その2
とんだゲテモノにあたってしまったものだ。深く反省しながら、私は闇商人の店から裏路地に歩み出た。こんなに疲れたのは久しぶりだ。
昨夜は結局あのまま見事逃げおおせ、流れで持ち出してしまっていた指輪は今しがた売り払ったので、もう縁が切れた。足もつかない。大変な騒ぎではあったが、結果としては上々である。あの指輪は良い値段で売れた。
(ほんと、とんでもない災難だったわよ……)
ほくほくと温かい懐を手で押さえながら、私は重いため息をついた。まさか、カモにしようと近づいた相手が、交際三日目にして結婚まで考えるお花畑だとは思わないじゃないか。
(今度からはカモる相手はちゃんと選んでからにしよう)
うんうん、と独りごちて大きく頷きながら、私は大きな欠伸を噛み殺した。さっさと自分の部屋に帰って休みたいところだ。――が、私のこそ泥生活のルーティーンは、あともう一つの段階を残しているのだった。
見慣れた建物を見つけ、その門をくぐろうとした矢先のことだった。どん、と足下に衝撃を受け、私は苦笑する。
「アルテリアお姉ちゃん! ひさしぶり!」
「久しぶりね、テネット。ちょっと身長伸びた?」
「うん! ついにティナよりもおっきくなったよ」
「へえ、すごいじゃない」
言いながら、私は腰の辺りにまとわりつく少女の頭を軽く撫でた。
「院長先生いる?」
「うん。今は多分お部屋にいると思うよ」
「ありがとう」
小さく頷いて、私は一度深呼吸をした。気持ちを切り替えるようにゆっくりと瞬きをして、そして私は笑顔で目の前の建物を見上げた。
――私が物心ついたときから生活してきた、優しくも貧しい孤児院を。
もう何度目になるか分からない訪問だった。厚い木の扉を叩くと、中から「どうぞ」と声がする。私は錆びた取っ手を掴み、落ち着いた表情で院長室に足を踏み入れた。
狭くて少し埃っぽい院長室で、院長先生は疲れたような表情で書類をめくっている。顔を上げて私の姿を認めると、先生は小さな声で呟いた。
「アルテリア……」
「お久しぶりです、院長先生」
「全然、久しぶりなんかじゃないじゃない」
院長先生は首を振りながら立ち上がり、私のもとへと歩み寄る。手振りで合図され、私は後ろ手に扉を閉めた。
窓から射し込む朝日は酷く柔らかいのに、院長先生の表情は張り詰めていた。
「アルテリア、何の用事なの」
「ここの卒業生として寄付をしに来ただけです」
私は微笑みで応える。院長先生は眉根を寄せる。
「あなたはこれまでにも十分に寄付をしてくれたわ。もうこれ以上は……。稼いだお金は自分のために使ってちょうだい」
「そうです。自分の我が儘のために使っているんです」
私が頷くと、院長先生は目に見えて悲しそうな顔をした。その表情に、私は胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。……私は先生に辛い思いをさせている。
それでも私は引き下がるわけには行かなかった。
「――先生。この間、近くの孤児院が資金難で取り壊しになったと聞きました。もうこの辺りに他に孤児院はない。国全体の経済難に、上からの補助金もどんどん減らされている中で、取り壊しになった孤児院の子どもたちも受け入れたのではないですか?」
静かに問えば、院長先生は渋々頷く。やっぱりそうだと思った。だって院長先生はそういう人だ。私は諦念にも似た呆れとともに微笑む。
「……経営が立ちゆかなくなって、ここまで潰れてしまったら、もう子どもたちに行き場所がなくなってしまいます。そんなの、私が嫌なんです。だからこれは私の我が儘です」
言いながら、私は懐から封筒を取り上げ、院長先生に差し出した。院長先生はそれを見下ろし、小さく首を振る。
「こんな大金……」
「もらってください。私じゃ使い切れませんし、院長先生ならきっと子どもたちのために正しい使い方をしてくれるって信じています」
窓から見える庭では、たくさんの小さな子どもたちが笑い声を上げて走り回っていた。けれどその誰もが決してふくよかではないし、孤児院の建物は見るからに老朽化している。
院長先生は苦渋に満ちた表情で私を見上げた。昔は足下にまとわりついて見上げていた先生は、いつの間にか私よりも小さく、弱々しくなっているようだった。
「アルテリア……」
「私は大丈夫です」
そう言い切って、私は半ば強引に院長先生の手を取って封筒を押しつける。先生の指先はしばらく拒むように強ばっていたが、やがて、躊躇いがちに封筒を掴んだ。その手が震えているのを感じながら、私は目を伏せる。
自分がやっていることが、その場しのぎでしかないことも、自分が犯罪行為を働いている薄汚い小悪党だということも、よく分かっている。私のやっていることを知ったら院長先生はさぞ悲しむだろう。
院長先生は唇を戦慄かせ、顔を上げると、私の目の奥をじっと見つめた。
「ねえ、アルテリア。……こんなにたくさんのお金を、いつも一体どうやって工面しているの」
私は真正面から先生の視線を受け止め、そして目を細めて笑った。
「心配しないでください。綺麗なお金ですよ」
嘘ではない。――綺麗な石を売って作ったお金、である。
***
ついうっかり全額を渡してしまったせいで私の財布はほぼ空だった。
(私って馬鹿だ)
空腹を訴える自分の腹を撫でながら、私は大きなため息をつく。取りあえず何かしらを腹に入れたい、と思ってパン屋に足を踏み入れたのが最大の間違いだった。
(うっ……良い匂い……)
香ばしさとバターの匂い、甘ったるいようなパン屋の香りに包まれて、思わず私は入り口でたじろいだ。なおのこと腹が減り、ついにきゅう、と音を立てるのが聞こえる。
しかし私には手持ちが全然なかった。棚の端から端までを手に取りたいのを堪えて、一番安いパンを一つだけトレイに乗せる。そしてレジに向かった私は、そこで愕然として立ち尽くした。
「…………!?」
目を剥いて財布の中を覗き込む。一度目を擦ってからもう一度確認するが、見えているものはどうやら幻ではなさそうだ。
(うそ……一番リーズナブルなパンすら……買えない……!?)
私、金なさ過ぎ……!?
たった一つのパンを紙袋に入れ終えて、目の前の店員さんは不思議そうな顔で私を見返してくる。私は羞恥に顔を赤くしながら唇を噛んだ。服の裾を強く握りしめ、私は深く俯く。
「……ごめんなさい、やっぱりそれ、」
「すみません、この棚のここからここまで、全部二個ずつ詰めて貰えますか?」
私が購入を断念しようとした、その直後、背後でのんびりとした声がする。しかもやたら声の出所が近かった。……まるで、私のすぐ背後に、声の主がいるかのような。
(この声は……まさか!)
私は弾かれたように振り返り、そして「ヒィ!」と顔を引きつらせて飛び退る。人差し指をずびしと指しながら、私は恐ろしさにわなわなと震えた。
「な、何でここに!」
「失礼だなあ、化け物でも見るみたいな顔をして。僕が君を見逃すとでも思った?」
「思ってたよ! 今この瞬間まではね!」
レジのカウンターに縋り付くようにしながら立ち尽くす私の前で、そいつは実に穏やかな表情で立っていた。背中に手を回し、片足に体重をかけて佇んでいる姿からは余裕さえ漂ってくる。
「指輪は買い戻しておいたからね。もう一度きちんと話をしよう、――アルテリア」
「うわ、ちょっとちょっと……マジで……?」
その手に見覚えのある代物がつまみ上げられているのを見て取って、私は思わず額を押さえた。店員さんは完全に困惑した表情で私たちを見比べている。
彼は腰に片手を当て、肩を怒らせた。
「良いかな、僕は結構怒っているんだよ。結婚まで考えていた恋人に逃げられて、あまつさえ婚約指輪を売り払われるだなんて」
「事実だけど事実無根……」
私は遠い目で呟く。大切な情報がいくつか抜け落ちているじゃないか。……最初から恋人云々が大嘘だったってことと、知り合ったのが三日前……四日前? だということである。
しかし店員さんは大きく頷き、「なるほど」と私を振り返った。真剣な表情で私に訴える。
「彼女さん、それは流石に駄目ですよ。ちゃんと話をした方が良いと思います、彼氏さんが可哀想です」
「う~ん……」
何と弁解して良いものか分からなかった。何から何まで話がおかしいんだよな……。私が腕を組んで渋面をしていると、おもむろに体が浮く。床から足が離れたのにぎょっとして周囲を見回すと、見知らぬ男が私を片腕で抱き上げていた。私は目を剥いて体を反らす。
「何で!?」
「話は帰ってからにしようか」
このボンボンの平然とした様子を見るに、こいつの関係者か何からしい。私は腰の辺りを横抱きにされたまま、手足をばたつかせる。腕を振り回して私は彼を指さした。
「ちょっと、これどういうことなのよ! 放しなさいよ!」
「嫌だね」
即答であった。「はぁ!?」といきり立つ私をよそに、彼は店員さんを振り返り、「パンはあとで使いを寄越すから、その人に渡して欲しい」などと指示まで出している。
とんだ二次災害だ、と私は歯噛みしたのだった。
***
「本当の名前はアルテリアっていうんだね。かわいい名前だね」
私は腕と足を組んだまま、目を閉じて無視を決め込んだ。
(……このまま騎士団に突き出されるのか、それとも私の犯罪行為をダシに強請られでもするのか? いやまさかこの馬鹿が本気で『あれ』を見据えているという可能性も……考えたくはないけど……)
むっすりと口を噤む私に、彼はおずおずと声をかける。
「見てた限り、今日に入ってからごはん食べてないって聞いたよ? お腹空いてるんじゃないかな。食べなよ」
(『見てた』って何だよ……)
冷や汗を垂らしながら、私は断固として首を振った。
「結構です」
言いつつ薄らと目を開ければ、目の前には焼きたてのパンが並べられ、香ばしい匂いを放っている。口の中に唾液が溢れるのを感じながら、私は唇を引き結んで目を逸らした。
「あの、アルテリア……」
目の前ではおろおろとボンボンが両手をあたふたさせている。私は腕組みを解くことなく応じた。
「何ですか、お坊ちゃん」
「えっと、良ければ僕のことも名前で呼んで欲しいな」
「何ですか、オストライア様」
「そっちは名前じゃないよ。僕はエレミアっていうんだ」
言いながら、自称エレミアさんは私の向かいの椅子で姿勢を正す。
「……君の事情は分かったよ。孤児院を助けるために指輪を盗んだんだね?」
「本当に見張ってたんですね」
私はじとりとエレミアさんを睨めつけながら頷いた。彼は「えへへ」と頬を掻いて照れ笑いを浮かべる。別に褒めてない。
彼は身を乗り出し、明るい表情で私に詰め寄った。
「それでなんだけど、一つ提案があるんだ」
「何ですか? 結婚ならしませんよ」
「そ…………っかぁ……」
先手を打つと、彼は情けなく目を逸らしてしゅんと項垂れた。図星だったらしい。
しかし、数秒間冷めた目で眺めているうちに、彼はすぐ立ち直って顔を上げた。なかなかめげない様子は賞賛に値するかもしれない。
「で、でも、話だけでも聞いて欲しい」
「はあ……。まあ、お話だけなら」
孤児院のことを知られてしまっては、迂闊な対応が出来なかった。うっかりこのエレミアさんの怒りを買ってしまっては、あの子たちがどんな目に遭わされるか分かったものではない。
「そんなに警戒しないでよ」と彼は眦を下げ、それからおもむろに私の手を取った。咄嗟に手を引っ込めるよりも早く、彼は真剣な表情で私を見据える。
「――僕が、あの孤児院の後見人になる。だから」
「結婚しろって?」
「…………うん」
ぽっと頬を染めながら頷いたエレミアさんを前に、私は胸の内で打算が働くのを自覚していた。
(正直、私一人ではあの孤児院を支えきれないことは事実だ。そろそろ院長先生も、金の入手経路を怪しみ始めているし、卒業生である私に金銭面で頼りきりなことを酷く気にされている)
エレミアさんのような金持ちがバックに付くとなれば、孤児院の経営も安定するだろうし、市民から白い目を向けられることも減るかもしれない。私は膝の上で拳を握った。手のひらに爪が食い込むのを感じながら、私は唇を噛む。
「……何故、そこまで私に執着なさるのか聞いても? 正直、出会って数日の人間に対してそこまで入れ込むのは異常だと思います」
「君のことがずっと前から好きだからだよ。その……言うのは恥ずかしいけど、初恋なんだ」
(それ絶対に人違いなんだよな)
私は遠い目をした。この街に、そんなに私に似ている人がいただろうか? 今のところ会ったことはないのだけれど……。
(とはいえ、このボンボンが私を初恋の人と勘違いしている状況はとても好都合だわ)
鋭い目でエレミアさんを一瞥すると、彼は頬を染めて目を伏せた。睨まれて照れるんじゃない。やはり様子がおかしいお坊ちゃんに呆れの目を向けつつ、私はため息をつく。
(一旦は結婚すると答えて、孤児院の後見人になることを同意させた方が良い。それからじきに私が別人であることが判明するだろうし、そうしたらさっさと逃げれば大丈夫だ。流石に一度は引き受けた話を放り出すことはあるまいし)
そう結論づけて、私は顔を上げ、エレミアさんに正対した。じっとその目を見据え、慎重に言葉を選ぶ。
「分かりました」
言いながら、私は手を伸ばし、目の前に置かれたパンをひとつ鷲掴みにして、毅然として告げた。
「――そのお話を引き受けます」
「えっ!?」
彼は即座に目を輝かせて腰を浮かせた。私はそれを制するように手のひらを向ける。
「言っておきますが、私は、あなたに今まで会った記憶がありません。もしかしたら私があなたの思っている人間とは別人である可能性もあります。それでも良いならむぐっ」
「ああ、アルテリア! ありがとう! 夢のようだよ!」
立ち上がり、身を乗り出したエレミアさんが私に抱きついた。私はしばらく死んだような目でそれを受け入れていたが、頭頂部に頬ずりされる気配を感じ、流石に気持ち悪いので振り払う。
「そ、そうと決まったらさっそく準備しなきゃだね! どうしよう、まずは何からしようかな……」
うろうろとその辺りをうろつき始めた夫(仮)を引き留め、私はその肩を握りしめながら脅すように告げた。
「まず最初に、孤児院の後見人になるって署名してください。あと手続き」
「ん? それは一番最後だよ」
しかしエレミアさんは私の睨みに一切動じることなく、満面の笑みでこちらを振り返った。何を言っているのか、と立ち尽くす私を見下ろし、身を屈めて目線を合わせる。ぽん、と頭に手が置かれ、言い聞かせるように彼は囁いた。
「――だって、最初に目的が達成されたら、アルテリアはまた逃げてしまうでしょう?」
にこ、と細められた双眸を至近距離で見つめながら、私は体がふるりと震えるのを感じた。そこはかとなく嫌な予感がする。……私、本当に逃げられるんだろうか?