別れ
ローヴェレ伯爵とグリューデル伯爵令嬢の婚約が破棄されてから一カ月程経った頃。
当初こそ社交界ではその話題で持ち切りだったが、クローディアが社交界であまり有名でなかった所為もありゴシップ好きの面々にとってはさほどセンセーショナルな内容ではなかったらしく、彼らの関心はすぐに別のゴシップに移っていった。
クローディアはあれから、アデルに言われて婚約者探しに勤しんでいた。
驚いたことにダンスに誘ってくれる人はまだしも、正式に婚約の申し入れをしてくれる男性も今でも複数いて彼女を戸惑わせたが、カルロとの長い婚約期間の末に破棄となったので慎重になっているという体でまだ成立には至っていない。
「私は今までカルロのおかげで随分楽をしていたのね…」
ダンスに疲れて壁の花になりながら、クローディアは嘆息する。
彼女と同じ年頃で、婚約の決まっていない令嬢は毎晩きちんと着飾り、夜会に出掛け社交に勤しんでいるのだ。
クローディアの18歳という年齢的に、未婚であることはともかく婚約者がいない状態が長く続くのは外聞が悪い為、そろそろ逃げ回るのもやめにしなくてはならないのは確実だった。
彼女に甘い家族は結婚はしたくなければしなくてよい、と言ってくれているが、貴族令嬢にとって、結婚して子を生し血を繋ぐことは生涯唯一絶対の役目と言っても過言ではない。幸いにしてクローディアには兄が二人おり、家の存続の為に血を繋ぐ絶対的な必要はなかったが、領民の税によって生活を支えられている身であれば、領民の為になる婚姻をすべきだと考えていた。
それに勿論、クローディアだって年頃の娘らしく結婚への憧れはあるのだ。今自分に出来る精一杯をして、それでも結婚出来なければ領地に戻り他の方法で領民の為に出来ることを考えようとは思っているが、あくまでそれは最終措置。
今はせっせと婚活に勤しんでいる段階なのだ。
人いきれに疲れて、クローディアはパートナーに合図をして少し外の空気を吸いに回廊に出た。
星が綺麗に見える、晴れた夜だ。庭園のあちこちに配置されたランタンの明かりが幻想的な雰囲気を演出していたが、まだ夜会が序盤な所為か裏庭にあたる所為か、この美しい景色を他に見ている者はいないようだった。
「綺麗……」
と、背後から無遠慮に腕を掴まれて、クローディアは驚く。
「ディア!どうしてこんなところに…」
腕を掴んでそう言ってきたのはカルロで、彼もひどく驚いているようだった。
改めて彼女の姿をじっくりと見て、カルロは眩しそうに目を細める。
クローディアの今夜の装いは淡いミントグリーンのドレスで、裾にゆくにつれて小さな真珠がたくさん縫いつけられていて、彼女が動くと柔らかく光を反射して夢のようにまばゆい。オフショルダーの襟元からは白いレースが首元まで覆っているが、彼女の華奢な肩や細い首を隠すどころか浮彫にしてしまっている。
丁寧に巻かれたキャラメル色の髪は相変わらず甘そうだし、夜会用に化粧を施されたクローディアは、普段の野に咲く花のような華憐さとは違い、大輪の百合のように滴るような美しさがあった。
「……ご機嫌よう、カルロ」
「ああ、ディア…君が夜会にいるなんて、どういう風の吹き回しなんだ?」
「お母様が婚約者がいなくなったのならば、新しい方を見つけなくてはいけないから、て」
彼女は困ったように微笑む。
夜会嫌いはカルロにはよく知ったものだったろうし、クローディアが着飾ってこんなところにいることにものすごく驚いているのだろう。浅ましさを見透かされたような気持ちになり、恥ずかしくなって彼女は顔を伏せる。
「…新しい婚約者探し、か……今夜のパートナーは、アランかエドガーが…?」
「あ、いいえ。今日は兄様達がどちらも都合がつかなくて」
「………じゃあ、誰が」
カルロの、クローディアの腕を掴む手に力が籠る。彼女は痛みに顔を顰めた。
「痛いわ、カルロ」
「教えて、ディア。君の今夜のパートナーは誰なんだ」
「カルロ!離して、痛いってば!」
「こんなに綺麗に着飾って、誰と…!」
クローディアが抵抗して彼の腕を叩くと、カルロは舌打ちをする。その音に、クローディアは呆然として動きを止めた。
彼にそんなひどいことをされたのは初めてで、ショックだった。
エドガーなどは仕事柄下街に行くこともあるのでそういう仕草をわざとすることもあったが、当然クローディアに対してすることはなかったし、いつもなんだかんだいって彼女を優先してくれるカルロが舌打ちをするところなど、勿論見たことがなかった。
怯えた表情を浮かべるクローディアに遅まきながら気づいた彼は、慌てて腕の拘束を解き、彼女の華奢な肩にそっと触れる。
が、
ぱちん!とその手を叩き落としたクローディアは、翡翠色の瞳に苛烈な怒りを宿していた。
「パートナーは叔父様よ。母様の弟のダルトン公爵!これで満足?」
「ディア」
「あなたとの婚約は正式に解消されて、私は未婚で婚約者のいない令嬢なの!既婚者の親族の方に同行してもらっているに決まっているでしょう、それをまるで人をはしたない女のような言い方をして……恥を知りなさい、カルロ・ロッシ!」
クローディアから向けられたことのない、強い怒りの感情にカルロが怯んだ隙に彼女は踵を返して行ってしまう。
「待っ、」
「付いて来ないで!来たら叫ぶわ」
じろりと肩越しに睨みつけられて、カルロは脚を止める。きらきらと光るドレスの後ろ姿を力なく見送って、彼は深い溜息をついた。
「……クソ…恨みますよ、殿下」
負け惜しみのような声が、磨き抜かれた回廊の床に寂し気に落ちるのだった。
叔父に屋敷まで送ってもらい早々に帰宅したクローディアは、湯を浴びてから自室の鏡台の前に座っていた。彼女の後ろではコルデーが丁寧に髪を梳かしてくれている。
「今日の夜会はいかがでした?」
「最悪。もう夜会には行かない。父様達の選んだ方と婚約するわ」
「まぁ!どうなさったのです?」
「夜会で何かありました?」
メアリが温かいお茶のカップをサイドテーブルに置いてくれた。気づかわし気な二人の視線に首を横に振り、クローディアはカップの水面に気をとられているフリをする。
「……なんでもないわ。そろそろ夜会に出るのもウンザリしていたの。よく知りもしない人と会話を探り探りするよりも、正式な釣り書きを見て父様達が選んでくれた男性の方がきっと確かでしょう?」
メアリとコルデーは素早く目くばせを交わす。
「確かにそうですわね」
「お嬢様は最近夜会に頑張って出席なさってらっしゃいましたし、そろそろ奥様のお気も済んだ頃かもしれませんわ」
二人の慰めるような響きの言葉を聞きながら、クローディアはお茶をゆっくりと飲んだ。こんな気分の時はお酒でも飲んでしまいたいが、彼女はすぐに酔ってしまうし翌朝の頭痛がひどいのだ。
メアリの淹れてくれたお茶は、就寝前にぴったりのハーブティーだったので蜂蜜をいつもより少し多いめに入れて心と体を温める。
カルロに掴まれた腕は痣にもなっていないし特に支障はない筈だったのに、何故かズキズキと痛むような気がしてクローディアは落ち着かなかった。