59話 皇帝官房第三部の代理人
耳元で優しい声がした気がした。
いや、気のせいじゃない。
俺はうつらうつらしながら、その声を聞いていた。
「わたしは、ソロンのこと、大好きだよ。でも……」
その続きは聞き取れなかった。
夢か、現実か、はっきりしない。
とんとんと、軽く肩を叩かれた。
それから、頬を引っ張られる。
「ねえ、起きて。ソロン」
目を開けると、すぐ近くに寝間着姿のフィリアがいた。
フィリアは微笑み、俺の瞳をのぞき込んでいた。
書斎で椅子に座り、フィリアが遺跡のことを調べる姿を眺めていたら、いつのまにか寝てしまったらしい。
窓の外はもう、明るくなりはじめていた。
慌てて俺は椅子から立ち上がった。
「ふぃ、フィリア様! 申し訳ありません!」
「ソロンが謝ることないよ。わたしが無理を言って、この部屋にやってきたんだし。眠かったのに、ごめんね?」
「いえ、せっかくフィリア様に授業をしてさしあげたかったのに、寝てしまうなど、情けないかぎりです……」
「いいよ。ソロン。わたしも一緒に寝ちゃってたし。代わりに、おはようのキス、してもいい?」
「え?」
「前はソロンがわたしを起こしてくれて、おはようのキスをしてくれたよね?」
「あー、そうでしたね」
俺が父の役で、フィリアが娘の役という設定で演技していたとき、父は娘におはようのキスをしてくれるものだと、フィリアに迫られた。
そして、俺はフィリアの頬にキスしたのだ。
でも、今はそうじゃない。
フィリアが楽しそうに言う。
「もういっぺん、『父と娘ごっこ』する?」
「あれは疲れますから勘弁してください」
「残念。でも、おはようのキスはするからね? クラリスやソフィアさんと一緒の部屋でするわけにはいかないし、だから、いましかできないもの」
「いや、別にする必要があるというものでもないのでは……?」
「わたしがそうしたいの。今度はわたしからソロンにする番だから」
「ええと。前も言いましたけど、そういうのは、父と娘か、恋人同士でするものですよ」
「うん。わたしたちはどっちでもないよね。でも、大事な師匠に、感謝の気持ちを込めてするのは、そんなにおかしいことかな?」
「俺がルーシィ先生の頬にキスをしたりしてたら、変だと思いません?」
俺の師匠のルーシィは、年齢がそれほど離れていないせいか、俺との距離感が近かった。
けど、頬にキスをしたりなんてしたことはない。
フィリアが首をかしげた。
「うーん。ソロンがルーシィとそういうことをしてたら、ちょっと嫌な気分になるかな」
「そうでしょう?」
「でも、ソロンがわたしとそういうことをしてくれるのは、大歓迎なの。わかる?」
フィリアが上目遣いに俺を見つめた。
俺が戸惑っていると、フィリアは微笑んだ。
「ソロンは何もしなくていいんだよ。ただ、わたしがキスをするのを受け入れてくれればいいだけ。簡単でしょ?」
「いや、でも、ですね……」
「ソロンが立ったままだと、キスできないよ。わたしのほうが背が低いから。ね、座って?」
俺はためらった。
ここでフィリアの言うとおりにしていいんだろうか。
でも、フィリアをほったらかして寝てしまった負い目もあるし、断りづらい。
それに頬にキスされるだけだ。
俺は観念して椅子に腰掛けた。
フィリアは真正面から俺を見つめ、少し顔を赤くした。
「自分からするのって、恥ずかしいね」
「俺も恥ずかしくなりますから、そういうこと言うのはやめてくださいよ」
「だって、前は頬にキスしたときも、甲にキスをしてくれたときも、ソロンからしてくれたもの」
「まあ、そうでしたが」
どちらもフィリアのお願いを聞いて、キスしたのではあるけれど。
フィリアの視線はじっと俺に注がれいて、たぶん、俺の唇のあたりを見ていた。
フィリアがそっと俺に顔を近づけてきた
慌てて俺は口の前に人差し指を立てた。
ちょんと人差し指に、フィリアの唇が触れる。
「フィリア様……キスするのは頬のはずですよね?」
「そ、そうだよ?」
「いま、俺の唇にキスしようとしていませんでしたか?」
「き、気のせいだよ」
そう言って、フィリアは顔を真赤にした。
口の前に立てた人差し指に、フィリアの唇が触れたのだから、フィリアは嘘をついている。
きっと唇同士でキスをするつもりだったのだ。
でも、それはさすがにまずい。
俺は立ち上がり、微笑んだ。
「嘘つきの悪い子には、おはようのキスをしてもらう必要はありませんからね」
「そ、ソロン。ごめん、嫌だった?」
「嫌ってわけではないですけどね」
こんな可愛い子にキスされて嫌な男はいないと思うけど。
でも、そういう問題じゃない。
俺は続けた。
「そういうのは、フィリア様が本当に好きになった、大事な人にしてあげてください。師匠をからかうためにするものではありませんよ」
「ソロンはわたしのこと、大事じゃないの?」
「大事ですよ。大事な俺の弟子です。だから、フィリア様と普通の意味でのキスをするわけにはいきません。代わりに俺にできるのは……」
ぽんぽんと俺は机の上の事典を叩いた。
俺の役目はフィリアの師匠だ。
だから、フィリアには、魔術でも、それ以外の面でも一人前になってほしい。
「さあ、勉強の続きをやってください!」
「ええっ」
「とりあえず俺は軽食と飲み物を持ってきますから。頑張れますか?」
「……うん。頑張るよ。ソロンが教えてくれるんだもの」
「ありがとうございます」
俺は微笑み、フィリアが作業にとりかかったのを確認して、部屋の扉を開けて厨房へと向かった。
フィリアに言ったとおり、フィリアは俺を慕ってくれる大事な弟子だ。
俺にできるのは、フィリアを教え導き、そして守ることだ、
それはネクロポリス攻略阻止よりも重要なことだと思う。
俺は厨房へ向かう途中で、ふと新聞を読みたいなと思い、屋敷の入口に行って、日刊紙『言論』の朝刊を回収した。
新聞には、悪魔や混血者の虐殺が帝国辺境で起きたことや、アレマニア・ファーレン共和国との戦況がさらに悪化していることが書かれていた。
それに、七月党幹部のポロスたちの公開処刑が今日、予定されていることも報じられている。
反政府組織の七月党はまだ壊滅したわけではなく、幹部の一部が逮捕されたに過ぎない。
その勢力は帝国政府にとって大きな脅威となっていた。
処刑実行の予定地を見て、俺は驚いた。
この屋敷のすぐそばだ。
そのとき、朝靄のなかから一人の男が現れ、屋敷の入口に立った。
黒服の長身の男は、胸に金色の十字架をかけていた。
その十字架は、彼が帝国教会の聖職者であることを示していた。
男は死んだような虚ろな目で俺を見つめ、そして告げた。
「私は皇帝官房第三部の代理人・神父ガポンだ。君は魔法剣士ソロンで間違いないね?」
「そうですが……」
「皇女フィリア殿下にお越し願いたい。七月党の反逆者の処刑だが、殿下に立ち会っていただきたいのだよ」
ガポン神父は淀んだ声でそう言った。







