その1
恐る恐る押した扉には、鍵がかかっていなかった。それに気づいたわたしは、震える手で扉を押し開き、まだ暖炉の熱が残る暗い厨房へと、そっと体を滑らせた。
(パンをたった一つもらうだけ……。たくさんあるんだから一つくらいなくなったって気づかないはず)
そう思いながら、わたしは布巾を被せられた籠に歩み寄り、そっとその中身を覗き込んだ。大きなパンがいくつも入っているのを見て取って、ごくりと唾を飲む。香ばしい香りに、お腹がきゅうと鳴った。
(ごめんなさい、)
胸の内で唱えて、わたしは一本のパンをそっと手に取った。これがあれば、あの子たちもしばらく食いつなぐことが出来る。だからこれは仕方のないことなのだ。たくさん持っている人から少しだけ分けてもらうのだって、わたしたちが生き延びるために必要な戦略なんだ。
そう自分に言い聞かせ、わたしは侵入したお屋敷から逃げだそうとした。そのとき棚に肩がぶつかり、その拍子にか、足下に何か小さなものが落ちた。視線を床に落とすと、そこには綺麗に磨かれた銀のスプーンが転がっている。物音を立ててしまった、そう思うよりも先に、手が伸びていた。
(きれいなスプーン……)
その優美な曲線に見とれると同時に、胸の内で卑しい算段が蠢く。
(これが一本あれば、これを売り払えば、一体パンが何本買えるだろうか)
――これさえあれば、この一本さえあれば、わたしたちは明日も食いつなぐことが出来る。
わたしは奥歯を噛みしめ、スプーンをぐっと握りしめた。その小さな金属に、まるで挑むように強い視線を向ける。……直後、どこか近くでカタンと物音がしたのにはっと息を飲み、わたしは体を強ばらせた。逃げなきゃ、そう胸の内で呟いて、慌ててその場から立ち去る。
……そうして、わたしは初めての盗みを経験した。
***
(なーんて初々しい時期もありましたよ)
昼下がりの喫茶店、私は明るい大通りに面したテーブルに頬杖をつきながら、フッと自嘲を込めて息を吐いた。背後では客の来店を知らせるベルが鳴った。
「いらっしゃいませ、エレミア様」
「ありがとう。いつもの席は空いてる?」
「ええ、ご用意してございますよ」
慣れた様子で始まった会話に、私は耳ざとく注意を向ける。
「おや、それは新しく購入されたもので?」
「そうなんだ。宝石を集めるのは、そう……将来への投資みたいなものだよ」
「ははあ、流石、エレミア様はきちんとされていますねぇ」
「あはは、そんなことないよ」
年嵩の店主と若い男性客が言葉を交わすのを聞きながら、私はちらと視線だけを寄越した。
仕立ての良い服に毛皮のコート、確認している懐中時計にはきらめく宝石が埋め込まれている。そしてあの若さに加え、ぽやっとした顔つきと垂れ目と涙ぼくろが与しやすさを演出していた。後半はほとんど言いがかりだが、まあそれは置いておく。
……間違いない。ほぼ確実に、あれは世間知らずのボンボンだ。
私はグラスの底に残っていた氷をストローでつつき回しながら、その男に視線を定める。――決めた。
(次のカモはあの男にしよう)
幼い頃に初めての盗みをはたらいてから早十年あまり。私はすっかり盗みを生業にする小悪党と化していた。とはいえ、とびきりの金持ちを狙い澄まして、ほんの少しだけ、ちょっとだけ金目のものを拝借するだけである。どうせ巨額の富があるんだから、少しくらい頂いたって命には関わらないだろう。捕まったらそれなりの刑を受けることになるとは思うが、死罪になるほどのことではない……と、思っている。
まあ、申し訳ないと思うけれど、これが、私の……私たちの生き延びる術だった。
ぱさ、と音を立てて、私のハンカチが床に落ちた。しかし私は素知らぬふりで、店内を横切って店を出ようとする。……我ながらベタだとは思うけれど、案外こういう分かりやすいのの方が良かったりするのである。
私は全身を集中させながら、落ち着いた歩調で、そのときを待った。
「失礼、落とされましたよ」
そんな声と共に肩に手がかけられた瞬間、私は内心でぐっと拳を握ったのだった。
「ごめんなさい」と私は慌てて振り返り、差し出されたハンカチを受け取りながら相手の顔を確認する。先程確認したボンボンの顔で間違いなかった。
近くで見てみれば意外といい顔をしている。これはもしかして女慣れしているかもしれない。だとしたら強敵だ。気を引き締めねばなるまい。
私は胸の前でハンカチをそっと抱いて、慣れた表情で破顔し、彼に一歩近づいた。
「ありがとうございます。大切なものなんです」
その辺で安売りしていた代物である。
「母が遺してくれたハンカチで……」
ちなみに一昨日買った。
「まさか落としてしまうなんて」
言わずもがな、わざと落としたのだけれど。
「……本当にありがとうございます。もしよろしければ、何かお礼をさせていただけませんか?」
にこり、と笑って、私は青年の顔を見上げた。
***
(さすが、良いとこの坊ちゃんって凄いわ……不用心にもほどがある……)
私はもはや驚嘆しながら、引き出しにずらりと並んだ宝石の数々を物色していた。決して専門家ではない私にだって、ここにあるのがどれも一級品であることが分かる。
これらを売り払えば、一体どれだけの金になるだろう。
(だ、だめだめ……全部を盗むのは流石にまずいわよ)
時刻は既に夜中。誰もいない暗闇の室内で、私は一人ぶんぶんと首を横に振った。
――ここまでの経緯を整理しよう。
私が喫茶店で声をかけたボンボンは、あのあと『一目惚れしたんです!』という私の雑な演技に『奇遇だね、僕もなんだよ!』とこれまた訳の分からない返答をよこした。ボンボンはそのまま『じゃあ僕たち恋人だね!』と浮かれた結論に達し、何とその三日後には私をお屋敷に招待してくれた。ばかりか宝石のコレクションの場所まで詳細に教えてくれた。
こうまで来ると、もはや逆に何かの策略なんじゃないかという気までする。それくらい、今回カモにした坊ちゃんはチョロかった。
(あんなにアホで、この先の人生大丈夫かな……)
どの口が言うのか、と白々しい心配をしながら、私は引き出しに手を差し入れ、そっと一つの指輪をつまみ上げた。
目の高さに指輪を掲げながら、私は頬に手を当てて息をつく。
「うん、これなんてとっても素敵……」
大きなダイヤの嵌まった指輪。デザインも華奢でとても可愛い。売ったらとても良い値がつきそうだ。
(よし、これを盗もう)
そうと決まればさっさとトンズラするのみである。
明かりの灯されていない室内だったが、その透明な石は窓から差し込む月明かりに照らされてきらきらと繊細に輝いた。なんて綺麗なんだろう。
こうして、盗むと決めたものを眺めているとき、私はいつも、かつての記憶を思い出すのだ。足下に転がった銀色のスプーンを取り上げたときの、あの張り詰めた罪悪感と、美しさに目を奪われる夢見心地、……そして、目の前のものが決して私のものではないという、どうしようもない虚しさ。
この指輪は盗んだらすぐに闇商人のところに持ち込んで換金する。その金の行き先はもう決めている。だからこの指輪が私のものになることは決してない。けれどそれでも構わなかった。……私は、この指輪を盗む。
暗い部屋は冷え切っていた。指先は常のようにひんやりとしている。私は項垂れるように指輪を見下ろした。
「良いなぁ。私もいつか、こんな素敵な指輪……」
気がついたら、利き手とは反対の手袋を外し、おずおずと指輪を嵌めていた。試しに中指に指輪をくぐらせる。リングの冷たさ。私の手で輝く宝石。
束の間の甘美な光景を噛みしめるように見つめていた私の背後で、いきなり、朗らかな声がした。
「――うん、とてもよく似合ってるよ。それは婚約指輪にと思って買ったんだ」
「ヒッ!?」
息が止まる。私は弾かれたように振り返り、指輪を嵌めて遊んでいた左手を背に隠した。逃げるように壁際まで下がった私の目の前にいるのは、この屋敷の主――ボンボンである。
「あ、あの、これは……」
まずい。こんなところで捕まるわけにはいかなかった。
(どうやってこの場を切り抜ければ良い)
背中を冷や汗が音もなく伝う。私は顔を引きつらせ、動転して首を横に振った。
誰もいないと思っていた暗い部屋の中央で、彼は腕を組み、大きく頷きながら満面の笑みを浮かべていた。
「それが気に入ったのなら君にプレゼントするよ。何ならここにある全てをあげたって良い。僕の財産は僕の奥さんのものだからね」
「あ、え……? ぷれ……おくさん……?」
何を、言っているのか、分からない。私は絶句し、その場でへたり込む。
(何が何だか、分からないけど……)
この男はやばい。直感がそう告げていた。警鐘が激しく打ち鳴らされる。これ以上関わってはいけない。近づいてはいけない。
(――今すぐ逃げなきゃ!)
壁に手をつき、何とか立ち上がると、私は相手を見据えた。
「あの、……今晩、泊まらせて頂くという話でしたけれど、……急用を思い出しまして。これにて帰らせて頂こうかと……」
「そんな、まだ体に酒が残っているはずだよ。さっきまであんなにフラフラだったんだから、明日の朝まで休んでいくと良い」
ちなみに私はザルである。
私は引きつった笑みで首を振った。
「いえいえ、そんなご迷惑をおかけする訳には……」
「それとも何か不備があったかな。もしかして客間に至らないところでもあった? 君の部屋の準備が間に合わなくてごめんね。今、急いで用意しているところだから……」
「そ、そうじゃなくて! いやほんとに、ほんとにマジで急用なんですって! すごい緊急の、そりゃもうとんでもない用事を思い出しまして!」
首を振る勢いを強めながら、私は手から指輪を抜き取り、腰が引けた状況で相手に突き返す。「ごめんなさい、見ていただけなんです!」と差し出すが、腕を組んだままきょとんと見返してくるだけで、何故か受け取って貰えない。受け取れよ! 元々あんたの所持品でしょうが!
「それは婚約指輪だよ?」
「はあ?」
もう話にならない。私は頭を掻きむしる。
この男が言っていることがさっぱり分からない……というか、分かりたくない。が、先程からこのボンボンが妙なことを口走っているのは流石に薄々感づいていた。
(こいつ……さっきから妙に……『あれ』を仄めかしてくる……)
その『あれ』がなんなのかを直視しないようにしながら、私はさりげなく扉の方に歩み寄る。
「じゃ、じゃあこれにてサヨウナラってことで……」
「ちょっと待ってよ」
(何でよ!)
すすす、と移動して扉の前に立ったボンボンを見上げながら、私は顔を引きつらせる。まずい、何とか無事にここから逃げ出す方法はないだろうか。
私が必死に考えを巡らせているのをよそに、彼は逃げ場を塞ぐように扉を押さえた。そして真剣な表情で私に訴える。
「僕たち恋人でしょ? 困っていることがあるなら教えて欲しい」
「なるほど。じゃあ別れましょう。終了」
即断即決した私に、彼は心底悲しげな顔をした。悲痛な面持ちで眉根を寄せる。
「僕たちは運命じゃないか。それなのにこんな風に別れるだなんて……僕は納得いかない」
「何言ってんの!? 出会ってからまだ三日だよ!? さっさと忘れて次の恋を探しなって!」
ついつい最大音量でツッコミを入れてしまってから、私はごくりと唾を飲んだ。
やばい、なんかほんとにこの人やばい。今更になって私は自分が人選を誤ったことを悟っていた。彼は私に歩み寄り、両肩に手をかける。ぐっと身を屈め、端正なお顔が真剣な表情とともに近づいた。
「君だって、一目惚れだったって言ってくれたじゃないか。それなのに僕のところから逃げようとするなんて。じゃあ一体どんな点が不満だったのか聞かせて欲しい。何としてでも改善してみせるよ」
「強いて言えば付き合って三日の女にそういうこと言う点だよ~!」
私は半泣きで叫んだ。この人の言っていることが本気で分からない。大体『運命』って何だよ、こっちは適当に嘘ついて接近して屋敷に侵入したかっただけなんですけども……!
もうこうなったら仕方ない。私は意を決して彼を睨みつけた。
「――申し訳ありませんけど、私、あなたのことなんてちっとも好きじゃないんです。私はあなたの持っている財産に興味があるだけ。あなたになんてこれっぽっちも興味はないわ」
「うん、僕は金持ちだよ。そういうところも好きになってくれたんだね、嬉しいなぁ」
「は…………?」
あまりに予想外の返答に、今度こそ私は完全に呆気に取られた。普通、金目当てだったと告白されたら怒るか失望するところでは?
「えっと……ええ? その、」
(こいつは何を言っているんだ?)
困惑混じりに私は指輪をつまみ上げたまま立ち尽くした。きっと私はさぞかし間抜け面をしていることだろう。こうなったらもう仕方なかった。
こいつと『あれ』、そう――法的に何やかんやの契約を結ぶ『あれ』をするくらいなら、大人しくお縄につく方がちょっとだけマシな気がする。
私は慎重に切り出した。
「……最近巷で噂の、女泥棒っているじゃないですか。知ってます? この街で金持ちの家に侵入しては盗みを繰り返してるやつ……」
何が悲しくって自分でこんな話をしなきゃならないんだろう。私は虚しさに遠い目をする。彼は少し顔を上向けて、考えるような仕草をしたのちに小さく頷いた。
「あー、確かにそんな話を聞いたことがあるかもしれない。その女泥棒がどうかしたの?」
「それ、私です」
「………………。」
彼は三秒ほど私を無言で見下ろした。それから「あはは」と首を振りながら苦笑する。
「またまたそんな下手な作り話を」
「本当だよ!」
私は地団駄を踏みながら叫んだ。せっかく腹を決めて自首したのに、自首を拒否されるなんてことがあるのか!
依然として私の肩に置かれたままの両手には、さっきから徐々に力が加わってきていた。私を床に縫い止めようとするようなその動きに、思わず頬が引きつる。
「君がそんな下手な言い訳で誤魔化してしまうということは、きっと他に何か……理由があるんだね? これ以上僕と付き合っていられない、そんな事情が……。どうかそれを聞かせて欲しい。僕が絶対に何とかしてみせる」
「いえ、そんな重たい事情はないのでご心配なく」
一歩後ろに下がろうとするが、肩を押さえつける手が背に回されて動きが封じられた。目の前ではお育ちの良さそうな坊ちゃんが嬉しそうに破顔していた。
「そっか、それなら良かった。じゃあ問題はないってことだね?」
「いや、問題がないとは……言ってないというか……!」
「ん?」
私の言葉を制するように弧を描いた、その唇がゆっくりと開いてゆく。多分『あれ』に関する何かを言おうとしている。しかも何となく内容に察しがつく。眼前の微笑みを恐ろしいような心地で見つめながら、私は必死に絡みつく腕から抜け出そうとしていた。
私のカモだったはずの富豪エレミア・オストライアは、そっと私の頬に手を添えながら囁いた。
「――結婚しよう、レティカ」
「死んでもお断りよ、気色悪い!」
咄嗟に握りこぶしが出ていた。指の節に重い衝撃。ボンボンは大きく仰け反る。私は緩んだ腕の中からするりと抜けだし、身を翻して窓を目掛けて走り出した。背後から情けない声が響く。
「ああ! 待って、レティカ!」
「それも偽名だし!」
捨て台詞のように叫ぶと、私は窓を大きく開け放ち、桟に足をかけて体を浮かせ――そしてひと思いに外へと飛び出したのだった。
隣の家の屋根にダン、と着地し、足裏の痺れに数秒耐えると、私はくるりと振り返る。果たして、私が先程飛んできた窓からは、ボンボンが顔を覗かせていた。
どうやらその目からははらはらと涙が零れているようだった。嘘だろ。愕然として見上げてくる私に手を伸ばして、彼は悲痛に顔を歪める。私は思わず「はは……」と乾いた笑いを漏らした。
「レティカ……行かないで、僕は君のことを……」
その弱々しい声に、私は嘲笑と呆れ混じりに肩を竦める。
「知り合って三日でそれは感情デカすぎっていうか……。私は本気であなたの今後がしんぱ」
「違う」
しかし彼は私の言葉を遮り、断固とした口調で首を振った。その指先が、窓の桟を強く握りしめる。
そして彼は哀切な表情で告げた。
「レティカ。――僕は、君のことがずっと好きだったんだ」
……何だって?
一瞬虚を突かれて停止してしまったが、私はすぐに立ち直って勢いよく否定する。
「いやー、それ絶っっっっっっ対に人違いっすよ」
だって今まで会った記憶ないし。こんな金持ちと知り合う機会なんてありませんですし。
「聞いて欲しい、レティカ、君のおかげで今の僕がいるんだ。君が僕を変えたんだよ。今度は僕に君を救わせてほし」
「いやいや、全然身に覚えがないですってば」
放っておくといつまでも続きそうだったので遮る。私が首と手をぶんぶんと横に振って断言すると、彼は眦を下げ、悲しげな顔をした。責めるような眼差しに気まずくなる。え、これ私が悪いの? 勝手に人違いした方が責任あると思います……。




