171話 クレアのキス
結局のところ、俺の師匠のルーシィたちは亡命に成功した。
当初の予定通り、商人のペルセの貿易貨物にまぎれて、アレマニアへ行ったのだ。
ルーシィがいなくなるのは残念だけれど、これが永遠の別れというわけではないはずだ。
俺とルーシィの道はきっと同じ一つの場所につながっている。
そうルーシィは言っていた。
そして、俺はルーシィにキスされたことを思い出し、赤面した。
もともと俺とルーシィは師弟というより、歳の近い友人という雰囲気だった。でも、ルーシィにとってはそれだけじゃなかったみたいだ。
ルーシィが帝国に戻ってきたとき、俺はどんな顔をして会えばいいんだろう?
一方、俺たちについていえば、ガポンが死んだことにより、反逆の嫌疑は晴れた。
クレア少尉とその上官であるという大尉の手で、諸々は内密に処理されたのだ。
クレアの軍情報局と、ガポンの皇帝官房第三部の対立がその背景にはあるのだけれど、もちろんクレア自身が尽力してくれたことも大きい。
そのクレアは、戦いが始まる前は、決着がついたら、俺の屋敷に住むと言っていた。
ところが、それは実現しなかった。
「いきなり西方の共和連盟との前線に異動だなんて、ひどいです」
クレアは軍の人事に対して、ぷりぷりと怒っていた。
ここは俺の屋敷の一室だ。
事態収拾の翌日の夜、クレアが俺に話があると言って屋敷を訪ねてきた。
そこで俺とクレアは、二人で今後のことを話し合っているのだ。
クレアは白い清楚なワンピース姿で、ちょこんとベッドに腰掛けていた。
軍服のときと違って、こうしていると普通の少女らしい雰囲気だ。
本当ならクレアもこの屋敷に住むはずだったのだが、異動のせいですぐに任地に赴くこととなった。
「せっかくソロンさんのお屋敷に住むことができるはずだったのに……」
「そうだね。それに……前線、か……」
俺は考えた。
クレアの異動先は激戦地の一つだ。
当然、戦死者だって少なくない。
クレアはふふっと笑い、灰色の淡い瞳で俺を見上げた。
「もしかして、心配してくれています?」
「まあ、うん。心配だよ」
「大丈夫ですよ、わたしはそんなに弱くありません。魔王の力は手に入りませんでしたけど、水晶剣はありますし、それにわたしは軍人なんです。それより心配なのは……」
「心配なのは?」
「わたしがいないあいだに、ソロンさんが誰かとくっついちゃうことですね」
「くっつくって……」
「ルーシィ先生も同じことを心配していたでしょう?」
「たしかに、そうだけど」
「ルーシィ先生だけじゃなくて、わたしもソロンさんのことが好きなんですよ? わかっています?」
クレアはいたずらっぽく微笑んだ。
反対に、俺はうろたえた。
そう。
ルーシィだけでなく、クレアも俺のことを好きなのだという。
クレアはガポンとの戦いで重傷を負い、死を覚悟した。
そのとき、俺に告白したのだ。
「本当は戦いが終わって、ソロンさんの屋敷に一緒に住んで、いいムードのときに言うつもりだったんですけど、うまくいきませんね」
「どうして俺を……」
「頼れるカッコいい年上の男の人が、わたしは好きなんです。昔も今も。幼かったわたしには、ソロンさんはとても頼りがいのある優しいお兄さんでした。クレオン兄様もソロンさんのことをいつも褒めていましたし」
「俺はそんなに頼りがいはないよ。騎士団だって追い出されてしまったし、クレオンとはいまじゃ敵同士だ」
クレアは首を横に振り、優しい瞳で俺を見つめた。
「だからこそ、わたしはソロンさんのことが好きなんです。ソロンさんはわたしと同じ側の人間で……わたしも、ソロンさんみたいな人になれるような気がして……。覚えてます? ソロンさんは『魔法が使えなくても、クレアはクレアだよ』と言って、わたしのことを慰めてくれました。優しく髪を撫でてくれたソロンさんの手は温かくて……」
「覚えているよ。クレアが十二歳のときのことだよね」
「もう六年も前なんですよね。あのとき、わたしは嬉しかったんです。わたしは幼かったから、そのときの自分の感情をどうすればいいかわからなかったですけど……でも、今ならわかります」
急にクレアは立ち上がり、そして、正面から俺にしなだれかかった。
不意打ちに驚いて俺はそのままクレアを抱きとめる。
クレアの体は華奢で、柔らかかった。
クレアはそっと顔を近づけ、そして俺の唇にキスをした。
クレアの甘い香りに、俺は硬直した。
やがてクレアはゆっくりと俺から離れ、くすっと笑った。
「どうでした?」
「ええと……」
「ルーシィ教授としたときと、どっちがどきどきしました?」
クレアは自分の小さな赤い唇を指差し、微笑んだ。
俺が答えられずにいると、クレアは素早く俺に身を寄せ、もう一度、俺と唇を重ねた。
俺は逃げることもできず、クレアにされるままになっていた。
こういうとき、どうすればいいんだろう?
クレアはキスを終えると、俺を上目遣いに見た。
「ソロンさんは違うかもしれませんけど、わたしはファーストキスだったんですよ?」
「俺なんかで良かったの?」
「言ったじゃないですか。わたしはソロンさんのことが好きだって。ここで押し倒してくれたっていいんですよ?」
クレアは冗談めかして、でも挑発的に言った。
その背後にはベッドがある。
今後のことを話し合う、という当初の趣旨からはかけ離れた状況になってきた。
俺は自分の頬が赤くなるのを感じた。
と、突然、部屋の扉がばんと開き、どさどさっと何人かの人がなだれ込んできた。
クラリス、ソフィア、それにフィリアだった。
どうやら、三人とも扉に耳を押し当てて聞き耳を立てていたらしい。
で、うっかりバランスを崩して扉を開けてしまい、部屋のなかへと倒れ込んできてしまったみたいだった。
フィリアたちは引きつった笑みをうかべていて、クレアはため息をついた。
「今日はここまで、みたいですね」
「ええと、クレア。俺は……」
言いかけた俺の唇をクレアはもう一度奪った。
そして、すぐに離れると、人差し指を立てた。
「告白の返事なら、いりません。だって、ソロンさんがいますぐはわたしのことを選んでくれないって、わかっていますから。でも、いつかソロンさんにわたしのことを大好きだって言わせてみせますから」
クレアはそう言い切ると、部屋から出て行った。
あとには、俺と、この屋敷の三人の住人が残された。
フィリア、ソフィア、クラリスの三人が不満そうに俺を見つめている。
「「「浮気はダメなんだから!」」」
三人の言葉がきれいにハモリ、俺は頭を抱えた。
ともかく、俺たちの屋敷には日常が戻ってきたみたいだ。
つまり。
俺は皇女の家庭教師としての本分を尽くすべきだろう。
さっそく、明日からのフィリアの教育計画を立てないと。






