キス
王都のグリューデル伯爵邸。窓の外は音もなく細かな雨が降っていた。向こうの空は明るいから、もうしばらくすればじきに上がるだろう。
「ディア」
「カルロ。いらっしゃい」
居間で、孤児院の子供達へのプレゼントをメイド達と編んでいたクローディアは、戸口に現れたカルロを見て微笑んだ。
結局、ブロワ侯爵の事件はメアリの推理がおおよそ当たっていて、カルロはクローディアとは虚偽の婚約破棄をしてレイチェルに恋をしているフリをしていたらしい。
この場合、虚偽というのはこの件に関わった者の認識なだけで、侯爵に調べられてもバレないようにきちんと教会から婚約破棄の証書も発行されている、書類上は正式な婚約破棄だ。
その為もう一度婚約をしなおすにしても、婚約を破棄したという項目を抹消するにしても少し時間がかかり、現在クローディアとカルロはまだ婚約には至っていない。
つまり、
「お約束なしの訪問は失礼にあたります、ローヴェレ伯爵」
「お嬢様は未婚の令嬢なのでそんな風に親しげに名を呼ばれては誤解を招きますわ、伯爵」
メアリとコルデーの態度も続行中である。
「小姑かお前達は。あれは王太子殿下からの密命で仕方なくだったと説明しただろう」
さすがのカルロもクローディアを危険に晒したという事実に、メイド二人に対して旗色が悪い。三人のやりとりを、編み物をきりのいいところまで仕上げていたクローディアは笑いながら聞いている。
あの後、一旦話を聞く為に王城に連れられ、屋敷に帰宅出来たのは夜のかなり遅くなってからだった。
実はクローディアの思い付きの目印はちゃんと効果があり、あの時警備局と共にレイチェル達残党の捜索にあたっていたカルロの元に届いていたのだ。
レイチェル達が下街に潜伏しているだろうという予想は彼らもたてていたが、問題はどの建物に入り込んでいるか、ということで。下街の住所整備はまだ行き届いてはおらず、目撃情報を得るのも一苦労で、さすがに確証もなく乗り込んでいくことは出来ず手をこまねいていたのだ。
そうこうする間に、レイチェル達は王都を出たという偽情報、ついでグリューデル伯爵令嬢が拉致されたという情報が入りカルロの気が狂いそうだった時に、リボンの結ばれたブーツが届いた。
すぐにクローディアのものだと気付いた彼は、落ちていた場所を中心に捜索範囲を絞り、あの屋敷にたどり着いたのだ。入口脇の茂みでもう片方のブーツを発見し、確証を得てまずは彼自身が潜入、合図を持って全員が突入し捕縛する、という作戦がたてられた。
結果は見ての通りである。
ようやくクローディアが帰り着いた屋敷では、家族は勿論執事やメイド達全員が起きて待っていてくれて、大騒ぎだった。
メアリもコルデーも泣きながら主を抱きしめ、そして執事のケインからは今回の失態について丁重に詫びられた。クローディアは、あの場合は誰にもどうすることも出来なかったとして父に処分を預けるしかなかった。
ケインは長く責任をもって、伯爵家に仕えてくれている。出来れば誰も悪くない、とクローディアは言いたいところだったが、咎めなしでは彼自身が納得してくれなかった。
グリューデル伯爵からもたらされた減俸という形だけの処分に渋々首を垂れたケインは、今はより一層伯爵家の為に働いてくれている。
「お嬢様。ダニエル様から新作のお知らせが届いておりますわ」
「まぁ!素敵。またお店の方に寄らせていただきましょう」
「ええ、お嬢様。ダニエル様にお返事をお書きになっては?」
「そうね…」
メアリに手紙を、コルデーに返信用のレターセットを差し出されて、クローディアは迷う。ちらりとカルロを見ると、彼は盛大に顔を顰めていた。まるで大きな子供だ。
「俺とダニエル・ロウ卿に対して態度が違いすぎないか、お前達…」
「ダニエル様はお嬢様のお友達ですので」
「ダニエル様はとっても紳士でいらっしゃいますもの」
すかさずメアリとコルデーが返し、クローディアは思わず吹き出す。ころころと笑う彼女に、三人は舌鋒を止め毒気を抜かれた気持ちで見つめた。
一連のことが収まるまでどこか張り詰めた様子だったクローディアが、今は寛いで幼子のように素直に笑っている。
窓から入る、淡い光にやわらかく照らされて笑う彼女は幸せそのもので、見ている三人のことまで幸せな気持ちで満たした。
「メアリ、コルデー。お返事は後で書きます、今は…カルロ」
「どした?」
唐突に名を呼ばれたが、ずっと彼女ばかり見ていたカルロはすぐに反応する。すい、と白い手が差し出されて、ごく自然に彼はその手を取った。
「雨も上がったようだし、少し庭を歩かない?お母様の育てているバラが、見頃なの」
「……喜んで」
雨上がりの空は明るく、青空がどんどん広がっていく。花びらや葉に雨粒が残り、空気は洗われたように澄んでいた。
王都のグリューデル伯爵邸は、敷地に対して屋敷がこぢんまりとしている。その代わり庭に多くをさいていて、趣味の域を超えた温室があったり四季折々の花々や珍しい木なども植わっていてちょっとした植物園のような様相を呈していた。
「これがお母様のバラ園。こちらの品種は、今年の新種なんですって」
「へぇ…アデル様は本当に精力的な方だな。あれだけ社交に勤しんでおられるのに、手のかかるバラまで育てているなんて」
「母様はじっとしているのが苦手な方なの。今回のことでよくわかったけど、あんなに夜会に立て続けに出席して、お昼間はお昼間でぴんぴんしてバラ園のお世話をしているのよ」
信じられない、と言うクローディアの歩調に合わせて歩きながら、カルロは彼女の姿を改めて見遣る。
突然彼が来訪した所為で、クローディアは普段着のままだ。淡い水色のワンピースには共布のフリルが多いめについていて、丈も踝が見えるぐらいと短い。裕福な商家の街娘のような装いは、彼女をいつもよりも少し子供っぽく見せた。
夜会での贅を凝らして着飾ったクローディアも美しかったが、カルロ自身はこういう普段の彼女の姿の方が好ましく感じている。
「アデル様といえば…婚約破棄が虚偽だってこと、知ってたんだな」
「ええ。父様から聞いて知っていたけど、知らないフリをしていたんですって」
「何故知らないフリを……」
社交的戦略?などとブツブツと言っているカルロの横で、クローディアは遠い目をする。
母のアデルにこの件について最初から知っていたことを聞き、問い質した時に、クローディアも同じことを疑問に思った。それをそのまま尋ねると、母はけろりとしたものだった。
曰く、
「だってこんな機会でもないと、クローディアを夜会に連れ出して自慢するチャンスは滅多にないんだもの」
様々な思惑の中、母だけは一切ブレずに己の望みを優先していたようだ。
「もう夜会はコリゴリだわ」
本音をこぼすクローディアに、カルロは笑った。
「そう言わず。婚約が復活したらアピールも兼ねていくつか出ようよ。あんなに綺麗なディアと別の男が踊ってて、俺はすごく悔しかったんだからな」
ゆるく三つ編みに編んであるキャラメル色がひと房、ほつれて頬にかかっている。それを耳にかけてやると、彼女はくすぐったそうに肩を竦めた。
「そんなに言うなら、婚約破棄なんかしなければよかったのに」
翡翠色の瞳に見つめられて、カルロは怯む。そう、何度後悔したかしれないのだ。
「……本当にごめん。ディアと婚約を解消しても、仕事が終わったらきちんと説明して、また結びなおさせてもらえるって思いあがってた。……しかもディアを危険な目に遭わせて……本当なら、どの面下げて、って言われてしかるべきだ」
「それはいいの。……そりゃあ、寂しかったし……連れ去られた時はすごく怖かったけど……」
クローディアの言葉を聞いて、カルロは痛みに顔を顰める。
本来ならばもっと上手くやる予定だったのに、小さな綻びが大きな穴を呼んだのか、彼女まで巻き込んでしまった。もっとも最悪の形で。
「……ごめん……」
「何度も謝ってもらったし、何度も許すと私は言ったはずよ」
クローディアはカルロの手を握る。
温かくて、固い掌。
この掌を手放すなんて、もう彼女には考えられない。
「もうこの事を謝るのはナシ!ね?」
「……了解」
ぺち!とカルロの頬を叩いてクローディアは笑った。カルロの天使は、今日もたまらなく優しくて、美しい。
微笑みあって、ゆっくりと庭の散策を再開するとクローディアがそういえば、と呟いた。
「どうしてカルロが今回のお仕事を任されたの?他の近衛の方でもよかったのではないの?」
彼女は、ずっと疑問だったことを尋ねる。
確かにカルロが能力的に間諜として選出されたのは分かるが、そもそも敵対勢力である筈の王太子付きの近衛騎士ではブロワ侯爵達も警戒するのではないだろうか。
器用な彼のことなので最終的にはかなり侯爵一派に信頼されていたようだが、リスクがなかったわけではない筈だ。二重スパイ的なことを期待されていたにしても、カルロとほぼ同条件の地位や容姿を持ち、なおかつ婚約者のいない別の所属の騎士の方が適任だったのではないだろうか。
「それは……」
「うん」
言い淀むカルロに、クローディアは首を傾げる。
いつもの様に何かあっさりと返事がくるか、彼女に聞かせたくないことならば違う話題を持ち出したり誤魔化したりしてくるのが常なのに。
「……ディアは、それまで俺のことを異性として意識してなかっただろう?」
そう言われて、彼女はこくりと頷く。
クローディアの婚約者は幼い頃からカルロと決まっていて、家族同然に過ごしてきた。多忙な前ローヴェレ伯爵に代わり、親同士も仲のいいグリューデル伯爵の元、かの領でオフシーズンを過ごすことも多かったし、彼が士官学校に入った後も休暇の度にクローディアに会いに来てくれてそのまま一緒に過ごすことがほとんどだった。
彼女の願いはこのまま大好きな人達に囲まれて幸せに暮らすことで、カルロが夫になるのならばそれは約束されたも同然だと思っていたし、そうなると改めて異性として意識して恋心を抱く、ということには意識も考えも到達しなかった。
だって、満ち足りていたから。
「でも俺はずっと、ディアのことを女の子として好きなんだよ」
指の背で、頬をすり、と撫でられてクローディアは目を見開く。
彼の告白が意外だったからではない。今までも幾度となく頬を撫でられたことはあったのに、今の接触がひどく官能的だったからだ。
「言葉にすると女々しいんだけど、一度離れてみることでディアに俺を意識して欲しかったんだ」
「カルロ……」
王太子であるクラークにこの密命を受けた時、ひと時であってもクローディアの婚約者ではなくなる、ということが嫌でカルロは一度断ったのだ。
その時点では、レイチェルが男性関係の派手な生活をしていることは知っていたが先程クローディアが言ったように、間諜の役がカルロである必然性はなかった。
けれどその後、どこで見初められたのかレイチェルがカルロにアプローチをかけてきた所為で話は変わってきた。
再度命が下され、渋るカルロにクラークはこう言ったのだ。
「クローディアに、なんとも思われていないまま結婚していいのか?」と。
明らかな挑発だったが、カルロとて気にはなっていた点だ。このままでは、カルロは妻に片思いをし続けることになる。
きっかけがなければ、クローディアはこのままずっとカルロには家族以上の感情は抱かないかもしれない。
元より、王太子の命をそう何度も断れるものでもなく、そのクラークの言葉に追い立てられるようにカルロは間諜となることを請け負った。
その後は身の内を掻きむしりたくなるような嫉妬と後悔の日々だったが、王都に巣食う悪腫瘍を取り除けたのならば、あの地獄のような日々も少しは報われるというものだ。
「俺と離れてみてどうだった?ディア」
カルロは柔らかく笑って、彼女を見つめる。
「わたし、は……」
自分の中に渦のように滞っている気持ちを、クローディアは言葉を選びながら呟く。
カルロと離れている間、彼女をずっと何かを考えていた。それまで何一つ、不満なく不安なく過ごしてきたのが嘘のように、自分がひどくちっぽけで何も持っていないような気がした。
安穏とした日々に胡坐をかいていたことを思い知った。
「カルロがいなくなって……とても不安だったわ。だから一人でちゃんとしなきゃ、て思っても上手くいかないことばかりで……」
「色々考えてしまったんだな、ディアはそんなこと気にしなくていいのに」
そっとカルロがクローディアの頭を撫でると、彼女は首を振った。
「いいえ……もっときちんと知って、自分で考えなくちゃいけないの、私」
「……参ったな、意識して欲しかっただけなのに、随分と急成長して……」
カルロは苦笑を浮かべる。
実際のところ、クローディアは貴族令嬢としてどこも欠けているところはない。結婚するまでは家族に、結婚してからは夫に守られて、社交や慈善事業などをこなしながら“安穏と”暮らしていくことは、何も悪いことではないのだ。
けれど、彼女自身がもう、それをよしとしないらしい。
「女性政治家にでもなるつもり?」
「まさか!そんな大それたこと……でも、自分に何が出来て、何が出来ないか知りたいし、出来ることを増やしていきたいの」
「うん……君がやりたいなら、俺も付き合うよ」
「え?」
「ん?」
「……いいの?……一緒に、いてくれるの?」
今度はクローディアが彼に問う。
「当たり前だろう?さっきも言ったけど、俺は君のことが好きなんだ。何にだって付き合うさ」
カルロの答えに、彼女は嬉しそうに笑う。小さな白い掌が、彼の掌を握った。
「あのね、私……あなたしかいない、て思うのに、これが恋なのかわからないの」
「……うん」
「でもね、一緒にいたいのはカルロだけなの。だから…ひゃっ!?」
突然、カルロがクローディアの膝裏に腕を回し抱き上げたのだ。小柄な彼女は視界が突然高くなったことに驚いてカルロの首に抱き着く。
「カルロ!話の途中よ!」
「聞いてる。ずっと一緒にいるよ、ディア。だから、その気持ちが恋になったら教えてくれ」
カルロは、びっくりするぐらい嬉しそうに笑っていた。
「……カルロ……だから、恋になったら私から告白しに行こうと思ってたのに……」
クローディアが顔を赤くして言う。
それはもう、ただの予告だ。育ち切っていないだけで、咲き綻ぶの待っているだけの状態。
カルロにとっては熱烈な愛の言葉だ。ずっと欲しかった言葉。
「もう……」
力が抜けて、クローディアがカルロに寄り掛かると、彼は機嫌よくやわらかな頬や顎にキスをする。
「カルロ!」
「君との婚約に胡坐をかいていたのは俺の方だ、ディア」
「え?」
「君のことが欲しいなら、離れてる場合じゃなかった。ずっと傍にいて、俺に恋をしてもらう為に働きかけるべきだった」
一旦離れてみて分かった。
カルロには、クローディアがいないとダメなのだ。ならば、気持ちがどうであろうと、もう二度と離れるつもりはない。
「覚悟しておいてくれ、ディア。君の初めての恋は俺で、最後の恋も俺だ。何があってももう離してやれない」
「なぁに、それ。なんだか怖いわ」
真っ直ぐに見つめて言われて、クローディアはふふ、と笑った。ちっとも怖くなさそうに。
風が吹いて、花びらに残っていた雨粒がきらきらと光を反射する。抱き上げた体はやわらかく、彼女が腕の中にいる僥倖にカルロは眩暈がした。
「なぁ、キスしてくれ。ディア」
それを聞くと、カルロの愛しい人はとろけるように笑って、そっとキスをくれた。
拙いお話に、最後までお付き合いいただいてありがとうございました!!
読んでいただけるだけで嬉しかった筈が、欲が出てまいりました。何か感想などいただけたら、さらに嬉しいです。
でもでも、やっぱり、読んでくださってありがとうございました!とても楽しく、幸せな日々でした!




