を起こした。

 それにしても、目覚めてからいくらも時が経過しているというのに、現実と見紛うほどの鮮明さはどうだ。彼の死骸の冷たさと固さがそのまま私の手の中に残っている。同時にあのあらがいようもない孤独感が蘇る。そして幾多の見知らぬ男たちの、ざらっとした爬虫類のような冷たい肌。

 どうして私があんな夢を? まさか出会い系のような真似を何故? 

 小さい頃から今に至るまで、どちらかと言えば真面目で、告白やお付き合いの経験はあっても、男遊びなど考えられない自分である。ましてや何をしても「汚れる」という感覚は一切なかった。

 ただ、思い返すと夢の中の憔悴しきった女は、私よりも少し年齢が上のような気もした。


 とにかく彼には言えない。言えば悲しむだろう。たかが夢ではあるが、何より彼がいなくなる夢をみた事実がショックだった。

 それに「あたためる」は二人の秘め事の暗号でもあったのだ。

 もうすっかり癒えてしまった傷だけれど、彼はバイクで転倒し、肩の骨と利き腕の右肘を折ったことがある。

 身動きのとれない彼は、私を抱くことができなかった。しきりに情けながる彼をあやすようにして、私は彼にそうしたのだった。

 寒い日だった。痛み止めが変に効きすぎたのか、彼の体は冷えきっていた。ギプスで動きを封じられた彼は、まな板の鯉よろしくされるままになった。あんなに顔色の悪かった彼が温まり、頬が上気していく。額にうっすらと汗が滲むまでになった。

 息づかいが高まって唸り声を漏らすと彼は果てた。

 唇への摩擦と彼の喘ぎがあまりにも官能的で私の底も締まり濡れた。そのことを照れながら告げてみると、またにわかにすまながる。ごめんごめん自分は駄目だと落ち込む。告げたのは女としての精一杯の媚態だというのに、通じはしなかった。

「違う違う。私も感じたの。わかった?」

 ようやく安堵したのかすぐに寝息をたて始めた。傷の痛みと休んでいる間の仕事のやりくりで、ここのところずっと眠れていなかったのではないか。毛量の多い長い睫毛が美しい。マスカラをつけても私の方が完全に負けている。口角の上がったぷりっとした唇。無防備な寝顔はくやしいほど愛らしくて見惚れた。

 私は療養中この「あたため」を睡眠薬がわりに何度か試みた。骨にひびかないよう抱擁してから唇を寄せる。自分に委ねてくれる彼がたまらなく愛しい。

 いつか読んだ阿部定の予審調書を思い出したが、彼女の心情とは全く違う。

 自分のものにしたいとかわいさあまって殺してしまう気持ちはわからない。いつも体は癒えてほしい。痛むところに手をあてる。照れて微笑み合う。それは二人だけの秘め事だった。


 私達の出会いは二年ほど前に遡る。春に出会って夏にもう二度と会わないと思った。

 初めの半年は特に互いの探り合いとすれ違いに傷つき、力尽きるかと思うほどだった。

 私にとって彼は自分のことは一切話そうとしない難攻不落の高い城だった。私はかなり気に障ることを言ったらしい。ひ弱な私がどうしてあそこまで食い下がったのだろう。私自身、彼から思いも寄らない誤解を受けるたびに、歯を食いしばって耐えた。しかし、彼にしてみれば不躾に生い立ちから友人関係まで立ち入ってくる女は許しがたかったに違いない。 

 女心が皆目通じず、気を引くための小さな意地悪もわからない彼と、一見おとなしいけれど頑固なところがある私とでは、ほんの些細な(いさか)いが辛くて大きな亀裂の発端となることもあった。

 夏。疲れてもう会わないと電話で告げて外に出、歩道のある並木通りに出た時、強い風が全身をざあっと透過していくような感覚に襲われた。彼を失う脱力感と寂しさを思い知ってその場にしゃがみこんでしまった。 

 どうしようもなく彼を必要としていたのは、私だった。  

 心優しい彼は、どこへ行ってもいろんな人から人に言えないような相談を持ちかけられる頼もしい人だった。幼い頃からの武道の経験から培っただけではない生来の性質と、紆余曲折がそうさせたのだろうか、目上の人には礼節をわきまえ、年下には尊重を持って、誰とでも親しみ深く接していた。冗談も繰り出し輪の中心でわっと盛り上げることも上手だが、一歩引いていつの間にか裏方にまわる謙虚さも身に付いていた。仕事もプライベートも集中力と行動力でこなす。人気があるのも当然である。 

 けれど私には、そんな彼自身がまるで生き急いでいるように危なっかしく見えた。

 冴え渡る思考回路で逆説を唱える時はことごとく言い当てていたし、ぎらつくような野望を語ることもあった。が、どうかするととてつもない淋しみを抱えた表情を見た気がする。 

 夕刻、窓の外を眺める彼の後ろ姿は孤独そのものだった。 

「ねえ、どうしてそんなに淋しそうなの?」 

 私は彼の傷に触れてしまった。猛禽類のごとく誇り高い彼の怒りの表情を見た時、怖さのあまり逃げ出してしまった。そんな私に彼は言った。 

「君はそうやってまた別の誰かを好きになるんだろう。だけど僕はもう何度もこんな真似はできない。本当に嫌だ。心から出会ったことを後悔するよ」

 多感な中学時代に起こった親友の事故死。昔飼っていた猫達の話。きっと愚かなことを繰り返しては彼を傷つけていたのだろう。

 そんな私を叱責してくれたのが片瀬さんだった。

 

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