仮面と夜
「さ、行きましょうか」
ダニエルに手を差し伸べられて、クローディアはそっと手を重ねた。
多くの燭台に火が灯り、人の僅かな動きに揺らめく。夜空は雲一つなく晴れていたが、星は見えなかった。
空が高く、彼女は広い空間に一人でいるような孤独を感じる。
今夜の夜会は仮面舞踏会だった。
グリューデル伯爵家は貴族として大きな力を持っているわけではないが代々優秀な政治家や騎士を輩出していて、歴史が古く伝統的かつ模範的なウェーデル貴族の一族だ。
それゆえに、こういった少しハメをはずすタイプの夜会への招待状は家には届かない。今夜の夜会へはダニエルの方から誘ってくれたもので、ごく普通の夜会にしか出席したことのないクローディアは非常に緊張していた。
「大丈夫ですか、クローディア嬢」
「……ええ、仮面が少し……視界が狭いので戸惑って」
そっと目元を覆う仮面に触れて、クローディアは眉を寄せた。
新しい婚約に対して前向きに行動していこう、と決めたクローディアはこの仮面舞踏会にも自分から行ってみたいと、冗談半分で招待状を持ってきたダニエルに応えたのだ。
「慣れるまでは踊るのはやめておきましょうか」
「そうしてくださると助かります」
恐縮してクローディアが縮こまると、ダニエルは快活に笑った。
「俺はダンスは苦手なので、こちらの方こそ助かりますよ」
その言葉にほっとして、クローディアは彼にエスコートされるままにゆっくりと会場を歩いた。
誰もかれもが入口で配られた同じ仮面をつけているので、身分などが分かり難くなっている。それも会の趣旨のひとつなのだろう。
普段は出会わないような人と、出会う為の。
給仕から果実のジュースのグラスを受け取ってクローディアは一息ついた。
ダニエルは知り合いがいたらしく、少し離れたところで数名の男女と話している。最初は彼女も紹介され輪の中にいたのだが、商会の話になっていくにつれて付いていけなくなってしまったので近くで休憩することにしたのだ。
賑やかな場所で一人になるとすぐにカルロのことを考えてしまう。
夜会に行く時はいつもカルロが一緒だった所為だろうか?けれどここ一カ月で彼女はたくさんの夜会に出席し、カルロと二人で赴いた回数よりも彼以外の誰かと出掛けた回数の方が多いようにも思う。
彼は夜会に行ってもちっともクローディアを一人にはしなかった。彼女が数少ない親しい令嬢達と話す時は少しだけ距離を取り見守っていたし、自分の同僚や知り合いに声を掛けられた時は手短に挨拶程度の会話で済ませて、クローディアを放って会話する、ということがなかった。
思い返せば夜会のマナーとしてはギリギリだし、驚くほどの過保護ぶりだ。それに気付かずにいた自分もかなり恥ずかしい。
ダニエルもとても丁寧にエスコートしてくれているが、やはり夜会というのは重要な社交の場。商会という仕事に関係することならば、こんな風にクローディア最優先ではないことの方が当然と言えた。
恐らくこれが普通のことなのだろう。
こういう時の身の置きどころなどにも慣れていかなくてはならないのだろうな、と考え彼女は窓の外に目をやった。
美しく整えられた庭が見え、そこここで楽しそうに談笑する男女が見える。
中には仮面を取って話している人もいて、先程から邪魔に感じていたそれを自分も取ってしまいたくなったがぐっと我慢をした。
後で、髪飾りなどに引っ掛けずに自分で再び仮面を着ける自信がない。
仕方なくそのまま窓辺に佇んで、クローディアはぼんやりと物思いにふけった。
ざわざわとした人々の喧騒だけがうねりのように耳に届く。
新しいことにも挑戦していきたいし、知らなかったことを知っていこうと思えるようになったのは、自分の中でよい変化だとクローディアは感じていた。
屋敷に引き籠り、婚約者の訪れを待っているよりもこちらの方がいいのではないだろうか。
まだ夜会は苦手だが、少しずつ顔見知りも増えたし、この前はその縁で知り合った令嬢に茶会に招かれた。
当然母は上機嫌だし、母の機嫌がいいと屋敷全体の雰囲気もどこか楽し気なものになる。
皆にとって、良いことと、言えるのでは、ないだろうか。
唐突に目頭が熱くなって、彼女は慌てた。
誰に何をされたわけでもないのに、こんなに人の多いところで泣くことは出来ない。辺りを見回し、カーテンで仕切られた箇所に長椅子が置いてあるのを見つけてそこへ飛び込む。
おそらく休憩目的で設けられたのだろう、小さな部屋のように区切られたそこには幸い誰もおらず、布一枚を隔てて会場の賑やかな気配は伝わるものの明確に分けられた雰囲気がありホッと息をついた。
安心すると、ほろりと熱い涙がこぼれる。
「……ぅぅ…」
情けない。
どれほど自分が大切に甘やかされていたかを思い知り、それから自分がそこそこ上手に出来ているのではないか、と慰めてみたものの、やはり、寂しく心細いのだ。
知らない人ばかりの場所、ダニエルだけが頼りだけれど彼は今仕事の話をしているので邪魔はしたくない。だったら自分も誰かと話していればいいものの、誰が誰なのか分からなくてそれも出来ない。
仮面が一層、クローディアを他者と隔てていた。
何の心配も不安も抱かなかった頃が恋しい。あの掌が、恋しい。
簡単にカルロの手を離したのは自分なのに、今、ここに彼にいて欲しいと思う己のなんて弱く浅ましいことか。
翡翠色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれる。後から後から零れ落ちていく涙を止めることが出来ずに呆然と泣くクローディアの肩に、そっと温かく堅い掌が触れた。
「ディア」
耳に馴染んだ、低くて甘い声。弾かれたように顔を上げた彼女の目に、心配そうな金の瞳が見えた。
「カルロ。どうして」
「庭から、ここでディアが泣いてるのが見えた」
言いながら、カーテンの小部屋に入ってきたカルロは窓側のカーテンを引いて一層その場を隔てると、クローディアを優しく抱きしめた。
「ダメよ、カルロ」
「大丈夫。皆誰が誰かなんて分からないよ、仮面の所為で」
ハッとして、彼女は涙で濡れた瞳でカルロを見上げた。あまりにも馴染んだ相手だったので気にならなかったが、当然カルロも皆と同じ仮面を着けている。
クローディアが両手を伸ばすと、すぐに察した彼が少し屈んでくれたので確かめるように掌で頬の稜線を辿る。
「カルロ」
「うん。どした?」
「……カルロぉ…」
「大丈夫。ディアには俺がついてる。一人じゃないよ」
どうしてわかるの。
声にならなくて小さくしゃくりあげると、彼は優しく笑った。
「分かるよ。俺の大切なディア、君のことなら」
「…そ、やって、カルロ、が甘やかすから…私、なんにも出来ない子になっちゃうわ」
「いいな、それ」
くすん、と息をつくと、カルロはポケットチーフでクローディアの目じりをそっと拭う。彼女が刺繍をしたものだ。
「よくない」
「……ディアは何も出来ない子じゃないよ。頑張ってるの、知ってるから」
彼の指先がクローディアの頬に触れ、その慣れた感触に彼女は目を閉じて感じ入る。
涙が止まり、安心したように自分の腕の中で体を弛緩させる彼女を見て、カルロの中に強烈な思いが溢れた。
一人ぼっちの、カルロのお姫様。自分が傍にいたら、彼女にはこんな思いはさせないのに。
「もう少しだけ、待ってて欲しい」
「カルロ?」
「………なぁ、ディア。キスしていい?」
「?」
先の言葉には触れず、いつものようにキスを強請るカルロに不思議そうにクローディアは首を傾げたが、カルロの登場で安心したことと泣いた所為で思考がぼんやりとしていた彼女にはあまり気にならなかった。
「いいよ」
二人の間でキス、といえば頬や額にする家族に対してするようなそれを指す。だから深く考えず無防備に瞼を閉じた。
ところが、
柔らかく降ってきたキスは、頬でも額でもなく彼女の唇にそっと触れて、離れていった。
星の瞬きのように、ひそやかに。
けれど確かな温かさと、欲を伴って。
「……カルロ?」
驚いて目を開いたクローディアの傍には、もう誰もいなかった。