70話 皇女と反逆者の娘
熱い心と冷静な頭脳。
俺はフィリアにその両方を教え、導かなければならない。
そして、目の前のエステルの問題も、なんとかする必要がある。
俺とフィリアが話しているあいだに、エステルはだいぶ落ち着いたみたいだった。
エステルは涙をぬぐい、きょろきょろと部屋のなかと、俺たち三人を眺めていた。
まだエステルは裸のままだ。
早いところ服を着てもらわないと、話が進められない。
フィリアが服を持ってきているはずだ。
俺はエステルに背を向けて、ドアのほうへと歩いた。
「なにしてるの?」
とフィリアに問われたので、俺はドアノブをつかんで答えた。
「女の子が服を着るのに、男の俺が一緒の部屋にいるわけにはいきませんよ。いくら十歳ぐらいの子といっても」
「わたし、十歳じゃなくて十一歳です」
と小さな抗議の声がした。
エステルが言ったのだ。
年齢の割に、落ち着いた綺麗な声だと思う。
まあ、でも、十歳だろうが十一歳だろうが、かなり小さな女の子であることに変わりはない。
その一方で、異性に裸を見られて平気でいられるほど、幼いというわけでもないだろう。
「年齢を間違えてごめん。ともかく、俺は部屋を出ていくから」
ところが、ソフィアが俺の行動を止めた。
「ソロンくん。この子、服を着るまえに一度、お風呂に入れてあげたほうがいいと思うの。その……」
エステルの身体の汚れがひどいんだろう。
たしかにエステルを死んだようにみせかけたときに、動物の血が付着しているはずだ。
それを抜きにしても、処刑場でのエステルは服と呼べないようなぼろ布を身に着けていて、ろくに身体も洗うことができていなさそうだった。
よほど牢での扱いがひどかったんだと思う。
ただ、風呂に入ってもらう前に、エステルには経緯をわかっておいてもらう必要がある。
「毛布をかぶってもらったから、ソロンくんがこの子のほうを見ても大丈夫だよ。わたしにも事情を説明してほしいな」
ソフィアに言われて、俺は振り返った。
たしかにエステルは白い毛布をかぶっている。
俺が夜更けにこの書斎で作業するときに、寒かったら使っているものだ。
手短に、俺はソフィアにどうしてこの女の子がここにいるかを説明した。
エステルが反逆者ポロスの娘であり、処刑されかけていたこと。
フィリアの願いによって、俺がエステルを助けたこと。
ソフィアはそういった事情を聞いて、困ったような、複雑な表情をした。反逆者の娘というエステルの立場を聞いて、ソフィアも心配になったに違いない。
けれど、ソフィアは何も言わずに、「わかったよ」とだけ言ってくれた。
エステルのいる手前、あまり込み入った話はできない。
エステルは毛布にくるまれたまま、ちょこんと首をかしげ、栗色の髪が揺れた。
「お兄さんがわたしを処刑から助けてくれたんですか?」
「まあ、そういうことになるかな。ここは俺の屋敷だよ。君を殺したように見せかけて、ここまで連れてきたんだ。だから、とりあえずは安心してくれていい」
「ありがとうございます。あと……悲鳴を上げたりしてごめんなさい」
「裸で部屋に寝転されていて、俺みたいな男がいたら、悲鳴を上げて当然だよ。それにね、お礼を言うのも、俺なんかよりフィリア様に言ったほうがいいよ」
「皇女殿下に?」
「そのとおり。君を救おうと言ったのは、フィリア様だからね」
もし俺一人が判断していれば、俺はエステルを助けなかったかもしれない。
俺が守るべきなのはソフィアであり、クラリスであり、そしてフィリアなのだ。
エステルを見殺しにするほうが、国に楯突いてエステルを助けるより、ずっと危険は少なかった。
だから、フィリアたち三人を守るという意味では、俺はエステルを助けるべきでなかった。
あくまで、エステルを助けたのはフィリアの意思によるものだ。
エステルはおどおどと、フィリアのほうを見つめ、小声で言った。
「あ、ありがとうございます。皇女フィリア殿下のおかげで、わたしは……」
フィリアは嬉しそうに目を輝かせ、弾んだ声で答えた。
「そんなに固くならなくていいんだよ? フィリアお姉ちゃんって呼んでくれてもいいんだから!」
「お、お姉ちゃん!?」
「うんうん! わたし、仲の良い姉も妹もいなかったから、憧れだったの!」
「そ、そうなんですか……」
「それにエステルってすごく可愛いし。こんな妹がいたらいいなって思ってたの。ね、お姉ちゃんって呼んでみて?」
エステルはもじもじしながら、顔を赤くして、「ふぃ、ふぃ」と口ごもっていた。
たぶん、「フィリアお姉ちゃん」と言おうとして、ためらっているんだと思う。
相手は皇女殿下だし、そう気軽に姉などと呼べないだろう。
「フィリア様。エステルに無理をさせてはいけませんよ」
俺がフィリアをたしなめると、フィリアは残念そうにしながらも、「仕方ないよね」とつぶやいた。
フィリアがいいと言っていて、エステルもまだ小さな女の子だから、「フィリアお姉ちゃん」と呼ぶぐらいは、冗談の一種としては許されるかもしれないけれど。
そういうのは、フィリアがもっとエステルと仲良くなってからすればいいと思う。
皇女と反逆者の娘が仲良くなる、ということができればだけれど。
俺は暗い気持ちになった。
伯爵ポロスには若い妻がいて、エステル以外に、二人の娘がいたと聞いている。
だが、エステルの家族は帝国政府の手によって全員殺されたはずだ。
そして、フィリアと俺は帝国政府側の人間だ。
特にエステルの父親であるポロスを倒し、彼が処刑される原因を作ったのは俺だった。
エステルにどう説明して、どういうスタンスでエステルを匿っていけばいいんだろう?
俺がエステルを見つめると、エステルと目があった。
エステルは青い澄んだ瞳で俺を見返した。
そういえば、エステルは何一つ、自分の家族に関することを尋ねていない。
おそらく、自分の家族がどうなったか、理解しているんだと思う。
「ね、ソロン。これからエステルをお風呂に入れてくるけど、いい?」
「そういうのはクラリスさんにお願いしたほうがいいですよ」
「でも、わたしがこの子と一緒にお風呂に入りたいの」
「まあ、いいとは思いますが、ソフィアにも一緒にいってもらいましょうか」
ソフィアが「わ、わたし」とつぶやいて、自分を指さして、きょとんとした顔をした。
なんでソフィアにも頼んだかといえば、フィリアだけだと不安だからだ。
命が助かって一時的に落ち着いた状態とはいえ、エステルはちょっと前まで処刑寸前まで追い詰められていたのだ。
精神が不安定になってもおかしくない。
そんなエステルを、年がそれほど変わらないフィリアに任せるのは少し心配だ。
幸い、この屋敷には大理石でできた豪華な大浴場がついている。
数人が同時に入るのは平気だ。
フィリアがくすっと笑った。
「一緒に浴場に行くのは、わたしとエステルとソフィアさんってことだね。ソロンも来る?」
「……遠慮しておきます」
まさか、男の俺が三人の少女と一緒に入浴するわけにはいかない。
ソフィアが顔を赤くして、小刻みにうなずいていた。
まあ、フィリアとエステルの監督は、ソフィアに任せれば平気だろう。
俺は肩をすくめて、部屋から去った。
困ったな。
死都ネクロポリス攻略作戦の阻止だけでなく、エステルの問題のような心配事がどんどん増えていく。
俺が屋敷の廊下をぼんやりと歩いていると、曲がり角で髪を丸刈りにした青年とばったり会った。
ノタラスだ。
彼はこの屋敷の客室を借りて、帝都に滞在していた。
聖ソフィア騎士団の解体と、クレオン救国騎士団の結成によって、彼の立場はよくわからないものとなっている。
そこで、彼はいったん様子見を決め込んでいるのだ。
ノタラスは丸眼鏡を指で押し上げた。
「これはこれは、ソロン殿。日刊紙の号外は読まれましたか? 大問題ですぞ」
「号外?」
ノタラスのくぼんだ瞳がメガネの奥で鋭く光る。
なんだか嫌な予感がした。
きっとろくでもない知らせだ。
俺はノタラスの持っていた新聞『日刊言論』の号外を受け取ると、それに目を通した。
主な報道は三つ。
一つ目は、定例の帝国大臣会議が開かれたこと。
これは重要なことなのだとは思うけれど、俺たちに直接関係するかはわからない。
問題なのは残りの二つの記事だった。
二つ目の記事は、七月党とその家族の処刑が実行されたものの、ただ一人、幹部のポロスが処刑場からの脱走に成功したということを伝えていた。
そして、最後の一つの報道は、ネクロポリス攻略作戦の名目上の総指揮官に、皇女イリスと皇女フィリアが選ばれたというものだった。






