21話 裸の付き合い(淑女編)
男性陣が仲良く談笑を始める少し前の時間。
女性側の浴室では、なんともいえない気まずい空気が流れていた。
「あの、アリシエールさま。やはり私、先に上がりましょうか?」
「いえ! 大丈夫です! 問題ありません!」
勢いよく浴室まで連れてきたマリンがたじろいでしまうほど、アリシエールは挙動不審だった。
浴槽に入ってからも、両腕で胸元を隠しながら、背を丸めて身を縮めている。
「そ、その、家族以外の方とお風呂に入るのが初めてですので、その、緊張してしまって」
アリシエールはアークストレア学院の寮に入居しているが、レインと同じく、共用の浴室を利用したことはない。
ただでさえ人見知りの彼女だが、他人に肌を晒して堂々としていられるほど肝は座っていない。
それを聞いたマリンは、深刻な面持ちでアリシエールへ語りかける。
「それはよろしくないですね。私も人見知りする方ですが、そこまで抵抗があるわけではありません。せめて同性相手程度は慣れておかないと、意中の殿方相手に見せられなくなってしまいますよ?」
「と、と、と、殿方!? そんなの無理です一生無理です神に誓って無理です!」
首を左右に振りながら、お湯を強く跳ねさせるほどの身震いで否定の意を示すアリシエール。
予想外の方向で面を食らってしまうマリンだが、先ほどとは違い、これはこれで会話ができそうな気がしてきた。
「そんなこと言ってぇ、アリシエールさまでしたら殿方の方が放っておきませんよ。クラスの男性から挨拶されたり声をかけられたりしてませんか?」
「ないですないと思いますあったかもしれないですが覚えてないです!」
何気に酷いことを口にしているアリシエールだが、そこに気付く様子もなくただただ慌てふためいてる。
異性に対する耐性がまるでない箱入り娘のような彼女が、哀しいかなマリンの嗜虐心を刺激してしまう。
もう少しからかってみたいと貴族相手に大変失礼なことを思うが、今の言葉で一つ大きな疑問が生まれてしまった。
「そうなると、アリシエールさまとレインさまはどういった経緯で仲良くなられたんですか?」
その言葉で、興奮気味だったアリシエールの頭がゆっくりクールダウンしていく。
そして、先ほどまでの慌てようとは打って変わって、穏やかな口調で語り始める。
成績が隣であったこと。その縁あってか、ペアで実技訓練をすることになったこと。その中で、医者でさえも匙を投げたアリシエールの問題を、レインが解決したこと。
「そこからクレストさんだけでなく、カスティールさんや他の方々と仲良くする機会が増えました。クレストさんには、言葉で言い表せない程に感謝しています」
優しく微笑むアリシエールを見て、釣られるようにマリンも笑う。
わざわざアリシエールを浴室に連れてきたのは、自分の主の学院生活を主以外の視点から聞いてみたかったからである。
思っていた流れではなかったが、結果としてレインの話を聞くことができて嬉しくなった。
そしてホッとした。自分の主が、普通の学院生活を送れていることに。
ここ数年、ずっと苦しみながら生きてきたレインのことを知っているからこそ、今の平和な事実に感極まってしまう。
「ま、マリンさん?」
「も、申し訳ありません……嬉しさのあまりつい」
目頭が熱くなるのを堪えながら、アリシエールに向けて笑みを浮かべるマリン。
レインの過去を知らない人たちにこの気持ちを晒す訳にはいかない。レインたちが再び学院に戻られたとき、リゲルと共有するまでは我慢すると決めた。
「成る程、よく分かりました」
話を聞きながらマリンは、レインがアリシエールと仲良くなった理由に二つ思い当たった。
一つ目は境遇、その苦しさを知っているレインが、同じ苦しみに悩む相手を放っておけるはずがない。自分の主はそういう人間だ。
そして二つ目――――
「……シーさまに似てるんですね」
「すみません、今何か言いました?」
「いえ、何でもありませんよ」
目の前の少女に微笑みかけながら、マリンは頭を切り替えることにする。
ここからは、アリシエールと仲良くすることに気持ちをシフトする。
「成る程つまり、アリシエールさまの中では、レインさまとザストさまの間で気持ちが揺らいでいるということですね?」
その言葉を理解した瞬間、アリシエールの顔は一瞬で茹で上がってしまう。
「ちち違います! お二人のことは尊敬していますがそういった浮ついた気持ちではなく! そもそもお二人に対してとても失礼ですし!」
「何を言いますかぁ、アリシエールさまにお慕いされたら二人とも嬉しいに決まっていますよ。残念ながらレインさまをお渡しする訳にはいきませんが」
そう言うと、アリシエールは真っ赤な顔色のまま、二人しか居ない空間にも関わらず小声でマリンに尋ねる。
「マリンさんは、クレストさんのこと、その、好きなんですか?」
マリンの言動から察することは容易に出来たが、アリシエールは本人の口からその答えを聞きたかった。
「もちろん! レインさまのためなら何だってするって思うくらいには慕っています」
そして、その答えは一も二もなく返ってきた。照れたように頬の手を当てるマリンが、スイッチが入ったように語り始める。
「幼い頃は『可愛いしっかり者』って感じで愛くるしかったのですが、今は凜々しさまで兼ね揃えて何度悶死させられたことか……! レインさまにお仕えできたことは幸運だったと言うしかないです、今がこれほど幸せなんですから」
思いの丈を赤裸々に語るマリンを見ながら、アリシエールは『好き』という気持ちの偉大さに圧倒される。
アリシエール自身、家族やレインとザストといった友人のために頑張ろうという気持ちは芽生えている。
だが、ここまで真っ直ぐな想いを、それこそ『何だってする』と思うまでの気持ちを持ち合わせたことはない。
「マリンさんは、どんな風にクレストさんを好きになったんですか?」
だからこそ、アリシエールは聞かずにはいられなかった。他人を好きになるとは何なのか、どんな風に訪れるのか。
――――自分にも巡ってくるものなのか。
一瞬惚けたように固まったマリンだったが、真面目な表情のアリシエールを見て頬を緩める。いつの間にか二人の物理的な距離が縮まっており、羞恥を忘れるほどにアリシエールが真剣なことが分かった。
そんな彼女に伝えられるように、マリンはその頃の気持ちを思い出しながら語る。
「アリシエールさま、今の私からは想像つかないかもしれないですが、昔の私はすごく根暗だったんですよ?」
「えっ?」
思わぬ先制パンチに、アリシエールは頓狂な声を上げてしまった。
「人見知りだったこともあるんですが、我が儘な自分は祖母にしか見せられませんでした。だからレインさまのことも最初は怖かったんです。自分の鈍くささや要領の悪さはよく知っていたので」
とても信じられないと思いながらも、アリシエールはマリンの言葉に耳を傾ける。
「でも、レインさまのことを知って、恐怖はなくなりました。その代わり、申し訳なさでいっぱいになりました。どうして自分なんかがこの人に仕えているのか。そもそも仕事が嫌いで、迷惑ばかりかけているのに。恥ずかしながら、周りから陰口を叩かれていたことも知っています。気付いたら私は、レインさまのメイドを辞めたいと泣きながら本人に伝えていました」
マリンは言うように、今の彼女を見た限りではまったく想像できない話だった。
でも、マリンの表情に憂いがないのは、この後に大きな転機があったからであろう。マリンがレインを慕い始める大きなきっかけが。
「――――と、大きな前振りをさせてもらいましたが、残念ながらここでお話は終了です」
「ええっ!?」
アリシエールが一番聞きたかった部分が遮られ、思わず大きな声を上げてしまう。これでは、マリンが昔と性格が違ったことしか分からない。
「ここからレインさまが完璧に私を立ち直らせてくれるんですが、それは私とレインさまの秘密ですから。申し訳ありませんが、お伝えするわけにはいきません」
「……そういうことでしたら。お話しいただきありがとうございます」
肝心な内容を聞けず終いであったが、レインに仕えるのを辞めたいと思う程までに追い込まれたマリンが、今もこうして仕えている。
それだけで、レインが自分の時と同じようにマリンを手助けしたのだと分かる。自分は『好き』には結びつかなかったが、『敬意』には結びついた。そう思えば、自分が誰かを好きになる時はあっさり訪れるのかもしれない。
それを知れただけでも、アリシエールにとっては大きな収穫だった。
「では私の話はここまでとして、アリシエールさまに一つお願いがあるのですが」
「お願い、ですか?」
そう言うと、マリンは首を傾げながらアリシエールに質問する。
「どうしてレインさまのことをクレストさんと呼ぶのですか?」
「えっ? そ、それは……」
不意の質問に言い淀んでしまうアリシエール。名前で呼ぶのは恥ずかしいとか、いきなり距離を詰めたようで失礼だとか、言いたいことはあったがすぐには伝えられなかった。
「申し訳ありません、困らせるつもりはなかったのですが。対外的には私もクレストの姓を使わせていただいておりますので、クレストさんと呼ばれると一瞬自分のことかと思ってしまうんですよね」
「ああ、成る程」
「よろしければレインさまのことは名前で呼んでいただけませんか? 私と話す時だけで構いませんので」
「そ、そういうことでしたら……」
マリンのお願いは実に単純で、容易なことだった。理由も理由なので、今後の会話では直していこうとアリシエールは思っていたのだが、
「では、早速言ってみましょうか」
いきなり実行を促され、固まってしまう。容易なことのはずなのに、言葉が口から出ない。
「分かりました、では私に続いて言ってください。アリシエールさまは、レインさんって呼ぶのでしょうか?」
「そ、そうですね、そう呼ぶんだと思います」
「分かりました。まずは十回言ってみましょう。レインさんレインさんレインさんレインさんレインさんレインさんレインさんレインさんレインさんレインさん。どうぞ!」
「え、えっと、れ、れ、レイ……」
「アリシエールさま! シャキッとしましょう! 本人が居ないときくらい言えないと一生言えないですよ!」
「は、はい! れ、レインさん、レインさん」
「声が小さいです! 心を込めて、『今日も相変わらず格好いい』と思いながら!」
「それはマリンさんだけでいいのでは!?」
本日出会った、人見知り同士の二人。各々の気持ちを吐き出しながら少しずつ縮まった距離。
しかしながら二人とも、浴室でレインの名前を呼ぶだけの不思議な儀式を行うことになるとは、露ほど思っていなかった。