129話 ソロンとフィリアの決断
俺の腕の中のフィリアは、穏やかな表情をしていた。お酒の影響で、少し気分が良いのか幸せそうな感じだった。
フィリアは、自分を皇帝にしようという計画が進んでいることなんて、想像もしていないだろう。
しばらく迷ってから、俺は思い切ってフィリアに聞いてみた。
「フィリア様は皇帝になってみたいと思ったりしますか?」
きょとんとした表情をした後、フィリアはくすくす笑い出した。
「どうしたの、ソロン? そんな変な質問して」
「変でしょうか?」
「だって、わたしが皇帝になるなんて、そんなことありえないもの」
まあ、それが普通の反応だと思う。
フィリアは何人もいる皇帝の子どものうち、十八番目の皇女だ。
母は悪魔の奴隷で、ずっとフィリアは帝室から冷遇されてきた。
俺は言ってみる。
「でも、もしなれると言われたら、どうですか? 仮に、ですよ」
「うーん……。ぜんぜん想像できないかも」
「まあ、そうですよね」
「でも、わたしが皇帝になったら、きっといろいろソロンのためにしてあげられるよね。でっかいお城を作ったりとか」
「気持ちはうれしいですけど、この屋敷で十分ですよ」
俺が笑いながら言うと、フィリアはうなずいた。
「でも、たとえば、ルーシィとソフィアさんが戦争に行くのを止めるってこともできるよね」
俺はどきりとした。
フィリアを皇帝にする計画の目的の一つは、隣国の共和国との戦争を終わらせることだった。
そうすれば、ルーシィとソフィアが、共和国との戦争の前線に立たされるのも止められる。
フィリアはやはり鋭いところがある。
「今のわたしには何の力もないけど、皇帝になればソロンの役に立てるんだ。そっか……」
「前も言いましたけど、俺の役に立とうなんて考えなくていいんですよ。それより、ちゃんと魔法の勉強をしてくれるほうが、師匠の俺にとってはずっと嬉しいことですから」
「ありがとう。でも……本当に?」
じっとフィリアは俺を見つめた。
俺はなるべく表情を変えないように努力したけれど、うまくいかなかった。
「なにか心配事があるんじゃない? そんな顔をしてるよ」
「いえ……」
「ソロンはわたしを心配させないようにしてくれてるんだよね? でも、もしソロンが悩んでるんだったら、わたしもソロンと一緒に悩みたいな」
フィリアはそう言うと、柔らかく微笑んだ。
これ以上、隠すべきではない。
俺はそう思った。
フィリアは俺を信頼してくれている。
なら、俺もその信頼に応えなければならない。
俺はフィリアに経緯を説明した。
ルーシィたちがフィリアを皇帝につけようとしていること。
俺もその計画に加わらないかと勧誘されたこと。
フィリアは大きく目を見開いた。
「無理してフィリア様が皇帝になろうとする必要はないんですよ。それはものすごく危険なことですから。ただ、ルーシィたちとともに皇帝をめざすという選択肢もあるということです」
フィリアは相変わらず俺に抱き着いたままだったけれど、その身体は小さく震えていた。
やがてぴょんと飛び跳ねるように、フィリアは俺から離れ、食卓の椅子に戻った。
「お茶、冷めちゃうよね」
「そうですね。とりあえず紅茶を飲みましょうか」
俺たちはふたたびカップを手に取り、紅茶を味わった。
ついでに、たくさん出したジャムも食べる。
フィリアが赤い舌を小さく出しながら、スプーンにつけたジャムをなめていた。
しばらくしてフィリアは目を伏せながら言う。
「わたしが皇帝になれば、みんなを助けてあげられるってことだよね。それなら、きっとわたしはルーシィたちの言うとおりにしたほうがいいと思うの」
「大事なのはどうすべきか、ではなく、フィリア様がどうしたいか、だと思うんです。ソフィアたちの件だって、べつの方法でなんとかできるかもしれません」
「……わたしは、皇帝になることよりも、ソロンとこうしてお茶をしている時間のほうが、きっと楽しいと思うの」
そう思うのなら、皇帝になる必要なんてない、と俺は言おうとしたけれど、それよりもフィリアの次の言葉のほうが速かった。
「でも、わたしが皇帝になれば、ソロンとずっと一緒にいられるよね」
たしかに現状のままでは、いつ政府の役人が来て、俺とフィリアを引き離そうとしてもおかしくはない。
けれど、それは皇帝になる以外の方法でも、それは回避できるはずだ。
「皇帝になってもならなくても、俺がフィリア様の師匠であることに変わりはありませんよ。それに俺はフィリア様を一人にしないと約束しましたから」
フィリアは俺を見上げ、そして嬉しそうに微笑んだ。
「そっか、そうだよね。ソロンはわたしに皇帝になってほしい?」
俺はフィリアが皇帝として仰々しい姿をしているところを想像して、くすっと笑った。
やっぱり、この子に皇帝というのは似合わない気がする。
フィリアが頬を膨らませる。
「いま、なにか失礼なことを考えなかった?」
「考えていませんよ。フィリア皇帝陛下、というのも見てみたい気もしまして」
「やっぱり変なことを考えてる」
「要するに、今のままのフィリア様がいてくれれば、俺はそれだけで十分なんですよ」
フィリアが目を丸くし、それから顔を輝かせ、椅子から立ち上がってふたたび俺に飛びついた。
さっき離れたばかりなのに、またフィリアに抱きつかれてしまった。
「ありがとう、ソロン」
フィリアが俺を上目遣いに見て、ささやく。
その顔は少し赤かったけれど、お酒のせいだけではなさそうだった。
俺も思わず赤面し、「お礼を言われるようなことは何もしていませんよ」とつぶやいた。
フィリアは俺に体重を預けると、安心したように頬を緩めた。
「皇帝になれば力が手に入るけど、でも、それはきっとわたしの望む力じゃないの。わたしはソロンみたいになりたいんだもの」
「俺みたいになる必要なんてありません。フィリア様には、俺なんかよりずっと偉大な魔術師になっていただきたいんですから」
「わたしがソロンよりも強くなるなんて想像できないな」
「大丈夫ですよ。フィリア様は俺よりずっと才能がありますから。きっと自分で自分の道を切り開く力を手に入れられます」
俺はそう言ってフィリアの肩を優しく叩いた。
フィリアは皇帝にならない。
それでいいと思う。
そのとき、食堂の扉がゆっくりと開いた。






