42話 イリーナ・ドルファリエは油断していない
――――決して油断していたわけではなかった。
後方から迫る光を感じながら、イリーナは現状を冷静に分析した。
目の先に居るレイン・クレストがやけに柱に寄って駆けていたことから、『6』の壁面のプレストラップが発動される可能性は充分に理解していた。
では何故今対応が遅れたと感じているのか。
言うまでもなく自分なりに周りを把握し、プレストラップが発動されることはないと判断したからである。
レインを追いかける直前、イリーナは『3』の方へと視線を向けたが、こちらを窺っている気配は感じられていない。つまり、『3』の方からプレストラップの発動をさせるのは不可能なのである。
では『5』の方からプレストラップを視認していたのか。
それもイリーナがさっと見る限りあり得なかった。『5』の方角からプレストラップを放つことは不可能となれば、選択肢は限られる。
言わずもがなザストがタイミング良くプレストラップを展開した可能性である。後方はウルとミレットがいるため確認を怠っていたが、彼がレインに合わせて攻撃をする場合も充分あり得た。
だがイリーナは、ザストが『6』の壁面のプレストラップを発動させるとはまったく思っていなかった。
大きな理由は先ほどザストのサンガとウィグを見た時、彼の得意なバニスがサンガだと把握できたからである。
そしてサンガは、『2』や『6』の壁面のプレストラップで使用するには相性が悪いのである。
サンガは最も速度のあるバニスとして知られているが、攻撃範囲が狭いことが最大の欠点である。例え相手を柱と柱の間に追い込んだとしても、少し回避するだけでサンガは避けられてしまうのである。
フィアやウィグのように範囲の広い攻撃の方が後ろのプレストラップと合っており、イリーナは今発動しているプレストラップのバニスがサンガでないことを確信している。
だからイリーナは、完全に不意を突かれているのだ。
プレストラップを見ている者もいないしレインやザストでもないのにどうしてプレストラップが発動されているのか。
それを今考えたところで答えは出ない。
イリーナは直撃を避けようと後方を窺いながらレインと同じように柱の方に近付こうとする。
――――そこでイリーナは、プレストラップから放たれる瞬間のフィアを見て、思わず目を見張る。
自分が放つものと遜色のない、下手すれば上回っているとも感じられる強力なフィア。例え判断が遅れてもBクラス程度のフィアなら回避できる可能性もあると高をくくっていたが、その祈りは通じなかった。
どうしてBクラスにこんなバニスを使用できる者がいるのか。イリーナは現実逃避気味にそう考えていた。回避の気力さえも一瞬で削がれてしまっていた。
――――イリーナを現実に引き戻したのは、放たれたフィアに側面からぶつけられたウィグだった。
ウルが放ったであろうウィグが、フィアの進行を阻止するように全てを『3』の方向へ持って行こうとする。
しかしながら単純な火力はフィアの方が強く、全てを吹き飛ばすことはできない。
ウィグから逃れたフィアが再度イリーナに襲いかかろうとした瞬間、第二陣がフィアを掻き消した。
ウィグより少し遅れてフィアに到達したオルテは、ウィグの取りこぼしを全て回収するように炎を呑み込んでいく。第一陣のウィグによって火力が抑えられたフィアは、オルテから逃れることはできなかった。
完全にイリーナの不意を突いたはずの一撃は、強力なウィグとオルテによって完璧に阻止されてしまった。
「……っ!」
驚きを隠せなかったレインだったが、すぐに表情を改め再度『5』の方へと走っていく。
「……今回は感謝しなきゃ」
文字通り命拾いしたイリーナは、小さな声でチームの2人お礼を述べながらレインを追いかける。ここでレインを逃がしたら、それこそ2人に合わせる顔がなくなってしまう。
レインたちのフィアが消え去った時、イリーナはレインが心底驚いているのをこの目で確認した。すぐに取り繕っていたが、逃げるように移動した時点で動揺しているのは分かる。
それはつまり、この一撃に全てを懸けていたということ。防がれるとは思っていなかったということ。
イリーナ自身直撃どころか気絶すら覚悟したほどに見事な攻撃の流れだった。これを作戦に組み込んでいたというのなら、敵ながら天晴れと言う他ない。
だが、すんでのところでウルとミレットが阻止をした。どうして攻撃に気付けたか分からないが、気付いた以上AクラスがBクラスに読み勝ったと判断できる。
ならば最後は、ポイントでも勝つためにレインの背中を狙うのがイリーナの役割だ。
レインは『5』の中心に差し掛かると、初期位置として待機していた左側へと曲がっていく。
『5、8』間では既にイリーナのプレストラップがないと判断しての動きならば正しいが、Bクラスを勝たせるためには愚策だと感じてしまう。
何故ならばレインたちは既に『5、8』間でプレストラップを2ヶ所発動している。バランス良く配置することを考えるならば、この柱間には使用できるプレストラップはないだろう。
万が一あったとしても、既に発動された柱側に寄って駆け抜ければ、回避は容易に行える。レインを追いかけるのに、特段大きな問題はない。
イリーナは使用されていないプレストラップを警戒するように、右側に寄って『5、8』の柱間へと侵入する。このままいけば、柱間を抜ける頃にはレインを捉えることはできるだろう。
突発的な行動に見えつつも冷静に判断を重ねたイリーナ。攻撃を進めながらも、守りの考えも抜かってなどいない。
イリーナは決して、油断していたわけではなかった。
だからこの事態は、決してイリーナのせいではない。
――――光るはずのない右側のプレストラップが、イリーナが通る直前で突如発動したのだから。
「な……んで?」
イリーナは咄嗟にブレーキし、駆け抜けるのを止めて引き返す。先ほど以上に状況が整理できないまま、それでもイリーナは頭の中で何度も思考した。
どうして同じ場所からプレストラップが発動しているのか。
今まさにバニスを放たんとするプレストラップは、開始早々レイン・クレストが使用していたはず。予期せぬ先制攻撃だったため、特にAクラス側には頭に残っている。それにも関わらず、何故2度目の発動が起きているのか。
イリーナは力の限り回避に努めた。ポイントを奪われないよう必死に移動した。
――――しかしながら、先ほど不発だったAクラス級のフィアが、イリーナの背中を間違いなく掠めてしまう。
熱と共に訪れた衝撃で前方に転んでしまうイリーナ。
苦痛を堪えながら起き上がると、目の先――『2』の方向からこちらを窺う一つの影が今度こそ視認できた。
その影――――アリシエール・ストフォードは、自分のバニスに当たったイリーナを思案しつつも近付いていないことに葛藤していた。どこか不安げに、忙しなく手や身体を動かしている。
イリーナは激怒した。見事な戦術と火力で自分を追い込んだ相手が、戦闘訓練中にも関わらずふざけた隙を見せていたからだ。
「逃げろアリシエール!!」
レインの怒号が轟くと同時に、イリーナは真っ直ぐスタートした。標的が完全に、レインからアリシエールに切り替わる。
アリシエールは慌てて『1』の方へと駆けだし、身を隠すことに専念した。接近されてしまえば、イリーナ相手に抗う術はないのである。
だがしかし、イリーナ・ドルファリエに一切迷いはない。
背中に痛みを感じながらも、今まで以上の速度で『2、5』の柱間を抜けていく。自分を侮辱したアリシエールを黙ってこのまま見逃すわけにはいかない。
――――そのイリーナを、レインが黙って見逃すわけがない。
既にアニマを解除したレインは、急ぎセカンドスクエアを展開、目の先にある『2』の壁面のプレストラップを発動する。
弱々しいウィグがプレストラップから放たれるが、このままでは横からあっさりイリーナに回避されるだけ。
だからレインは、そのウィグにサードスクエアを付与。左手を迅速に動かし、イリーナが突破する前にイメージを反映させた。
「っ……!」
先を急ぎたいイリーナも、足を止めざるを得なかった。
レインのウィグは、通常よりゆったりとした速度で柱間を行ったり来たりするようにイリーナへ向かっていく。
ダメージこそまるでないものの、『プレストラップから放たれたバニスに当たれば30ポイント』という今回のルールでは非常に厄介なものである。
分かりやすい足止めに苛つきながら、イリーナは自分のフィアでレインの変則ウィグを吹き飛ばす。
すぐさま走り出しアリシエールを追いかけるが、『1』の方には姿が見当たらなかった。
足を止めずに『1』の方へと進み続けるイリーナだが、少しずつ現実を受け入れ始めなくてはならなかった。
イリーナが使用できるもう一つのプレストラップは先ほど通った『2、5』の柱間にあるため、バニスによってポイントを稼ぐことはできない。
つまり、上手くアリシエールに接近できても、奪えるポイントは僅か10。先ほど奪われた30ポイントには到底届かない。
ウルやミレットも頑張ってくれているとは思うが、レインやザスト相手では追いかけてポイント稼ぐことが難しい。プレストラップを発動したくても、そこまで誘導するのが容易ではない。
『1』の角を左に曲がると、ようやく『4』の方向へ逃げるアリシエールを視界に捉えた。フィアの火力は感服せざるを得ないが、身体能力は決して高くないようだ。
イリーナは気付かれないように加速し続け、接近する。途中後ろを振り返ったアリシエールと目が合ったが気にしない。
数秒後、イリーナはアリシエールの左手を取り、その背中に触れた。アリシエールの表情に憂いが帯びたが、すぐに切り替えイリーナの背中を狙おうとする。
その右手を難なく左手で掴むと、イリーナは晴れきった笑顔でアリシエールを見た。
「ありがとう、今日は戦えてよかった」
「えっ?」
「今日の経験は必ずリナの糧になる。ゴメンね、Bクラスだからって侮っちゃって」
息を切らせたアリシエールに、一切呼吸が乱れないイリーナがそう告げる。
不意の賞賛に首を傾げるアリシエールだったが、その理由はすぐに判明した。
『5分経過。戦闘訓練はここまでとする』
ローリエのアナウンスが響き渡り、戦闘訓練の終わりを認識する一同。
そこで告げられたのは、大半が決して予想していなかった勝敗の行方。
『結果だが、60対70で……Bクラスの勝利!』
下剋上。レインたちBクラスが、精鋭揃いのAクラスに勝利した。