求婚者
「手をどうぞ」
馬車から降りる際、そう言われてクローディアは戸惑った。
御者や従者の手を借りることはよくあるし、勿論エスコートしてくれる父や兄の腕を取ることにも慣れている。けれど、パートナーとしてまだ出会ったばかりの異性の手に触れることは、何故か少しだけ躊躇われた。
婚約者探しを親に任せた結果。最近急成長している男爵家の跡取り息子を紹介された。
ハクウス男爵令息、ダニエル・ロウ卿。男爵家は商会も経営していて、政治にはあまり関わりはないが貿易に通じているらしい。
クローディアの実家、グリューデル伯爵家は代々政治家を輩出してきた一家で、父も跡取りである兄のアランも王城で役職を賜っている。そう考えれば、末娘の嫁ぎ先としては政治とは関係が薄い方がバランスも取れていると言えた。ダニエルは薄い金髪に濃い茶色の瞳の、華やかな風貌の青年だが普段は社交界で過ごすよりも実家の商会を切り盛りしている方が楽しいらしい。
顔合わせを済ませた後、何度か付き添いを交えてお茶をしたり昼間に出掛けたりと逢瀬を重ね、今夜は初めて二人で夜会に来ていた。
「ありがとうございます」
手を借りてクローディアは馬車を降り、彼に微笑みかける。今日は濃紺の首元まで共布で作られたシンプルなドレスを着ていた。襟元と袖、裾には同じ大判のレースがあしらわれ、スカート部分にはたっぷりとドレープがとられている。飾りが少なく、アクセサリーも真珠の耳飾りのみなので、随分とシンプルな装いだ。
けれど瑞々しい若さとクローディア自身の少女から大人の女性へと成長する過渡期のどこか艶めいた美しさのおかげで、そのシンプルさが洗練されているように人々の目には映った。
「今日も美しいですね、クローディア嬢。こんな綺麗な方をエスコート出来るなんて、とても光栄です」
「ありがとうございます…」
クローディアは顔を赤くする。
カルロはしょっちゅう彼女を綺麗だ、可愛い、と言っていたが口調は軽く昔からのことなのでちっとも気にしていなかったが、他人からこんな風に褒められるとお世辞だと言い聞かせていても照れてしまう。
こういうものを積み重ねていって、恋になるのだろうか?
それとも、恋になる前に結婚をして、愛から始まるのだろうか。
クローディアはカルロと離れてから、初めて知ったことがたくさんあった。社交界は綺麗で面倒くさいだけではなく、水面下では様々な人達がそれぞれの思惑に従って駆け引きをしている。政治や貿易、貴族間での優位性、勿論恋の駆け引きも。それらの一端を目にする度に驚いたり、納得したり。
彼女は自分がどれほど社交界から引き籠り、カルロという安泰の隠れ蓑の上で胡坐を掻いていたのかを思い知った。
そして、彼女は自分が恋を知らないことも、知った。
母のアデルは、貴族令嬢は婚約者に恋をすればいいのだと言うし、親しいメイド達は恋と結婚は違うと言う。クローディアはカルロのことは好きだけれど、この気持ちは恋ではないと思っている。
ならば、ダニエルに対していつか恋をするのだろうか。あるいは、別の誰かに?
出来れば母の言うように婚約者に恋をして、結婚したい。けれど人の心がままならないことは、クローディアはカルロに教えられた。
今後、ダニエルと婚約をした後に、別の誰かに恋をしてしまう時がくるかもしれないことが怖かった。
「…ダニエル様」
そっとクローディアは彼を見上げる。
会場から届くまばゆい光が逆光になって、少し薄暗い廊下に佇む彼女の瞳はとろりと輝いていた。
それを見てダニエルはぎゅ、と唇を噛みしめる。貞淑さを体現したかのようなドレスを身に纏っているというのに、クローディアはあまりにも彼の心と目を惹いた。
「クローディア嬢?緊張なさってるんですか、大丈夫ですよ」
内心の劣情を押し殺して安心させるようにして微笑むと、エスコートする手に少しだけ力を籠める。
「…はい、頼りにしています」
出来ることなら、彼に恋をしたい。
そんなことを思う時点で、彼に恋心を抱いてはいないのだとは未だ気付かないクローディアだった。