9話 メイドのクラリスは行方知れず
俺とフィリア殿下は二人して紅茶をじっくり味わって飲み、それからカップを机の上に置いた。
同時に殿下が立ち上がった。
「今度こそ着替えてこなくちゃ。怒られちゃうもの」
「怒られるって誰にですか?」
俺が疑問の声を上げたときには、フィリア殿下は寝室の方へと引っ込んでいた。
一人残された俺はぼんやりと考え事をした。
寝室の方からは衣擦れの音がしてきて、フィリア殿下が着替えているということを意識させられる。
14歳の女の子にやましい感情を抱いたりはしないけれど。
ちょっと無防備なんじゃないかなとも思う。
ルーシィ先生は言っていた。
殿下の美しさは可憐な百合の花にもたとえられ、殿下の聡明さは古の賢者にも匹敵するという素晴らしい方だ、と。
なるほど。
たしかにフィリア殿下は容姿端麗な美少女だ。そして、頭の回転も早い。
けれど、俺にとっては皇女の不思議な明るさのほうがずっと印象に残った。
天真爛漫で、魅力的で、でもどこか無理をしているような明るさ。
どうして皇女はああいうふうに振る舞うようになったんだろう?
考えがまとまらないうちに、ノックの音がした。
どうぞ入ってください、と俺が言っていいのかな?
俺がためらっているうちに、扉が静かに開けられた。
「殿下? いらっしゃらないんですか?」
ひょこっと、一人のメイドが顔をのぞかせた。
着ているのはさっきまでフィリア殿下が着ていたのと同じメイド服。
けっこう美人だけど、ちょっとそばかすが目立つ女性だ。
相手の女性が俺を見て、おやという不思議そうな顔をしたので、俺は立ち上がった。
「はじめまして。俺は殿下の家庭教師だけど」
「へえ。新しい家庭教師の方ですか。気の毒に」
彼女はとても冷ややかに言った。
気の毒に?
どういう意味だろう?
そのメイドは続けて言った。
「殿下に伝えておいてくださいな。自分の侍女の管理ぐらいしっかりしてくださいと」
「なにかあったの?」
「ええ! フィリア殿下付のメイドはですね、何をやらしても失敗ばかり。そのうえ、今度はどこに行ったかわからないんですよ!」
「はあ」
俺が曖昧にうなずくと、不機嫌そうにそのメイドは去っていった。
なんだか彼女はとても棘のある雰囲気だった。
皇女と皇女のメイド。そのどちらに対しても悪意を持っているように感じた。
「ごめんね? ソロンに応対させちゃって。メイド服着たままあのメイドさんに会ったら、ものすっごく怒られちゃうし。あ、いまは着替えてきたよ?」
気づくと、皇女フィリアが着替えを終えて、俺の横に立っていた。
フィリアは紺色のワンピースに身を包んでいた。
肩出しのシンプルなデザインだけれど、上質な素材が使われていることは明らかで、メイド服よりはずっと皇女らしい服装だ。
「どう? ソロンはこの服、似合ってると思う?」
くるり、とフィリア殿下は身を翻してみせた。
ワンピースの裾がふわりと揺れる。
俺は微笑した。
「似合っていますよ。とてもお姫様らしい服装だと思います」
「そうかな」
えへへ、とフィリア殿下は笑った。
「この服はね、わたしの侍女が選んでくれたの」
「へえ。その人はいいセンスをしていますよ」
「うん。家事はできないし、頼りないけど、わたしにいろいろ教えてくれる、優しいメイドの子だよ。でも……」
急にフィリア殿下は真剣な表情になった。
その綺麗な瞳が憂いを帯びる。
「そのわたしのメイドは行方不明なの」
「行方不明?」
「もう3日前から、お仕事に来ていないの」
なるほど。さっきのそばかすのメイドは「何をやらせても失敗ばかり。そのうえ、今度はどこに行ったかわからない」と言っていた。
俺がそのことにふれると、フィリア殿下は首を横に振った。
「たしかにあの子はメイドとしては要領が悪いけど、真面目な子だよ? いきなり来なくなったりするなんて、そんなこといままでなかった」
「それは心配ですね」
「それにソロンがわたしの家庭教師としてやってくるって聞いて、すごく喜んでいたのに。その子、あなたの大ファンなの」
「本人に会ってがっかりしないといいですけど」
「がっかりなんてしないと思うよ?」
「どうでしょう」
そういえば、帝都に戻ってくる途中、「英雄ソロン」の大ファンだと言ってくれる女の子がいたっけ。
たしかその子も皇宮務めのメイドで、名前はクラリスって言った。
そのときは俺は偽名を名乗っていたから、俺がソロンだとはその子は知らなかったけれど。
俺はクラリスの前で正体を隠したまま魔法剣士として山賊を倒した。そのときにクラリスが俺に向けたきらきらと輝く瞳を思い出す。
ああいう目で見つめられるのは、嬉しいけれど、少し気恥ずかしい。
一方で、フィリア殿下はため息をついていた。
殿下は言った。
「早くクラリスにもソロンと会わせてあげたいのに」
「へ?」
「あ、わたしの専属メイドはね、クラリスっていうの。亜麻色のとっても綺麗な髪をした、ちっちゃくて可愛い子だよ」
そうか。
フィリア殿下のメイドがクラリスだったのか。
世間は狭い。
俺がフィリア殿下に経緯を説明すると、殿下はちょっと驚いた後、楽しそうに笑った。
「すごい偶然! 運命の赤い糸ってやつだね!」
「けど、俺は偽名を名乗っていましたからね。ちょっと気まずいというか……」
「そんなこと、クラリスは気にしないと思うよ? でも、ともかくクラリスが行方不明のままじゃ、ソロンのことも紹介できないよね」
「心あたりはないんですか?」
「クラリスは住み込みのメイドだから、いきなりいなくなるなんて、普通ならありえないと思うの。実家は遠いし、帰るなら先に言ってくれるはずだし」
うーん、とフィリア殿下は頭を抱えた。
一人しかいない専属メイドがいなければ殿下にとっては大問題だろう。
単純に、若い女性が三日間行方不明というのは穏やかじゃない。
家庭教師の業務の範囲ではないけれど、なんとかしてあげたいところだ。
けれど、手がかりがない。
そのとき、扉の近くから音がした。
郵便受けに手紙かなにかが入れられたようだ。
広大な皇宮では、各部屋に郵便受けがついているのだと思い、俺はちょっと感心した。
俺はそこから手紙を回収すると、フィリア殿下に手渡した。
「殿下、お手紙みたいですよ」
「ありがと。あと殿下って呼び方、堅苦しいから、別の呼び方がいいな」
「別の呼び方、ですか」
「普通にフィリア、でいいよ」
「それはちょっと恐れ多い気がしますが……」
「いいのいいの。ね、フィリアって呼んでみて」
「フィリア様?」
「ダメだよ? 呼び捨てじゃないと」
「あー、えっと、フィリア?」
「そうそう。もう一回」
「……フィリア」
俺は顔を赤くしながら言った。
相手が皇女なのに呼び捨てというのは抵抗感がある。
でも、それだけじゃなくて、初対面の女の子の名前を何度も呼び捨てにするのが、単純にちょっと気恥ずかしいというのもある。
殿下は、いや、フィリアはとても嬉しそうに微笑んだ。
「わたし、名前を呼ばれるのって大好きなの」
「どうしてですか?」
「だって、誰もわたしの名前なんて、呼んでくれないし」
フィリアは笑顔のまま、そう言った。
俺は余計なことを聞いたな、と後悔した。
何の力もない皇女には、誰も近付こうとしない。
皇宮の誰もフィリアのことを必要としていないし、フィリアが頼るべき相手が誰もいないということだ。
皇族も臣下も彼女のことを無視してきた。
名前が呼ばれない、ということはフィリアの孤独の象徴なのだ。
もしフィリアのことを名前で呼ぶ例外がいるとすれば、彼女のメイドであるクラリスぐらいだ。
俺は言った。
「やっぱり、呼び捨ては勘弁してください」
「わたしの名前を呼ぶの、嫌?」
少し不安そうに瞳を曇らせ、フィリアが俺に問いかける。
俺は微笑した。
「嫌ではないですけど、俺が恥ずかしいんですよ。フィリア様にはわからないかもしれませんけれど」
俺が「フィリア様」というのを聞くと、フィリアは目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「うん。仕方ないか。『フィリア様』って呼び方でも許してあげる」
「フィリア様のご配慮に感謝します」
俺がおどけて言うと、フィリアはくすくすっと笑った。
しかし、突然、彼女は凍りついたように表情を固まらせた。
フィリアは封を切った手紙の中身をこちらに見せた。
そこにはこう書かれていた。
「メイドのクラリスは預かった。その命が惜しければ、皇女一人で取り返しに来い」
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