3話 思わぬ事態
「どうして俺を頼ってくださらなかったのですか!?」
リゲルの大きな声に、レオルは身体がひどくビクついた。反射的に、目尻に涙が浮かんでくる。
怒りを示していたリゲルの表情が、いつのまにか悲しげなものへ変わっていた。
「レオルさま、貴方は聡明な方だ。学習して、できることが増えて、何でも自分でやってみたいのは分かります」
そこまで言って、リゲルは再度声のトーンを上げた。
「でも、できないことだってあるんです! それがあるのが当たり前で、俺たちを使うのが貴方の仕事なんです! できないことをやって貴方が傷ついたら……ご家族がどれだけ悲しまれると思ってるんですか……?」
最後の何より優しい言葉で、レオルは涙を堪えられなくなった。
リゲルを振り切り、涙を拭いながら書斎を後にする。
「レオルさま!?」
リゲルの呼ぶ声が聞こえたが、無視してレオルは自室へ駆けていく。背中より後頭部より、軽く叩かれた頰の方が何倍も痛かった。
レオルはリゲルが言うように、聡明な子どもだった。両親の教えを理解し、何事も素早く吸収していった。
だからこそ、レオルは両親に怒られたことがなかった。怒られるような行いをする前に、正す力があった。それが自分の良いところなのだと、レオルは子どもながらに思っていた。
その長所が明確にレオルへ語りかける、間違っているのは自分だと。リゲルの言ったことが正しいのだと。
運良く軽傷で済んだものの、もしも当たりどころが悪かったら? 落下した本が自分の身体に当たっていたら?
両親や妹たちが悲しむ姿を想像して、レオルは耐えられなくなった。あの場にいるのが恥ずかしくて駆けることしかできなかった。
自分は全然すごくない、賢くないし物分かりもよくない。怒ってもらえなきゃ、そんなことにも気付けない愚か者だ。
――――後でリゲルに謝ろう。
自室に着いたレオルは、ベッドに飛び込んで枕に顔を伏せる。怒られたこともそうだが、書斎の片付けをせずに飛び出してきたのを思い出して反省した。
リゲルと前みたいに話ができなくなるのは絶対に嫌だ。リゲルに嫌われるのはもっと嫌だ。
だからレオルは、1番落ち着ける自室で、リゲルと面と向かって話せるように心を落ち着かせる。
少なくとも今日中には仲直りするのだと、レオルは静かに決心するのだった。
―*―
自室から出たレオルの足取りは分かりやすく重かった。
仲直りすると心に決めたものの、リゲルが自分を嫌ってしまったのではないかと思うと気が気でない。そうなれば、自然と歩く速度は遅くなるというものだ。
そうは言っても永遠に続く廊下などあり得ない。レオルはあっさり書斎の前まで戻ってきた。
いつもはここに来るのが楽しみでしょうがなかったが、今はドアを開けるのが怖かった。
だからといって引き下がることもできない。レオルはいつもより重く感じるドアノブを引きながら、書斎の中へ入った。
「……」
書斎には誰もいなかった。
椅子や本は元の場所に戻っているようだが、戻してくれた当人は掃除を終えてこの場を離れたのだろう。
ちょっとだけホッとした自分が、レオルは憎たらしかった。先伸ばししたところで意味などないのに、楽な方へ逃げている自分が確かに存在している。こんな風に考えたことなど今までなかったのに、今日の自分はダメなところばかりである。
――――そういう意味では、リゲルの存在は大きかった。
リゲルが居てくれれば、自分の弱いところに気付くことができる。そこを直して立派な人間になれると、レオルは真剣に思っていた。
ならば、少しでも早く仲直りをすべきである。
今までみたいにいろんなことを教えてほしいと伝えるべきである。
レオルはすぐさま書斎を出て、リゲルを探すことに決めた。
まだ帰るには早い時間、清掃を続けているか別の仕事をしているはず。
「レオルさま!」
まずは食堂へ足を運ぼうと決意したところで、後方から声をかけられるレオル。
振り返ると、そこには心配そうに表情を曇らせる年配のメイドの姿があった。
「ミロッサ、どうかしたの?」
ミロッサと呼ばれたメイドは、ロードファリア家で長く仕えており、当然レオルとも面識がある。
彼女は足を止めたレオルに急ぎ駆け寄ってくる。
「どうかじゃありません、お身体は大丈夫なのですか!?」
そう言うとミロッサは、レオルに目線を合わせるように腰を落とし、両肩に手を乗せた。
「お身体って、あっ……」
レオルは先ほど、自分が椅子から落下したことを思い出す。
しかしながら、それを知っているのは自分とリゲルしかいない。
その心配をしてくれているのだとしたら、ミロッサはリゲルと1度話をしていることになる。
「身体は大丈夫だよ、もう痛くないし」
「そうですか、それなら良かったのですが……」
「それよりミロッサ、リゲルがどこに行ったか知らない? 清掃中だと思うんだけど」
リゲルのことを聞くと、安堵を浮かべていたはずのミロッサの顔が険しいものへと変わる。
1度目を閉じて何か思案したかと思うと、再度ミロッサはリゲルと目を合わせた。
「……レオルさま、リゲルとお会いすることはもうできません」
「……えっ……?」
ミロッサが何を言っているのか、レオルには分からなかった。
リゲルはロードファリア家の執事であり、今後いくらでも会うことはできる。どうしてミロッサはそんな酷いことを言うのだろうか。
「先ほどリゲルと話しました。――――――リゲルがレオルさまに行ったことも」
それを聞いて、レオルの中で全てが繋がった。リゲルはミロッサに、レオルを叩いてしまったことを伝えていた。
「違う、違うんだミロッサ。あれは僕が……」
「リゲルが正しかろうが何だろうが、主人に手を挙げるなど決して許されない行動です。主従というのはそういうものなのです」
有無を言わせないミロッサの物言いに、レオルは反論することができなかった。
そうでなくてもミロッサの言うことは分かる。ミロッサの言うことが間違っていないことだって分かっている。
――――だが、あの状況において、レオルはリゲルが間違っているとは決して思えなかった。
「リゲルは今、奥様の部屋に向かっています。自身の解雇を申し出るために」
「解雇って、ミロッサが言ったの!?」
「もちろん私も進言するつもりでした。ですが――――――先に言い出したのはリゲルでした」
それを聞いて、自然とレオルの身体は動き出していた。ミロッサが何か言っていたように聞こえたが、そんなことは関係ない。周りの目など気にすることなく、レオルは全力で母の部屋に向かっていた。
自分の責任だと、レオルは思った。自分があの場をすぐ離れたから、リゲルは強く自責の念に駆られ、辞めざるを得ないと感じてしまったのだろう。
そうだとしたら、話が終わる前に止めなければならない。
リゲルは悪くないと、悪いのは自分であると。
「はぁ、はぁ……」
今日はよく走る日だと思いながらも、レオルは足を緩めない。少しでも緩めたら、全てが終わるような予感がしていたから。
そんな漠然とした予感を、決して実現させてしまってはいけない。
そしてレオルは、汗を搔きながらも、母親の部屋の前に着くことができた。




