急展開
よく晴れた日の午後。
白い指先が荒い手触りの紙面をなぞる。
居間のソファに深く座ったクローディアは、父や兄が読み終わった後に新聞を読むことを最近の日課にしていた。
昨今社会への女性の台頭が目立ってきてはいたが、貴族女性が下手に世界情勢やゴシップなどに詳しくなるものではない、という旧態依然の風潮はウェーデル国の中にもまだ根強く残っている。けれど彼女は自身の知識を増やす第一歩としてまず新聞を読むことにした。
知っていて黙っているのと、全く知らずに何も言えないのとでは意味が違うだろう、と積極的に知識を取り入れることにしていた。
読んでみれば新聞も面白く、それまで小説や歴史書などしか読んだことのなかった彼女はすぐに習慣化してしまった。最初はどうなることかと心配していた父や兄も、最近は新聞の内容について質問してくる彼女に応えるのが楽しいらしく、購読する紙面を増やしたほどだ。
ダニエルには、あの仮面舞踏会の後日、正式に婚約をしない旨を伝えた。
気をもたせるようなことをしてしまったと謝罪するクローディアに対して、形ばかりに残念がってくれてはいたが彼の方も妻にはクローディアのような生粋のお嬢様よりも、自分と同じように商会を切り盛りしてくれるパートナーを望んでいたようで、円満に話が済んだのは幸いだった。
けれど、
「自分の家としてはそういう妻に来てもらうのが一番だとは分かっているのですが、クローディア様がもし当家に入ってくれるのでしたら何一つ不自由をさせない覚悟はありました」
話が終わってから、ダニエルを玄関まで見送りに出た時、彼はぽつりとそう零した。
「ダニエル様…」
「あなたは自分は何も出来ないからこの結婚には向かない、と言ったが、俺はそうは思いません。あなたが家で待っていてくれるなら、仕事を頑張ろうと思う結婚の形もあったと思いますよ」
そんな風に言ってもらえるのは正直嬉しかったが、彼女はどうしていいかわからず戸惑った。すると彼はまた、太陽のように快活に笑う。
「申し訳ない、これでは未練がましいですね。……あなたと出掛けるのはとても楽しかったです、クローディア様。これからは友人として、商会の方にもいらしてください、友達割引しますから」
手を差し出されて、今は握手を求められているのだと分かってクローディアは微笑んだ。彼の大きな掌は温かく柔らかい、彼女の小さな掌をすっぽりと包んでしまう。彼の人柄そのものようだった。
「はい。是非伺わせていただきます」
それでも、こんなにも好ましく思う人の掌でも"違う"と感じてしまう自分に、クローディアはもう気付いていた。
あの夜触れた掌だけが、彼女の心にかちりとはまるのだ。
「あら?」
紙面を辿っていた指先が止まる。
すぐ傍で茶の支度をしていたメアリが、その声を聞きとがめて主の方を向いた。
「お嬢様?どうかなさいましたか」
「メアリ……これってどういうことかしら」
それぞれ違う新聞社の紙面に、同じ話題が大きく取り上げられて載っていた。
内容は財務大臣であるブロワ侯爵の汚職。国庫の横領、そして侯爵令嬢を使っての国の乗っ取り計画。
ブロワ侯爵、アンドリュー・ロワーズ卿は数年前から財務大臣の立場を利用し、国庫への税収を横領、そこで得た資金を隣国への貿易に使用し利益を得ていた。
それと同時に一人娘のレイチェル・ロワーズを第二王子・ルード殿下に近づかせ薬を使って篭絡、王太子を亡き者にして第二王子を王位に就かせ傀儡として操ろうと画策していたというのだ。
現王もまだ引退するには若く、長期計画でしばらくは私腹を肥やすつもりだったブロワ侯爵だが、王太子妃が懐妊したことで焦って計画の時期を早めることにする。
その結果、計画に綻びが生じ明るみに出ることとなったらしい。
ブロワ侯爵以下計画に加担していた主だったメンバーは昨夜未明、侯爵邸に突入した警備局により捕縛・投獄されたが、レイチェル・ロワーズと数名の従者は追手を振り切って逃亡、現在も捜索が続いている。云々。
「どういうことかしら…ブロワ侯爵令嬢ってあのレイチェル様のことよね、カルロが恋をしているっていう…」
随分とセンセーショナルな見出しに、そわそわと立ち上がるクローディアの顔色は悪い。驚いた所為で血の気が引いているようだ。
「ちょっと失礼しますわね、お嬢様」
メアリは茶器を置き、クローディアの手から新聞を受け取って素早く紙面を読み込んでいく。彼女は実は子爵令嬢であり、実家が没落寸前なので遠縁のグリューデル家でメイドをしているが教養は高い。
不安そうにメアリを見つめるクローディアの肩を、コルデーが素早く抱きソファに座るように促す。メアリの後を引き継いで紅茶を淹れると、そのカップをクローディアに両手で持たせた。
「大丈夫ですわ、お嬢様。旦那様達も何も言っておられませんでしたし、何か危険なことがあるわけでは……」
「でもカルロは?カルロは大丈夫なのかしら、コルデー」
「ん~カルロ様は殺しても死なないタイプなので大丈夫だと思いますけど」
うふふ、と笑うコルデーはまだカルロを許していない。
「コルデー、旦那様…はもうご出仕なされているから、ケインさんに今日のお嬢様のお出掛けの件確認してきて」
ほんの少しクローディアが表情を緩ませたところに、メアリの冷静な声がかかる。コルデーは半ば抱えるように抱きしめていたクローディアから腕を解きつつ眉を顰めた。
「お嬢様の外出がその件に関わりがあるの?」
「あるかもしれないし、ないかもしれないわ。私では判断がつかないから、執事のケインさんに聞いてきて欲しいの」
「わかったわ。お嬢様、お茶冷めない内に召し上がってくださいね。何も心配なさる必要はありませんわ」
ぎゅ、と一度クローディアの手を励ますように握ってから、コルデーは一礼して執事の元へと向かった。クローディアは落ち着く為にゆっくりと、紅茶を飲む。