69話 熱い心と冷静な頭脳
まずいなあ、と俺は思う。
クラリスたちが屋敷のなかのどこにいるかは知らないけれど、エステルの叫び声を誰かは聞きつけているんじゃないだろうか。
裸の幼女が俺を見て、悲鳴を上げているというのが、今の状況だけれど。
誰かがこの場にやってきたら、俺がエステルになにかしようとしていたと勘違いされること間違いなしだ。
俺は急いで部屋の扉の鍵を閉めようと思ったけれど、その前に扉が開いた。
「あ、ソロンくん。いま女の子の悲鳴が聞こえたような……」
聖女ソフィアが翡翠色の瞳で俺を見つめ、それから部屋の奥へと視線を移した。
部屋の奥の机では、エステルが一糸まとわぬ姿で、震えていた。
怯えた目でソフィアをエステルは見つめている。
ソフィアは愕然とした表情をした。
「そ、ソロンくん……。ついにこんな小さな女の子にまで手を……」
「手を出したりしないよ……」
「学校時代のわたしには何もしなかったのに!」
「そりゃ年が離れてたから、何もするわけないよ。この子にだって何もしていない」
俺が魔法学校に入学したのは十四歳のときのこと。他の同期たちはだいたい十二歳ぐらいだったから遅いほうだ。
さらに飛び級入学のソフィアは俺よりも五歳も年下で、一年生のときは九歳だった。そのときは本当に小さな女の子が、同じ学年にいるんだなあと俺は感心していた。
抜群の天才だったソフィアだけれど、周りが年上ばかりで、当時はかなりきつかったんじゃないかと思う。
魔法の能力や机上の勉強では引けを取らなくても、ソフィアの性格や思考までが大人びていたというわけでもない。
しかも、周りからは天才ゆえに嫉妬され、理解されない。
なので、一年生のときは、ソフィアはたびたび学校を休んで、寮に引きこもっていた。
そんなソフィアを心配して、当時の学院長の老人グレンが気を利かせた。
クラスメイトのなかからソフィアの世話係を選んだのだ。
貴族の同級生たちの多くはプライドが高かったし、ソフィアをやっかむやつも多かったから、平民出身者が良いだろう。
特に、ある程度は年齢が上で、まあ性格も普通で、しかも貴族の令嬢に仕えていたような使用人だったりすると、都合が良い。
つまり、俺のことだ。
俺は俺で周りよりも年上だったので、若干浮いていたし、ソフィアの相手をする時間はいくらでもあった。
ソフィアはおとなしかったし、いい子で助かった。それにだいぶ俺に懐いてくれていたから、それも当時の俺には嬉しかった。
よくソフィアが、俺に頭を撫でてほしいとねだっていたことが、昨日のことのように思い出される。
いじめられていたクレオンを助けて、友人になったのも同じぐらいのことだ。
つまり、聖ソフィア騎士団の起源は、この魔法学校の一年生時代にあるわけだ。
三人とも当時は本当に何の力もなかった。
いまはもうソフィアも十代後半で、大人の女性にかなり近づいてきている。
そのうえ、帝国教会に選ばれた聖女様だ。
けれど、俺のなかでは、ソフィアの小さかった頃の印象がまだ鮮明に残っている。
俺は微笑した。
「ソフィアはさ、俺がこんな小さな女の子にひどいことをすると思う? 俺はそういうやつだった?」
「その質問の仕方はずるいよ。ソロンくんは、わたしにいつも優しかったし、わたしをいつも守ってくれていたけど……」
「なら、いまの俺を信じてくれると嬉しいな。ちょっと事情があるんだよ」
ソフィアはこくりと素直にうなずくと、エステルにそっと近寄った。
エステルがびくっと震える。
ソフィアは身をかがめて、優しくエステルに微笑みかけた。
「大丈夫だよ。わたしも、この人も怖い人じゃないから」
「でも……」
「この人に、なにかされそうになった?」
ソフィアが問いかけると、エステルは俺をちらりと見た。
俺はエステルに剣をふりかざし、その直前で昏睡魔法をかけた。
だから、そこから先の記憶はエステルにはないはずだ。
そして、目をさますと、裸でこの書斎にいたわけだ。
エステルはあれ、という顔をして、首をかしげた。
「わたし、生きてる……?」
ソフィアは不思議そうに、けれどゆっくりとエステルに言った。
「そうだよ。あなたは生きているの」
エステルは青い瞳でじっとソフィアを見上げた。
それから、エステルの瞳に涙が浮かんだ。
「わたし、本当に生きて、るんですね」
そうつぶやくと、エステルは嗚咽をもらし、静かに泣き始めた。
ソフィアは何も事情を知らないはずだけれど、何かただならぬ事情があることに気づいたらしい。
ソフィアはそっとエステルを抱きしめた。
「大丈夫だよ」
「……お姉ちゃんはわたしを殺したり、わたしにひどいことをしようとしたりしない、ですよね?」
「しないよ。わたしはね、教会の聖女なの」
「聖女様?」
「聖女ソフィアっていえばわかるかな?」
エステルは涙のたまった瞳を大きく見開き、こくこくとうなずいた。
英雄ソフィアは帝国中で名前を知られた存在で、特にエステルのような少女たちにとっては憧れの的だったはずだ。
「聖女は、あなたみたいな女の子の味方だから。かつてわたし自身が、年上の男の子に守られてきたように、ね」
ソフィアは優しく言って、エステルを抱きしめたまま、その頭を優しく撫でた。
俺はその様子を見て、思わず微笑んだが、安心してはいられない。
逮捕された七月党とその家族たちはすべて処刑されているに違いない。
エステルの命はかろうじて助かったものの、彼女は反逆者ポロスの娘だ。
フィリアの希望にそって、この屋敷にエステルはかくまうことになる。
ただ、本来であれば生きていてはいけない人間が、この屋敷にいる、というのは危険が皆無とは言えない。
露見すれば、俺とフィリアの立場は極めて危ういものになる。
一方では、公衆の前でポロスの愛娘を殺したように見せかけたことで、七月党の残存勢力は俺のことを敵として狙ってくる可能性がある。
七月党は、幼いエステルの死を、帝国の非道として大々的に宣伝するだろう。
そうなれば、俺は帝国の残虐な処刑を代行した一人として、彼らに襲われかねない。
エステルの存在は、二重の意味で俺たちに危険をもたらしている。
俺が頭を回転させていたそのとき、フィリアが服をもって部屋に戻ってきた。
そして、泣いているエステルと、エステルを抱きしめているソフィアの姿を見て、フィリアは「ああっ!」と小さくつぶやいた。
「ああいうふうに、お姉ちゃんみたいにエステルを安心させてあげるのは、わたしがやりたかったのに……」
「姉代わり、という意味ではソフィアのほうが適任な気がしますね」
俺が肩をすくめて、笑いながら言うと、フィリアは頬を膨らませた。
「わたしにだってできるもの!」
「それなら、それにふさわしい存在になるように、フィリア様は成長しないといけませんね。今回の件では、エステルを助けようとするあまり、フィリア様は少し冷静さを欠いていたような気がします」
俺はなるべく優しく言ったが、フィリアはちょっとしょんぼりした。
「ごめんなさい……」
「謝ることはありませんよ。でもですね、人を助けることは、意欲と情熱だけでは実現できません。『汝、熱い心と冷たい頭脳を持つべし』という言葉を知っていますか?」
「ううん。熱い心と冷たい頭脳?」
「そのとおりです。昔の学者の言葉なんですけどね。人を救いたい、正義を現実のものとしたいという熱い心。その熱い心の目指すところに行くために、理論的に物事を解き明かしていく冷静な頭脳。その両方が人には必要なんです」
「つまり、わたしには、熱い心はあるけれど、冷静な頭脳が足りない。ソロンはそう言いたいんだね?」
「よくできました。そういうことです」
俺はそう言うと、フィリアの頭を撫でた。
今回、フィリアがエステルだけを助けようとしたのは、皇族として必ずしも正しい行いではないかもしれない。
ただ、フィリアには、人を救うための熱い心が備わっている。
それは身を張って、俺を助けようとしてくれたことからも明らかだ。
フィリアは銀色の髪を撫でられながら、くすぐったそうに、そして、恥ずかしそうに身をよじった。
俺はくすりと笑った。
「フィリア様が熱い心を忘れずに、そして冷静に物事を考えられるようになれば、きっと皇族としても立派な方になれますよ」






