68話 少女エステルは悲鳴を上げる
俺とフィリアは屋敷に戻ってくると、さっそくいつも使っている書斎に入った。
書斎は俺がフィリアに授業をするための場所だけれど、いつもと違うのは、書斎の机の上に幼い少女の身体が横たえられていることだ。
それは伯爵令嬢ポロスの娘エステルの「死体」だった。
俺が宝剣テトラコルドを使って、エステルを処刑したということになっている。
俺はフィリアを振り返り、微笑した。
「俺はフィリア様に、エステルを助けると約束しましたね?」
「う、うん……。そうだけど……でも、エステルは、死んじゃって……」
「俺はフィリア様との約束は破りませんよ」
フィリアが大きく瞳を見開いた。
屋敷の外でエステルが生きていると話すと、誰かに聞かれてしまう可能性もあったし、フィリアは演技が得意なほうでもないだろうから、俺はあえて黙っていた。
「ソロンがエステルを生き返らせるってこと?」
「いいえ。死者の蘇生は帝国教会が禁忌としていますからね。最後の審判の日に神々が人間を裁くそのときまで、死者は決して蘇ってはいけないんです」
まあ、教会の教義がそうなっているという以前に、死者の蘇生を実現するという魔法は存在しない。
仮にそんなものがあったとすれば、とてつもない代償を払わなければ使えないはずだ。
「俺はね、死者蘇生の魔法なんて、そんな恐ろしいものは使えません。できることは多少の小細工のみです」
エステルは、ぼろぼろの布切れをまとっている。
罪人としてそんなぼろ布を着せられていたわけだが、栗色の髪と青い瞳の貴族らしい容姿の少女には、あまりにも不似合いだった。
俺はためらいなくその布切れを剥がした。
胸のあたりの大きな傷跡は、見るだけで気分が悪くなるようなものだった。
その身体は赤黒い血で汚れている。、
俺が宝剣でエステルを貫いたときについたものだ。
フィリアが俺を驚いた表情で見た。
「な、なにしてるの!?」
「まあ、見ていてください。フィリア様」
宝剣テトラコルドを抜き放つと、俺はそれをエステルの身体の上にかざし、軽く横に一振りした。
そうすると、一瞬のうちにエステルの胸の傷跡は消えた。
ただし、血の跡のほうは残っている。
「エステルの胸に剣が刺されたというのは、一種の幻覚です」
「魔法で死んだように見せかけたってこと?」
「そのとおりです。ただし、賢者でもなんでもない俺に使える幻視魔法は限られています。剣を振るった最初の一瞬とこの胸の傷跡のみしか幻覚では誤魔化せませんでした」
「なら、この血は? それにいまもエステルは身動き一つしないけど……」
「血はカラスを幻視魔法で見えなくして、エステル処刑のときにその身体の前で貫きました。ほぼ人間の心臓を貫いたのと同じように、吹き出す鮮血を見せることができましたからね」
そして、もうひとつ。
エステルが死んだように動かないのは、昏睡魔法のおかげだ。
エステルに剣を振るうと同時に、俺は宝剣テトラコルドを用いてこの昏睡魔法を発動させていた。
傷跡の幻覚、動物の血の跡、そして身動きしない死体があれば、あの場にいた人間たちもエステルは死んだものだと誤解する。
俺の師匠のルーシィが開発した魔法の一つに、極めて効果の高い昏睡魔法がある。
それをかけられたものは仮死状態となり、結果的に死体同然の昏睡状態に陥る。戦闘用だけでなく医療用にも使えるという代物だ。
学生だった頃、ご機嫌斜めのルーシィにその昏睡魔法をかけられそうになって冷や汗をかいたけれど、なんとかそれを回避して、逆にその魔法の使い方を教えてもらったのだ。
ただ、この昏睡魔法はあまりにも効果が強すぎる。
下手をすると、このまま目を覚まさないという可能性も低くなかった。
特に、こんな小さな女の子に対して使えば、どんな副作用が起きるかわからない。
ただ、それ以外に、あのときにエステルを助ける方法はなかったから仕方ない。
さて、ここで失敗すれば、フィリアをぬか喜びさせたことになってしまう。
俺は宝剣を抜き、「この者を覚醒させよ」と短くつぶやいた。
しばらく、何の反応もなかったので焦ったが、やがて机の上の少女はびくっと震えた。
そして、すやすやと小さな寝息を立て始めた。
俺はほっとした。
これでエステルを助けることができ、フィリアとの約束を果たすことができたわけだ。
フィリアが嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。
「ほんとにこの子、生きてたんだ! ありがとう、ソロン」
「どういたしまして」
「そして、ごめんなさい」
「なんでフィリア様が俺に謝るんですか?」
「だって、わたし、ソロンが本当にこの子を殺したんだって思い込んじゃったんだもの。ソロンはわたしとの約束を守ってくれていたのに、そうだって信じることができなかった」
「俺はフィリア様を含めて、みんながエステルが死んだと誤解するようにしたんですよ。だから、フィリア様は俺を疑って当然なんです」
フィリアは首を横に振り、優しく微笑んだ。
そして、その小さな両手で、俺の手を包み込んだ。
「ふぃ、フィリア様?」
「わたし、もう二度とソロンのことを疑ったりしないよ。わたしの師匠はわたしとの約束を守ってくれる人だって、知っているから。だから、ソロンのこと、ずっと信じているからね?」
「あ、ありがとうございます……」
俺はただの魔法剣士で、俺の力なんて大したことはない。だから、いつでもフィリアの望みを叶えられるわけでもない。
フィリアは俺のことを疑ってくれていいし、疑うべきだと思う。
でも、俺がそう伝える前に、フィリアは俺からそっと離れた。
そして、フィリアが部屋の扉を開く。
「その子の服、用意してきてあげないとね!」
フィリアは弾んだ声でそう言うと、勢いよく飛び出していった。
そういえば。
エステルは何一つ衣服を着ていなかったはずだ。
俺は慌てて、エステルが身につけていた布を探したが、遅かった。
机の上のエステルが目をこすりながら、ゆっくりと起き上がった。
エステルはきょとんとした様子で首をかしげる。
淡い栗色の髪がふわりと揺れる。
そして、ぼんやりした目で俺を見つめ、そして、自分の身体を見た。
エステルの目から見れば、部屋の中には自分と男が一人だけ。
しかも俺は自分を殺そうとしていた相手だ。
そして、エステル自身は素っ裸。
エステルはみるみる顔を赤くし、薄い胸を両手で隠した。
そして、青い瞳で怯えたように俺の目を見た。
まずい。
完全に誤解されている。
俺はエステルをなだめようとしたが、やはり間に合わなかった。
「……きゃあああああああぁっ!」
小さな女の子の悲鳴が屋敷のなかに響き渡った。






