72話 お風呂上がりの皇女
俺は寝室のベッドの上に腰掛けて、ぼんやりと天井を見上げた。
クラリスはメイドらしく仕事をしていて、ソフィアたちはエステルを風呂に入れているから、この部屋にいるのは俺だけだ。
エステルの父親である七月党幹部ポロスが、処刑場から逃走したという。
彼がどのように動くのかはわからないが、七月党の残党と合流を図る可能性が高いだろう。
そうなれば、愛娘のエステルを殺したことになっている俺に、復讐しようとしてもおかしくない。
より差し迫った問題は、皇女イリス、そしてフィリアの二人が、死都ネクロポリス攻略の総指揮官になるらしいことだ。
もちろん、実質的に遺跡の攻略をまとめるのは、救国騎士団団長のクレオンだとは思う。
イリスとフィリアはネクロポリス攻略を国家事業であることを示すための象徴にすぎない。
それでも、フィリアたちは遺跡に赴くことになる。
二人の可憐かつ高貴な少女がいれば、たしかに冒険者たちの士気は上がるだろう。
けれど、二人の皇女にはほとんど戦闘力はないし、攻略作戦が失敗したとき、誰も彼女たちを守れず、最悪の事態が起こることも考えうる。
しかも、フィリアが遺跡攻略に関わるように仕組んだのは、さらに別の理由があるような気もする。
フィリアは魔王の子孫だ。
賢者アルテはフィリアを魔力供給の道具にしようとしていた。今回も誰かがフィリアを何らかの形で利用しようとしているのかもしれない。
つまり、もしネクロポリス攻略作戦を阻止できなければ、フィリアの身も危険にさらされることになる。
どうしようか、と考えていたとき、寝室の扉が開いた。
フィリアが頬を上気させて、立っていた。
どうもお風呂上がりらしい。
それはいいのだけれど、身につけているのがバスタオルだけだった。
フィリアの薄い胸から、膝上のかなり際どいラインまでが、布一枚で覆われている。
「あ、ソロン。いたんだ」
フィリアがちょっと恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに微笑んで、俺とほとんど密着するぐらいの距離に腰掛けた。
ふわりといい匂いがして、俺はどきりとした。
改めて、フィリアが女の子なんだなと意識させられる。
「フィリア様……そんな格好でベッドに座らないでください」
「だって、もう身体はちゃんと拭いてるし、ベッドが濡れたりする心配はないよ?」
「そういう問題ではなくてですね……」
「あ、もしかしてわたしのバスタオル姿を見て、照れてるんだ?」
フィリアはいたずらっぽく俺を見つめた。
銀色の髪はまだ水分を含んでいるのか、いつもより輝いて見えた。
えいっと、フィリアが俺に抱きつこうとしたので、俺はとっさに立ち上がってそれを避けた。
そんな裸同然の格好で正面から抱きしめられたら、ちょっと困ってしまう。
フィリアの手は空を舞い、そのまま勢いよくベッドにうつ伏せに倒れ込んでしまった。
あう、とフィリアがつぶやく。
「す、すみません。フィリア様」
俺はフィリアを見下ろす形になったが、背中側からもフィリアの身体のラインがはっきりわかって、思わず顔を赤くして目を外した。
避けたのは悪かったけれど、それはそれとしてあまり俺をからかわないでほしいのだけれど。
フィリアは起き上がると、腰に手を当てて、頬を膨らませて俺を睨んだ。
「ひどいよ、ソロン。避けたりしなくてもいいのに。さっきだって、お風呂場でエステルのこと抱きしめようとしたら、逃げられちゃったし」
「それはエステルとはまだ会って間もないですし……あまりそういうことはなされないほうがよいかと思います」
「でも、エステルはソフィアさんにはすごく懐いてるんだよ? ソフィアさんが髪を洗ってあげたら、くすぐったそうにしてたけど、嬉しそうに受け入れていたのに」
なんとなく想像がついた。
年下の少女をかまおうとして空回りしているフィリアと、適度な距離感でエステルに優しく接しているソフィア。
二人の性格の違いが現れいる。
まあ年下の女の子からしたら、ソフィアのほうがきっと付き合いやすいんだろう。
フィリアだけ先にここに来ているのも、たぶんソフィアとエステルはまだ一緒にいるからだろうと思う。
「エステルは仕方ないけど、ソロンにまで避けられるなんて……。わたし、傷ついたんだよ?」
「避けたつもりはなかったんですが、その、とっさのことでしたので。それに、そんな格好のまま抱きつかないでください……」
俺はぼそぼそと言った。
フィリアは目を丸くし、それからにやりと笑った。
「やっぱりソロンは照れているんだ?」
「いえ……そういうわけではありません」
「本当かなあ? 変なこと、考えていない?」
「フィリア様に対してやましい気持ちなんてこれっぽちも持っていませんから」
「なら、ソロンのほうからわたしを抱きしめても平気だよね?」
「へ?」
「そうしないと、わたしのことを避けたのを許してあげないんだから」
フィリアは楽しそうに弾んだ声でそう言った。
やり取りしているうちに、フィリアの着ていたバスタオルが少し乱れていた。
胸元のあたりがちらりとめくれている。
こんな布一枚の状態のフィリアを抱きしめるのか。
フィリアが挑発するように俺にぐっと近寄った。
「できないんだ?」
まあ、たしかにフィリアを避けたのは俺が悪かった。
それに、ここで逃げれば、フィリアに対してやましい気持ちがあると誤解されかねない。
俺は仕方なくフィリアの背中に手を回した。
どきっとしたようにフィリアが震え、後ずさろうとした。
いざとなったら恥ずかしくなったのかもしれない。
けれど、俺に抱きとめられ、フィリアは身動きがとれなくなった。
正面から俺たちは抱き合う格好になり、フィリアの顔が俺の胸に埋まった。
見下ろすと、フィリアの顔がかつてないくらい真っ赤になってる。
俺は微笑した。
「照れているのは、フィリア様のほうですね」
「そ、そんなことないもの」
「本当ですか?」
「やっぱり……恥ずかしいよ」
「そうでしょう? それがわかったら、フィリア様もエステルや俺の気持ちを考えて、いきなり抱きつこうなんてしないでくださいね? 師匠としては、フィリア様には人の気持を思いやれるようになってほしいですから」
俺が冗談めかして言うと、フィリアはうなずいた。
「うん……そうだね。でも、恥ずかしいけど……わたしは、平気だもの。だから、ソロンはいつでもわたしのことを抱いていいんだよ」
「俺がいきなりフィリア様に抱きついたりすると思います?」
「そうしてくれると、わたしは嬉しいよ?」
俺とフィリアは顔を見合わせ、それからくすくすっと笑った。
慣れてくると、お互い恥ずかしさはなくなってきて、ただ互いの身体の暖かさがだけが感じられるようになってくる。
俺は師匠としてこの子を守らなくてはいけない。
ネクロポリス攻略作戦を白紙にできれば、それが一番良いが、無理だった場合はどうするか。
そのとき、俺ができることは二つある。
一つは、それまでにフィリアにできるかぎり遺跡に慣れてもらい、少しとはいえ実戦経験を積ませてあげることだ。
一度でも遺跡に行った経験があるとないとでは、危険度が段違いだからだ。
そして、もう一つは、俺がフィリアの護衛としてネクロポリス攻略作戦に参加することだった。






